77.掌のぬくもり

 夜の気配が漂う小田原城の城内。
 穏やかな静寂は、戦の只中にあるとは思えないほど不似合いだったが、だからこそ闘う人間に必要な時間なのかもしれないと思う。

(そう、政宗さんにも、休息が必要だったんだ――)

 不安に陰る自分を叱咤して、は体を起こした。
 頭の中には、不吉な『もしも』と、息も出来ない程の不安が渦巻いている。


 先ほど知った事実――政宗も、が怪我をしたあの時に倒れ、未だ眼を覚まさないという……その一事に囚われて。




 昼間、義姫の思わぬ来訪で無茶をしたは、そのまま意識を失うように眠ってしまい、再び起きて以後は怒涛のようにいろいろな人に怒られた。
 診察してくれた翁には普段の五割増しに罵詈雑言を受け、まつといつきにも山ほどの病人食と説教を貰い、三傑にはそれぞれから半分脅しのように絶対安静を申し付けられた。

 の背に斜めに走った傷は、やはり斬る側も斬られる側も咄嗟に反応したのが功を奏したのか、傷自体は深くない。
 けれど出血がひどかった為に動かすことが出来ず、この二の丸内に収容された。

 そして、政宗は……翁の話によると、元々毒に蝕まれて動き回れるような状態では無かったという。
 それを二の丸まで出向き、刀を振るうという無茶を冒した。

 ――「体もだが、お心の方が心配だ」

 小十郎が言った言葉――その通りだと思う。

 母に殺されかけ、弟を手に掛けようと決め、そして……目の前に突然出てきたを斬った。
 最後の事は明らかに政宗のせいなどでは無いが、ただでさえ尋常でない精神状態だったところに負担になったのは確かだろう。

 少なくとも、が政宗を想う半分でも大切だと思ってくれているなら、尚更……

「――――疾風」

 名を呼んだと同時に現れた赤髪に黒い脛当ての忍は、縁側近くに膝をついてを見る。

「……いつ呼ぶかと待ちくたびれた」
「……久しぶり」

 大分人間臭いことを言うようになった友人に、は苦笑して挨拶を述べた。
 しかしそれに返ってきたのは只管責めるような眼差し。

「随分と無茶をする」
「う……疾風までお説教? もう皆に散々怒られたんだけど……」
「当然だろう。が悪い」
「………はい。ごめんなさい」

 きっぱりと言い切られ、反論できずにただ謝罪を口にする。
 こうして疾風にまで怒られると本当に情けなくなってくるが、堺を出た辺りで元親と戦っているところに出くわして以来の彼は、妙に張りつめた空気を纏っていて、は眉を寄せた。
 政宗のことが心配で溜まらなくて気が急く一方だったが、明らかに様子のおかしい大切な友人を見過ごすことは出来ない。

「どうしたの? ……しばらく会わない間に何かあった?」

 聞いた質問には無言しか返らなかった。
 は、そうかと思い直して、久々すぎて忘れていた疾風とのコミュニケーション方法を思い出す。

「体調が悪い?」
「違う」

 物事を限定して聞けば、即座に否定が返った。
 その要領で質問を繰り返せば、いずれは答えに辿り着く。

「武田の娘として何かしでかさないか心配?」
「違う。必要ない」
「――じゃあ、私に言いたいことがあるとか」
「言いたいことがあるのはの方だろう」

 その言葉で、はようやく彼の言わんとしていることに気付いた。
 最初の「何かあった?」という漠然とした質問はある意味当たっていたらしい。
 しばらく会わない間にあったこと――疾風が伊達軍先陣を切ってこの小田原城に忍び込み、城内の人間を残らず撫で斬りにした。
 そのことで、が怒って責めるとでも思っているらしい。

「………後悔は?」

 責める気持ちが無いとは言えない。
 無抵抗な上に戦う術を持たない……国同士の争い事とは無縁の女子どもまで殺したのだ。
 それも、慈悲の欠片も無い一方的な虐殺で。
 道徳的には許されないことだろう。
 も、大切な友人である疾風にそんなことをして欲しくは無かった。
 明確に聞いたことは無いが、北条に仕えていた頃には、きっと何の感情も抱かないように人を殺して来ただろうと推察できるだけに、尚更。

 けれど、疾風は伊達の忍だ――忠誠を誓った政宗にやれと言われたことを遂行するのが、彼の選んだ道なのである。
 そして彼に黒巾脛としての『疾風』という名を付け、その道を選ばせたのはのようなものだ。

「後悔は無い」
「なら……」
「後悔は無いが、は俺に殿を止めて欲しかっただろう」

 淡々と告げられた言葉に目を見開いた。
 目深にかぶった兜ごしに見つめてくる瞳はきっと真摯なもので……

「……疾風はいつも私を驚かせるのね」

 彼の成長が著しいのか、自分がすぐに見透かされる程弱くなったのか。
 きっと両方だけれど、見抜かれても嫌悪を感じないのは、疾風が真剣にの気持ちを慮ってくれているからだ。

「――私の気持ちとしては、政宗さんにも疾風にも、ひどいことはして欲しくない。だけど、あなたたちが自分で決めてやったことを、否定したくない」

 だから、と言って疾風を見た。

「疾風を責めるなんてことは無いし、後悔して無いって言葉がすごく嬉しい」

 それは――虐殺を容認するようなその発言は、この小田原城で殺された人々に対する冒涜かもしれないけれど。
 千代が言った通りに、どんな理由があっても人の命を奪うという罪の重さには変わりがないから、それなら後ろばかり振り返っていないで、死んだ人に恥ずかしくない生き方をして欲しい。……自分もそうしたい、と思う。

 の視線を受けた疾風は少し身じろぎ、やがてふっと力を抜いた。

「ならば俺は、の大切な人間の力になろう」
「……それも、疾風が自分で決めたこと?」
「ああ」

 きっぱりと頷いた疾風に、も顔が緩むのを止められないまま溜息をついた。

「私は人使い……忍使い荒いわよ。佐助のお墨付き」
「……構わない。猿飛佐助より俺の方が役に立つ」

 疾風が誰かに対抗する言葉など初めて聞いたはきょとんと瞬きするが、苦笑して座ったまま手を差し出した。

「それは頼もしい。それじゃあ早速力を貸してくれる?」
「最初からそのつもりだ。――忍んで行けば良いのか?」
「誰にも見つからないように、ね。小十郎さんには許可貰ってるから、着いたら目を離して貰っても大丈夫。連れて行って――政宗さんのところに」
「承知」

 元より小十郎から聞いていたのだろう疾風は、軽々と座ったままのを抱き上げ、背中の傷に負担にならないように跳躍した。

 ぐんと重力が掛かったが、すぐに肌に風を感じ、目を開ける。
 どんな仕組みかは分からないが、気付いた時にはもう屋根の上――
 厳重に警備されている本丸の上を影のように飛び、音も無く奥の庭に着地した。

 そっと庭に面した廊下に下ろされ、息を付いた時には既に疾風の姿は無かった。

 ――ありがとう。
 忍んで連れてきてくれたのを無にしないように心中だけで呟いて、はそっと目の前の障子を開けた。


「……………政宗さん」


 部屋に入り、後ろ手に障子を閉めて……外界と区切られた室内で、はようやくその名を呼んだ。

 あらかじめ小十郎に看病したいと頼んでいた為、人払いされた室内とその周囲に人の気配は無い。
 鋭敏になったの感覚でも分からないほど、疾風も離れているようだ。

 静寂の夜に、二人だけ取り残されたようだった。
 もう一度名を呼んで、溢れそうな想いを噛み締めた。

「政宗さん……」

 真ん中に敷かれた布団に眠っているその人の、顔色は非常に悪い。
 枕元に座り、そっとその手を伸ばそうとして……途中で止めた。

「やっと、会えましたね……」

 胸が詰まって、途中で止めた指先が震えた。

 小次郎へと向けられた刃ごしにはゆっくりと見ることも適わなかった、久しぶりのその容貌……
 毒のせいか過労の影響か、幾分やつれたように思われる。
 いつも不敵に笑っていた隻眼は今は閉じられていて、とても静かだ。

 前にもこんなことがあったと、その寝顔を見ながら思った。

 甲府の幸村の屋敷で、を庇って重傷を負った政宗の枕元にも、こうしてただ座った。
 あの時は無事を確認したい一心で、そして政宗もすぐに目を覚ました。
 会話をして、ほんの短い時間だけ熱を分け合って……は大切な目の前の人から逃げた。

 思えば、あれから互いにいろいろな事があったと思う。
 
 はたくさんの人と出会って、自分の過去と闇の一部も思い出して、苦しくて迷って……けれど会いたくて。
 背中を押されてようやく、自分の心に嘘をつかない道を貫こうと決めた。

 そうやってに大きな変化があったように、甲斐で療養した直後に小田原を『撫で斬り』によって取り返した政宗も、彼の中で目まぐるしいほどの葛藤や苦悩があったに違いない。

 いつまでも、同じままではいられない。
 の心や想う形……そして二人の関係だって、以前と同じでは無いだろう。

 けれど、そんなことは関係無かった。

「………っ、は……」

 不意に政宗の気配が変化し、ははっとその顔を覗き込む。
 眉根を寄せ、苦しげに呻いた顔はとても辛そうで……けれど、額の汗を拭っても起きる気配は無い。

 何か辛い夢でも見ているのだろうか。
 戦場、政治、母親――政宗の背中や肩は逞しいが、一人では到底背負いきれないものを背負っている。

 少しでもその荷を持ちたいと思うのは傲慢なのかもしれないが、ただの友達としてでも、部下としてでも良い――どんな形でも傍に居れば、出来ることがあるかもしれない。

 微かに布団から転がり出た大きな手を、は今度こそ躊躇い無く握った。
 眠っていても、強張って冷たいその掌に――無性に泣きたくなった。

 何が変わったところで、関係無い。
 が政宗の傍に在りたいと想う、この気持ちさえあれば――

 握った手に力をこめ、祈るように目を閉じる。

「政宗さん、政宗さん、政宗…さん……――――」

 何度も何度も、繰り返し名を呼ぶ。

 は本当に無力だ――こんな風に苦しんでいる政宗の前でも、何も出来ない。
 せいぜいが、この冷たい手を温めることくらいで。

 それでも、自分の何を引き換えにしてでも、政宗を守りたい――

「神様がいるなら、どうかお願いします。政宗さんを、守って――……」

 『撫で斬り』で修羅になり、また弟を殺すことで修羅になろうとしたその心……
 愛して欲しいと求めた母親に毒を盛られて傷ついた体……

 不治の病を治す為にが未来の別世界に飛んだ奇跡の力があるというなら、どうかその全てで政宗を守ってほしい。

 握った掌からぬくもりと共にが持つあらゆるものが伝わるように……
 あらゆるものから、この人を守れるように……

「傍に…いますから……」

 今までよく離れていられたものだ、と思う。
 もう離れられないだろうな、とも、他人事のように。

 手を握っただけで、眠っている顔を見るだけで、こんなに胸が苦しくなる。
 この目が二度と開かなかったら、と思うだけでも世界が止まりそうだ。

「政宗さん――――」

 想いを込めて、名を呼んで。
 眠りの世界でも苦しんでいる政宗を、その淵から守るために――



 






「――

 名を呼ばれてはっと覚醒したは、覗き込んできている小十郎を見てピクリと体を震わせた。

 暗かった室内には、障子越しに朝日が注いでいる。
 一晩中起きているつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 布団の端に突っ伏していたは、慌てて自分の手元を見た。

 それは一晩中そうしていたようにいまだにしっかりと繋がれたままで、その手を辿っていくと昨晩と全く同じ姿があった。
 いまだ眠り続けている政宗に瞳を曇らせ、小十郎を振り仰ぐ。

「すみません、いつの間にか寝ちゃったみたいで」
「お前もそんな体なんだ、無理も無い。それより、もうすぐ卯の刻だ……一度戻った方が良い」

 確かにそろそろ城内の人間が起き出す時刻である。
 人目に付かない内に戻らなければならないのは分かっていたが、どうしても離れがたく思ってしまい、政宗を見つめた。

「……一晩中握っていたのか?」

 聞かれて初めて、それを恥ずかしいことだと意識した。
 思わず赤くなって、手を離す。

「いや、これはですね――……」

 図らずも声が大きくなってしまったその時だった。
 離したと思った手は相手の方からの拘束で解かれず、はっと見守るたちの目の前で眠り続けていた隻眼が開く。

「っ! 政宗さん――!」
「政宗様――!」

 思わず身を乗り出したと小十郎の目の前でゆっくり瞬きをして数秒、ようやく緩慢な動作でその視線が二人を捉えた。

「小十郎……」

 声は掠れていたが、言葉はしっかりしていた。
 そして続くようにと視線が絡み……
 ……政宗の目が、怪訝そうに顰められた。

「お前は……誰だ……?」

 思わず息を呑んだのは、と小十郎も同じ――

「なっ…何を言っておられるのです。ではありませんか、冗談にしては余りにも……」
……?」

 とっさに声が出ず茫然としたは、相手の目の中に自分が……『』が映っていないことを悟った。
 それは初めて会った人間を見る……警戒心と困惑が混ざった眼差し。

「つっ……オイ、小十郎、いま何時だ。頭がくらくらしやがる……一体……」

 片手で起き上がった政宗は、頭を押さえようとしてもう一方の手がの手を握っていることに気付いた。

「アァ……?…………俺が……? ……悪かったな」
「………いえ」

 戸惑ったのは束の間、すぐにその手が離される。
 一晩中繋いでいた手は、離れた途端にひやりとした冷たさを感じた。

 政宗の驚きが伝わっても、はただかぶりを振ることしか出来ない。

「まっ…政宗様、本当に覚えておられないのですか…? お東様と小次郎様のことは……」
「アァン? 母上と小次郎に何かあったのか?」
「い…いえ、その……」

 記憶喪失――自分のことを棚に上げれば、それを間近で見るのは初めてだった。
 本人には何の自覚も無いようだ……の中に過去が無かったのと同じように。
 それでも、小十郎や家族のことは分かるのだから、一部分だけ忘れているということか。

 ぼんやりと麻痺したような思考に、止め処ない考えが流れていく。
 その中で、やがてゆるゆると一つの感情だけが這い上ってきた。

 何が何だか分からない……
 けれど、そう……一つだけ確かなこと……

 は政宗を見つめて、尋ねた。

「……体は、大丈夫ですか……?」
「あ? ……ああ、頭がふらつく以外はどうってこと無い。それよりアンタは……」
「――……った…」
「あ?」

「何とも無くて、良かった――」

 政宗が、無事に目を覚ましたということ――それだけは確かだ。
 もう大丈夫だと思ったら、他の心配事は全て吹っ飛んでしまった。
 ただ、そのことだけに安堵し、消えた不安の代わりに温もりが胸を満たす。

――――」

 小十郎が絶句したように名を呼び、政宗も目を瞠っていた。

 ぽたりと膝の上に落ちた熱い滴で、自分が泣いているのだと知って慌てて顔を隠す。

「――アンタは、一体……」
「………すみません、失礼します」

 戸惑いがありありと浮かんだ政宗の言葉を遮るように頭を下げて、部屋から出る。
 足早にその場から離れて、しばらく行ったところで庭に降り、人影の無い場所で崩れるように蹲った。

「っく……………ふ……」

 安堵と息苦しさと、喜びと悲しみと……それでもやはり安心したのが一番大きくて。

 ――「……?」

 何の感情も含まず、ただ訝しげに呼ばれた名前。

 自分でも分からない感情を持て余したまま、はただ、声を殺して泣いた。
 ぬくもりの消えた掌を、胸に抱いて。





080217
CLAP