小さな子どもが泣いている。
声も枯れ、涙も涸れ果てるほどに全身で泣き続けるその姿は、見ているだけでも胸に痛い。
けれど、それをただ黙って見ている男が居る。
何も語らず、微動だにせずに立っているその男は、青い着流しを着た愛しい人で――
それらの更に後方から見ているは、居たたまれず声を上げた。
――政宗さん!
しかしそれは声にはならず、彼はに気付かない。
ただ無言で、目前で泣く片目を包帯で覆った子ども――幼き日の自分自身を見つめている。
やがて子どもがしゃくり上げながら一つの名を呼んだ。
――母上ぇ……母上ぇぇぇぇ!!
その瞬間、政宗の静かな背中は仁王のように燃える殺気を纏い、一息に抜刀して泣いている子どもを斬り捨てた。
息を呑んだの目の前で、激しく上下する肩。
それは彼の苦しみを現しているようで……
は堪らず、その背を抱き締めた。
小刻みに震えていたそれは、が触れた刹那に一度大きく震え……そして、不意にその感覚が消えた。
驚いてたたらを踏んだは、自分の手を見下ろす。
突然半透明になった体は政宗をすり抜けてしまったのだ。
――どうして……っ
瞳を歪ませて、は自分の手を握り締めた。
大切な人を支えられないこの手が、憎くて堪らない。
虚ろで孤独な闇を抱えながら、政宗はただ見つめ続けている――血だまりに横たわる幼い自分を。
彼の心の傷を癒したい。
治すことが無理ならば、せめて……もう見なくても良いのだと。
根の深い傷から目隠しして、遠ざけて。
彼を傷つけるあらゆるモノから。
守りたい。
好きな人の為に、自分の手でそれが出来たなら――
今度こそ、真正面から彼と……彼を想う自分自身と、向き合える気がした。
微かな物音と気配に、意識が浮上する。
「ここ…は……」
茫然と呟いた瞬間に、肩を揺さぶられた。
「! 目が覚めたのですか!?」
「え………まつ…さん……?」
萌黄色の小袖を纏った美しい女性は、久しく会っていないの大切な友で――意識が混乱しているところに、更にまつが叫んだ。
「太郎丸! 太郎まーる!!」
障子を突き破って現れたのは、まつが飼っている優秀な鷹。
「早く翁殿を呼んでくるのです! さぁ、一刻も早く!!」
翁――伊達の軍医。
そこでようやく、は意識を失う前の事を思い出した。
それと同時に背中が急激に痛み始める。
「! ! まだ動いてはなりません!」
「…っ!? ようやく起きただか!?」
慌ただしく新しい声が聞こえて、駆け寄ってきた人影を見上げれば、まつの隣に心配そうに瞳を揺らすいつきが居た。
水だ、薬湯だと息つく暇も無く与えられて、呆然と二人を見上げた。
「いつきちゃん……まつさん……」
懐かしい眼差しに、ほっと安堵が押し寄せる。
「お説教は後ですよ、。三日も目を覚まさなかったのですから、まずは何か口にして、精を出さねば!」
「なら、オラの作った米さ食うと良いだ! 自然の神様が恵んでくれた栄養満点の米だべ!」
「それは良いですね! では早速、わたくしは粥でも作って参りましょう!」
矢継ぎ早に言う友人たちは、相変わらずの暖かさで……そして前と同じようにを心配してくれる。
「ありがとうございます……」
「何を言っているのです、これくらい友として当然にございます!」
「当然だべ!」
その二人の本心からだと分かる言葉は、寝起きで混乱していたの思考を落ち着かせた。
背中の傷に障らないよう横臥して、改めて二人を見上げた。
謝らなければならないことも、話さなければならないことも山ほどある。
けれど、どうしても聞きたいことはそれらとは別だった。
――倒れる前の記憶。
突然刃の前に飛び出したに固まった政宗……その瞳の揺れと顔色は尋常では無くて。
夢で見た政宗の様子と重なって、の胸をかき乱す。
「政宗さんは……?」
聞いた瞬間二人の表情が曇り、不吉な予感が背中に走る。
けれど重ねて問おうとした言葉は、直後に感じた気配によって止められた。
ざわりと心にさざ波が起こる――
優美な衣ずれの音が聞こえ、何の前触れも無くその麗人は現れた。
「――政宗ならば、まだ風邪が回復せず寝込んでおる」
明瞭な言葉は美しい声で紡がれたにも関わらず、怜悧な刃物のような鋭さを持っていた。
初対面だが、名乗らなくても一目で分かった。
端正な顔立ちと、意志の強そうな鋭い目元、何より纏っているその孤高な雰囲気が……政宗に似ている。
「何やら騒がしいと思って来てみれば、やはりその方らか。その未熟さは不甲斐無い主譲りか?」
なぜこの人がここに――驚きながらも、はぎゅっと布団を握って体を起こした。
痛みはこの際、全て無視する。
「……お騒がせして申し訳ございません――義姫様」
美しい眉がぴくりと上がる。
不快そうに広げられた扇が、口元を隠した。
「下賤の者が、図々しくも我が名を口にするか」
これには、隣で礼を取っていたまつも顔を上げた。
「なんとっ……はれっきとした武田家の姫。家格も伊達に劣らぬ名門武家ではございませぬか!」
「武田の姫……はて、そのような者が何処におる? わらわは、片倉景綱に縁の者としか聞いておらぬ」
「それは表向きのこと! 分かっておられながら……っ」
更に食ってかかろうとしたまつを、はその腕を取って止めた。
反論しようとこちらを向いた視線に、静かに首を振る。
「良いのです、まつさ…ま。私が悪かったんです。――ご無礼をお許しください、お東様」
淡々と言い、頭を下げたの頭上から、フンと言う溜息と共に更に冷たい言葉が降ってくる。
「下賤の者なれど、我が小次郎を庇っての傷と思えばこそ、この城に滞在を許したのだ。成り上がり者と農民風情まで連れ込んでこれ以上騒ぐようならば即刻叩き出してくれる」
その言葉でここが義姫の起居する二の丸なのだということが知れた。
肝に銘じます、と殊勝に一言返したは、けれど、と続けて顔を上げた。
「まつ様もいつき様も、伊達軍の要となる将――暴言はお控えくださいませ」
「……下郎が、わらわに意見する気か」
「御二方を頼みにしておられる政宗様に反意有りとも取られかれぬ物言いは、賢明では無いと申しあげているのです……それとも、本当に何か含むところがお有りですか?」
真っ向から相手の眼を見据えて言い切ったが、相手も微塵も揺るがずを見返した。
しばしの沈黙が流れ、それを断ち切ったのは義姫――優雅な動作で打ち掛けの裾を捌き、くるりと背を向けた。
「馬鹿馬鹿しい。斯様な戯言には付き合いきれぬ」
「……付き合っていただかなくとも一向に構いませんが、いま一つ……いえ二つだけ」
耐えがたくなってきた傷の痛みに顔を歪ませながらも、は義姫から視線を外さなかった。
「小次郎様に、お怪我はございませんか?」
「……何のことを言っておるか分からぬな。この城で日毎利発に育つ我が息子に、危険が降りかかる筈もない」
それは、あの一件を無かったことにしているという物言いだったが、これ以上の詮議は無理と判断して一先ず納得する。
「そうですか、それは良かった。……では、あと一つ」
額を流れたあぶら汗もそのままに、如何にも鬱陶しそうに留まっているその人にはっきりと告げる。
「例え、どんな理由があったとしても……」
かつて鬼とまで呼ばれた姫君……ちらりと肩越しに振り返ったその苛烈な瞳は驚くほど愛しい人に似ていたが、それを憎悪を持って睨みつけた。
「政宗さんを傷つけた貴女を……私は決して、許しません」
見慣れた瞳はすぐについと逸らされ、その視線は部屋の外に向けられる。
もう興味を失くしたとばかりに、今度こそ振り返る事無くあっさりと退出していった。
「――許さない」
喘ぐように言った直後、はその場に崩れ落ちた。
泣いていた幼い政宗を作った人。
あんなにあの人の愛情を求めて泣いていたのに……それを今のに対するような態度で拒絶したのだろうか。
慌てたまつたちに布団に戻されながらも、身の内を焼く苦しさに、は固く眼を閉じた。
080217
義姫の解釈は所見分かれるところでしょうが、私なりにBASARA政宗の母親ってことで書きたいなと思ってます。
CLAP