75.毒と刃

 政宗の母――義姫。
 出羽の大名最上家の出身で『奥羽の鬼姫』の異名をとる美貌にして豪胆な人。
 伊達家内では、米沢で東館に住んでいたことから『お東の方』と呼ばれている。

 は小十郎について廊下を歩きながら、まだ会った事の無いその人のことを考えていた。


 甲府に居た時に、なりに調べてみたことがある。
 勿論大っぴらに誰かに頼むわけにも行かなかったので独力で、それほど詳しいことは分からなかったが、それでも知り得た事柄は驚くようなものばかりだった。

 義姫は、最上義守の娘で現最上家当主・義光の妹である。
 最上家は現在でこそ政宗に臣従しているが、かつては伊達に負けないほどの格式と威勢を誇った大名家であった。
 伊達・最上は領地を接する隣国であった為、政宗の父・輝宗やその前の代から両家は争いが絶えず、義姫は言わば敵国に嫁いで来たということになる。
 それでも、輝宗との夫婦仲は円満で、子どもにも恵まれた。

 だが、兄の義光とも非常に仲の良い兄妹で、義姫が嫁いだ後も互いに頼りにしていたらしい。彼女の気性を現すこんなエピソードがある。

 政宗が家督を継いだ頃にあった伊達と最上との戦で、兄と息子の戦いに心を痛めた義姫は、戦場の真っただ中を輿で突っ切り、戦場に何十日も居座り命懸けの説得を続け、ついには両軍を撤兵させたという。
 いくら男だてらに武術を嗜んでいたとしても、戦場に出たことも無い女性としては破格の豪胆さだろう。

 その後も、陰に日向に伊達と実家・最上家の為に奔走している。
 通常ならば伊達に嫁いだ時点で最上より伊達を優先させなければならないのだろうが、彼女はそうでは無く両方を平等に扱おうとした。
 それが失敗だろうが成功だろうが、それに踏み切る心のあり方というものに、は興味を持った。

 兄と夫――
 父と好きな人――

 似たような葛藤があったかもしれない人と、じっくり話してみたいと――

 けれどその一方、義姫の息子たちに対する態度には到底疑問しか抱けなかった。

 僅か四歳の時に、政宗は疱瘡を患って生死の境を彷徨った。
 政略で嫁いだとは言え、自分がお腹を痛めて産んだ子が死にかけたのだ。
 何とか一命を取り留め、その代わりに片目を失ったくらいで済んだのは僥倖。
 それくらいで良かったと安堵するところだろう。

 けれど義姫は、政宗を拒絶し、疎んだ。
 片目であることの醜さを嫌い、嘲り、弟の小次郎のみを愛しむようになった。

 その時実際にどんな出来事や会話があったのか、には知りようも無い。
 けれど、が肺病に苦しんで父母に手厚い看護を受けている時も、政宗は一人孤独に病と心の傷に耐えていたのだ。
 一番欲した母親の愛情を得られず――いや、得られないだけでは無く、最初は与えられていたそれを突然失って。

 それは確実に、政宗の中で大きな傷となっている。
 思い返した彼の言動からも、そう思わざるを得なかった。

 だからは、義姫の真意を知りたいと思った。
 彼女だって本当は政宗を愛していて、止むに止まれぬ事情で冷たい態度を取っていたのだと――そう理解したかった。

 所詮他人である自分が勝手に抱いた幻想で、ただの願望だ。
 けれど、それが甘い夢だったと、こんな形で突き付けられるなんて――

(毒殺……)

 自分の子供を。
 自らの手で殺そうとした――


 義姫や小次郎は、先日米沢から呼び寄せられて小田原城に住むようになったばかりだったという。
 彼らと政宗は、普段は別々の館に起居して顔を合わせることすら稀だというのに、今朝突然、義姫自らが政宗に朝食の膳を運んだ。
 そして政宗は何も言わずにそれを口にし、毒に倒れたと――。

 そんなタイミングで義姫と繋がりがある武田のが現れたのだから、小十郎たちが警戒するのも当然だろう。
 実際に武田が関与していたかどうかは、にも分からない。
 父の信玄は公明正大な人だが、智略に優れた武将でもあるし、軍師の山本勘助もついている。政治や戦の駆け引きでは綺麗事ばかりを言っていられない。

 しかし、あからさまに怪しい母の行動……そして目の前に出された食事。
 政宗は、どんな気分でそれを食べたのだろうか。

 楽観的な人では無い。
 母親を信じたいという気持ちが強かったとしても、それによって命を落とすかも知れないというリスクは決して負わないだろう。
 いくら多少毒に耐性があると言っても、全く無事というわけにはいかないのだし、こうして倒れることくらいは想像出来た筈だ。
 だったらなぜ――?
 それほどに、義姫に対する政宗のコンプレックスが大きいのか、それとも他に何か理由があるのか――……


「――気を付けろよ、
「……え?」

 前を歩く小十郎が唐突に言った言葉に、考え事をしていたは一歩遅れて反応した。

「ここ最近の政宗様の行動を、批難する奴らが家中に居る。そいつらは事もあろうに政宗様を廃し、小次郎様を当主へ据えようとお東様に取り入ってるらしい」

 潜められた声での会話は、「だからお前も武田の人間として利用されないように気を付けろ」と続けられたが、はそれどころでは無かった。
 雷に打たれたようにしてその場に足を止める。

 義姫は、政宗を殺して小次郎を当主に据えようとした――?
 そしてその動きを後押しする人間が家中に居る。

 最近の政宗の動きと言えば、北条・前田と続いて、武田にも出兵し、豊臣に奪われた小田原を強引に奪い返した――城内の人間を撫で斬りにして。そして今また、越後を廻る大国間の争いに参戦しようとしている。
 確かに反発が出てもおかしくは無い。
 けれどこれほど事が大きくなっては、軍内からクーデターでも起きて混乱を生んでしまう……。

 そしてその原因となっているのが、もう一つの旗印――小次郎だ。

 なぜ政宗は、そんな怪しい食事を食べたのか――毒と知っていて、敢えて食べたのだとしたら?

「小十郎さ……」
「小十郎様ァ!!!」

 真っ青になって紡ごうとした言葉は、慌てて駆け込んできた男の声によって遮られた。

「大変です、筆頭が刀を持って二の丸に……!」
「どこです!?」

 は思わずその男に聞き返していた。
 顔を隠した女に突然詰め寄られた彼は驚きに目を丸くしたが、構ってはいられない。

「二の丸は……小次郎さんの部屋はどこですか!?」
「っ! オイ、!?」

 勢いに押されるようにあっちだと示された方向へ、は駆け出していた。
 小十郎の驚きの声にも答えている余裕は無い。

 政宗が母に毒を盛られた――
 そのキーワードがなぜこんなにも不吉に感じたのか……今になってようやく分かった。
 学校の歴史の授業でさらりと聞いたことがあったのだ。

 ――伊達政宗は、母親に毒殺されかけて、その原因となった実弟をその手で斬り殺した――

 その時は歴史に興味も無かったし、別段テストに出るような事柄でも無かったので全然真面目に聞いていなかったが、何か引っかかる感じがしていたのはこれのことだったのだ。

 小次郎のことを穏やかに話す政宗……兄上兄上と意地を張りながらも慕う小次郎……仲良く話す兄弟。
 そんな姿が目の奥によみがえり、は歯を食いしばった。

「駄目……そんなの絶対っ……!!」

 毒を盛られたという既成事実さえあれば、政宗に対する旗印を上げた人間を尽く粛清出来る――

 それでもわざわざ毒を煽ったのは、苦しさを紛らわせる為もあるのかもしれない。
 母の企みを潰す為に……小次郎を斬るしか無いと、覚悟を決めて。

 政宗だって、斬りたくなど無い筈だ。
 他にどうしようも無いのだとしても、誰もが不幸になるそんな道は選んで欲しくない。

 の勘違いであって欲しい――
 そう思うが、そうではないだろうと冷静な自分が言っていた。
 だからこそ、脇目も振らず必死に走る。

 忍びこんだ時よりも格段に速いスピードで辿り着いた二の丸の高い塀を越え、庭から奥へ突っ切った所に、視界の端に青い着流しが見えた。

「政宗さんっ……!」

 叫んだ声は、距離に阻まれて届かない。
 ここに弓矢が無いのを悔いながら、ゆらりとその着流しが吸い込まれて行った部屋へ走った。

 小次郎を斬れば、何よりも誰よりも政宗が傷付く――

「政宗さん、駄目――――!!!!」

 飛び込んだ先には、今にも刀を振り降ろそうとしている政宗と寝具の上で震える小次郎。
 何を思う暇も無かった。

 ただ、体が動くままその間に飛び込み、腕の中に小次郎を庇う。

「っっっっ――――!!」

 息を詰めたのは三人同時だったのかもしれない。
 咄嗟に身を捻ったと、刀を止めた政宗。
 けれど勢いは殺しきれず、背中を熱い痛みが駆け抜けた。

っ……!!!! これはっ……政宗様っ!? !!!!」

 慌てた小十郎の声が聞こえて、抱き起こされた。
 激しい痛みと霞む意識……急所は外れたと思ったが、以外と出血はひどいのかもしれない。
 そんなことを他人事のように思いながら、血塗れの小十郎の手を見つめていたは、腕を振り払って身を起こした小次郎に目を向けた。

…!? 本当に……? お前どうして……っ」
「小次郎さん……無事……ですか……?」
「私は何とも無い! それよりもお前がっ……」

、てめぇ……」

 言葉に詰まったような小十郎など滅多に拝めるものでは無い。
 しかも責めるような響きを感じて、は苦笑した。

「さっき……言ったじゃないですか…」

 そうして、抱き止めてくれている小十郎の肩越しに、逢いたくて逢いたくて堪らなかった人を見た。

「私は、政宗さんを……守った…だけです……」

 隻眼を見開いて立ち尽くす政宗の顔は、暗がりにも分かるほど真っ青だった。
 震えた手から血に塗れた刀が落ちる。
 その瞳は打ちのめされたような、傷だらけの子供のような、追い詰められたそれで――

 背中よりも鋭い痛みがの胸を刺した。

「ごめ…さい、政宗さん……」

「…………………………?」

 小さく紡がれた名は驚くくらい掠れていて。
 の心臓を締め付けた。

 結局傷つけてしまったのだ――そう思うと、堪らなく悲しかった。

 もっとちゃんと謝りたい。
 そして自分は大丈夫だと、小次郎を斬らないで欲しいと、そうきちんと伝えなければ――

 泣き出しそうな気持ちで足掻いたが、それは叶わず……

! オイ、しっかりしろっ! ――政宗様っっ!!」

 小十郎の声と騒がしく駆けてくる喧騒を聞きながら、は闇よりももっと深いところへと落ちて行った。
 目に焼き付いた政宗の傷ついた瞳が、瞼の裏からも離れなかった。





080210
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