「……綺麗ぇな月だよな」
後ろから掛けられた言葉に、は振り返らずに、はいと答えた。
声の主――慶次も、伸びなどしながら寛いだ様子での隣に並ぶ。
夜の庭――ひっそりと静かなその空間に、月明かりだけを頼りに二人してただ突っ立って。
どれくらい経っただろうか。
慶次がぽつりと言った。
「今から無責任なことを言うよ」
おかしな予告に、は微かに笑う。
「何ですか? 責任の取れない男の人なんて嫌われますよ」
「はは、違いない。けど、男と女の色事じゃなけりゃ、ただの人と人だよ」
肌寒く感じる風が吹いて、いつもとは違って背中に下ろされた慶次の髪を揺らした。
「あんたはさ、早く天下が治まって、戦が無くなればいいと思ってるし、その為に自分も何かがしたいと考えてる」
「――――そう…ですね。……今の、私は」
「今のあんたの話をしてるんだよ」
強い調子で言われた慶次の言葉に、は少し息を呑んだ。
確かに慶次の言うことは、の本音だ。
だが、思い出してしまった過去の自分は……平和では無くその反対を……戦を、望んでいた。
「俺だって昔ちょっと会っただけで、あの頃ののことを良く知ってる訳じゃ無いよ。けど、昔のことなんて関係無い。違うかい? 今どう思ってるのかが、大事なんだ」
「今、どう思ってるか……」
自分の心……一番近くて、遠いもの。
自分でも計れないそれを掴むように、服の上から首に下げた守り袋を握り締める。
昔、慶次が太陽のような笑顔で渡してくれた、貝のお守りを。
「自身は一体どうしたい? あんたのココは一体どうすべきだって言ってるんだい?」
が握った拳の上からトンと胸元を叩いて、慶次はそう問うた。
それは乾いた土に沁み込むように、すんなりとの心に浸透する。
「……分かりません。でも私は……私の大切な人を、守りたい……」
「――そっか。…まあ、そんだけ分かってりゃ十分だよ!」
高らかに笑って、慶次は一歩前に出た。
「俺は、明日ここを経って大和と山城に向かう。も、それが分かってんなら動かない法は無い」
大和と山城――松永と明智の拠点。
慶次の目的は明確だ。
くるりと振り返った晴々した顔と向かい合って、は苦笑した。
「どう動けばいいか分からないから苦労してるんですよ」
「何だ、そんなの簡単だって! 自分に嘘を付かなきゃいいだけの話だ。今のの心にね。――俺は俺の心のままにやるべきことをやる。だからも、行きなよ」
何処へとは言わない慶次に、は苦笑を深めた。
ふわりと少し温かな風が、の背中を押す。
「本当に無責任ですね」
「風の吹くまま、気の向くまま! それが俺の信条なもんでね」
遠慮も無く押さえつけられるように頭を撫で回され、はよろめきながらも笑った。
悪友――そんな位置に落ち着いた"今の慶次"との、しばらくの別れだった。
情報交換をして佐助が去って行った後、その場に残っていた六平太は言った。
「当座の行先を決めかねているなら、堺にある当家の屋敷に滞在すると良い。主からもそう言われている」
「堺?」
確かに現在地から堺は目と鼻の先だ。
だが、豊臣勢力である堺に毛利の屋敷がある筈がない。
そうなると、この場合の『主』と言うのはもう一方――豊臣配下の山内家……千代のことだろう。
は微かな驚きを感じながらも問いかけた。
「六平太、あなたまだ千代様に私の正体を明かして無いの?」
「いや。聞かれたから正直に答えた」
「だったら――……」
「甲斐の虎姫と知っていて、千代は滞在を勧めているということだ」
「………無体なことをされれば、私は実力行使で逃げますよ?」
「それくらいのことは承知しているだろう。心配なら、風来坊殿も一緒に来られると良い」
が長浜を去って後、勢力を盛り返した浅井を警戒して豊臣は長浜城を放棄、山内一豊は新たにかつての今川領――東海道の掛川城を与えられたらしい。
一豊自身は普段掛川と大坂を行ったり来たりしているが、千代は妻女を人質に取る豊臣の政策によって大坂城下に屋敷を構えて暮らすようになったという。
そして港町である堺にも屋敷を建設中とのことだった。
ほぼ出来上がっている普段は空き家となっているそこに、たちを案内してくれるというのだ。
「千代様は今は大坂に?」
「虎姫が居ると知れば、飛んでくるだろう。明日には堺に来る」
は一ヶ月ほど前に別れた千代を思い返した。
何となく、あのひたむきな笑顔に会いたいと思う。
同行してくれるという慶次の言葉に甘えて、二人で堺の山内家の屋敷に入ったのが二日前。
その翌日には六平太の言葉通りに千代がやって来て、純粋に再会を喜ばれ歓待された。
そして慶次が経ったのが今朝……は千代と食事を共にしたり話したりしながらも、ほとんどを一人でぼんやりとして過ごした。
昔の自分のことや、家族のこと、が知る人たちのこと……様々なことが考えるともなしに頭に浮かんで、胸を重くする。
「自分に嘘をつかない……か」
慶次に言われたことは、確かにそれ自体は簡単なことなのかもしれない。
けれど、自分には許されないことなのだと思う。
例えば、どんなに父を助けに戻りたくても出来ないこの現状のように――
「、ここに居たのですか。探しましたよ」
「……千代様」
静かな声が掛けられ、は振り返った。
武芸に全く関わらない千代の気配にさえ気付かなかった自分に苦笑する。
彼女は敵である豊臣の人間なのに、随分と心を許してしまっているらしい。
「まぁ、その呼び方は止めてくださいと言いましたよ? 私の方が『様』と呼ばねばならなくなります。それとも通り名で呼びましょうか?」
「――私が悪かったです。気を付けますから許してください、千代さん」
「分かればよろしいのです」
くすくすと笑い合った二人は、庭の見える部屋に並んで座った。
千代が持って来た酒肴が間に置かれる。
「まだ飲むつもりですか?」
昨日散々付き合わされたは苦笑して言ったが、千代は何を当然のことをといった風情で取り合わない。
好きだが弱いとは違い、千代は随分強いようだった。
「こうして再び会えたのも天の巡り合わせ。友との再会に飲まないでいてどうしますか」
千代は、の正体を知っていながらも、会ってから何も言わなかった。
それどころか、「黙っていてすみませんでした」と謝ったに「ただ者では無いと思っていました」と笑い、長浜に自分を置いていたことで豊臣家の中で何か困ったことは無かったかと問えば「ああ、半兵衛様からに会った時は薬の礼を伝えてくれと頼まれましたよ」と言ってのけた。
聞く所によれば千代と半兵衛は幼馴染のようなものだと言うが、の長浜滞在を知っていた半兵衛も、それを世間話のように何でも無く流してしまう二人も、やはりただ者では無い。
そんな調子で、千代は本当にただの友人として、に接した。
天下の情勢のことにも、武田のことについても一切触れない。
しかし酒を飲み始めてしばらく後、大分気持ち良く酔って来た頃に、千代は唐突に切り出した。
「は、幸せですか?」
聞かれたはパチパチと瞬いた。
酔いのせいか、考える前に口から言葉が出る。
「………分かりません。幸せじゃないといけないんですけど、そんな資格ありませんし」
我ながら、義務なのかとおかしくなった。
けれど心配してくれる……愛してくれる父たちのことを思えば、幸せと感じていなければおかしいのだと思う。
それと同時に、決して消せない過去がある限り、幸せを望むなどおこがましいと。
「……千代さんは幸せだと言いましたけど……本当に?」
酔いの力に任せて、は聞いた。
実は、ずっと聞きたいと思っていたことだった。
長浜でも、何度か聞きかけて飲み込んだ質問。
毎日生き生きと楽しく過ごせる秘訣は何か聞いたに、千代は幸せなだけだと答えた。
けれどその笑顔は様々なことを悟ったような深さを内包していたから。
そのの質問に、千代は欠片も酔っていない表情できょとんと見返し、ころころと鈴を転がすように笑った。
「もちろん本当ですとも。旦那さまの傍で、同じ夢を見ている――その為に生きることが出来る。これ以上の幸せが女子にありましょうか」
まるで、目が醒めるようだった。
そう言って笑う千代が普段より何倍も美しくて、の胸を締め付ける。
泣きたいように込み上げてくる何かに押されるように、思わず口を開いていた。
「私も、好きな人が居るんです」
「まぁ、真ですか? それは何処の誰なのです? 私が知っている殿方ですか?」
矢継ぎ早に詰め寄られて、は苦笑した。
「千代さんの知らない人です」
「どのような方なのです?」
「そうですね……俺様で、自信家で、自分勝手で……何でも器用にこなす癖に不器用で、厳しい癖に…優しいんです」
支離滅裂だった。
けれど、彼の――政宗のことを思い出しただけで泣いてしまう自分が、一番めちゃくちゃだ。
ずっと思いださないようにしていた反動かもしれないし、自覚が無いだけでもう前後不覚に泥酔しているのかもしれない。
千代は少し目を見開いて、そして優しくの肩を抱いた。
ぽんぽんとあやすように背を叩くリズムが温かい。
「よほど好きなのですね……その方は、今は遠くに?」
「……はい。私の方から逃げ出したんです」
「どうして」
「……怖かったから」
「何が怖いのですか?」
「いろいろです。あの人や父上や周りの皆を傷つけること、迷惑をかけること、……嫌われること」
「それは、怖いものでは無く、恐れでしょう」
「恐れ……」
両者は違うものなのかと聞こうとして、なるほど違うものかもしれないと思い直した。
ならば何が怖かったんだろうと考える。
「………目……」
「え?」
「目が……全部を見透かしてて、それでも見えないものに苛立ってて、大きなものを背負っている苦しさを無意識に殺しているような……私を真っ直ぐ見るあの隻眼が……怖い………怖いくらい、好きでした」
口にして、初めてそれが自分の中にストンと落ちた。
逃げたのは、家や立場や自分の過去が持つ闇や――そういうややこしいものが幾重にも複雑に絡まった結果だと思っていた。
けれど、違う……?
いつも、政宗の隻眼の中に自分が映る度に、焼けつくような苦しさと安堵が混ざったような感情に翻弄された。
苦しいほどのあの動悸は……
「ふふ、答えが出たようですね」
千代は笑って体を離し、の目元を袖で拭う。
「けれど、呆れました。好き過ぎて、逃げだしてしまったなどと」
「なっ…ち…違います……!」
「違うのですか? 本当に?」
「う………」
反論出来ない自分が、は本気で意外だった。
口で丸め込むことはお得意だったはずなのに、自分のことさえ弁論できない。
千代相手にはこうも敵わないとは――には会ったことも無い姉が居るが、こういう感じなのかもしれない思う。
「を見ていると、まるで妹か娘のようで……私も昔を思い出してしまって」
「……一豊様とは相思相愛で一緒になられたんでしょう?」
「そうなのですが、出会った頃はちっともだったのですよ。私が十の頃に、両親を戦で亡くして伯父の家を頼る途中、川原で助けて頂いたのが始めなのですが、私の方は仄かな恋心を抱いていたというのに、旦那さまは完全に子供扱いして、挙句の果てに二人して子供じみた口論まで」
ころころと笑う千代は、怒涛の馴れ初めを昔語りのように綴る。
「再会したのは何年も経ってから。旦那さまは織田軍の足軽として、私はその織田に攻められる美濃の重臣の娘として。織田方によって火の海と化した稲葉山城の中で、両親ともども自刃しようとしているところに旦那さまがやって来て……私は嬉しくて嬉しくて。そのまま父の前で、「生きて、一豊様の妻になりとうございます!」と勢い込んで言ってしまったのです。そうしたら旦那さまも「生涯大事にいたします!」と」
落城最中の火の海でプロポーズとは……驚くに、千代はどこか遠くを見るような眼差しで微笑む。
「あれから十数年……私は幸せです。半年前には一人娘を地震で亡くして、一時は私もあの子の傍に行きたいと思ったけれど……それでも、旦那さまが居る場所が私の居場所だから」
はその時ようやく、明るい千代が抱く翳りの正体に気づいた。
千代と一豊の子なら、素直なかわいい娘だったに違いない。きっと仲の良い親子だったのだろう。
地震という天災によって突然その幸せが奪われた時、一体どんな気持ちだっただろうか。
きっと後を追いたかったというのは本心だろう。
それでも、愛する夫の居るところが自分が生きる場所だと――居たい場所であり、居るべき場所であるのだと、そう言いきってしまえるその強さ。
大切な人の傍で同じ夢を見ることが最高の幸せだと千代が言った時、その言葉自体は突飛なことでは無く、一般論である筈のことだった。
それなのに、あんなにの心にすんなり沁み込んできたのは、千代の心に一片の矛盾も無かったからだ。
やりたいこととやるべきことの間に隔たりは無く、力の及ぶ及ばずに関わりなく、ただ全身全霊でそれを遂げようという覚悟がある。
豊臣秀吉の傍で同じ夢を見ることが自分の夢だと……そう言った半兵衛もまた、に無い真っ直ぐな強さを持っていた。
前田として豊臣を止めると言った慶次も、父も、政宗も、この時代に生きる人々の多くが――
自分の心のままに、ひたすら真っ直ぐに燃える命の輝き。
「の生きる場所は、どこなのですか?」
少し意地悪く笑って問う千代。
表情とは裏腹に、優しく背中を押してくれるようなその眼差しを……
はただ無力なままに、受け止めていた。
071229
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