幼いは、一人で山の中を歩いていた。
ふらふらと、覚束無い足取りに合わせて視界が揺れる。
まるで、濃い霧の中から見ているようだった。
それほど、意識は朦朧とし、思考は鮮明とは対極にあった。
だが、その霧は白では無く、真っ黒だ。
闇の靄が頭の中のほとんどを侵食していた。
全てが暗く曖昧な世界で、自分の意思とはどこか離れた場所でただ体だけが動いている。
――暗闇。血。破壊。殺戮。零れ落ちる命。
その中に在る自分が自然で。
その中に在るこの身がおぞましくて。
頑是無い衝動のまま足を動かし、やがて川へと辿り着いた。
――水。流れ。潤い。清め。
穢れの無いその透明を飲み干せば何かが変わるような気がして、顔を近づけたところで体の均衡を失って川の中に落ちた。
手に貼り付くように持っていたものを落としたが構わず、流れ落ちていく血の汚れと臭いに身震いして河辺に這い上がる。
極度の疲労からか、それともとうとう体が壊れたのか……
倒れこんで動けなくなった所に、人の気配が近づいて来た。
「あれ? 大丈夫かい、嬢ちゃん?」
自分といくらも年の違わない、背の高い少年だった。
相変わらず周りの気配には敏感だったが、動けないのではどうにもならない。
「俺は、慶次! 嬢ちゃんの名前は?」
「…………」
「へぇ、可愛い名前だ。ところで、怪我でもしたのかい? それとも、腹が減り過ぎて倒れたとか?」
「………………」
素直に名前を答えたのも、明るい声の裏に眠るものに自分と似通った部分を見たからなのかもしれない。
それでも無神経な言葉に無言で睨み付けると、慶次は大声で笑っての体を軽々と抱え上げた。
「その両方で動けないってのが正しいみたいだ」
「………私を…どうするつもり…?」
「あっはっはっ! 別に取って食ったりしないよ。何か訳ありみたいだし、逆に食わせてやろうかと思ってね。それとも、このまま死にたいかい?」
「……死にたくなんか、ない」
「そうだよなぁ。だから、大人しくしてなって」
「………………」
この時点で信用した訳では無かったが、抗う程の力も残っておらず、そのまま眼を閉じた。
それが、幼い頃の前田慶次との出会いだったのである。
ひやりと冷たいものが額に触れる感覚に、の意識は急浮上した。
手元にあるはずのものが無いことに気付いて、とっさに近くにあった小石を相手の急所目掛けて投げる。
「うわっ……!!」
まともに当たったなら小石と言えど殺傷能力はあるだろうその一投は、しかしとっさに手を上げた相手の掌に当たって、鈍い音を立てて弾かれた。
そこでようやくは、相手が丸腰の町人であることに気付いた。
てっきり自分の命を狙う敵かと思っただけに、荒い息の元で目を見開いて相手を見つめる。
相手も真っ青になって自分を見ていた。
その様子から、本当に無力な人間なのだと分かってやっと警戒を解いた。
「もきっつぁん、コレ……って、! ようやく目が覚めたかい、良かったなぁ! ……ん? 二人とも何かあったのかい?」
「い…いや、慶ちゃん。俺は手拭いを換えてやろうとしただけなんだが……ちょっと、この娘っ子、おっかないぞ」
「おっかない?」
現れたのは、気を失う前に自分を拾った慶次という少年だった。
町人が慶次に事情を話す傍ら、は周りを観察する。
どうやら本当に面倒を見てくれたらしく、怪我の治療もされて木陰に寝かされていた。
思わず殺しそうになったもう一人の男は慶次の知り合いらしい。
おおよその事情を理解するが、感情が欠落したような頭では、特に何の感慨も浮かばなかった。
自分の怪我と体の調子だけを確認したは、特に問題無いと判断して早々にその場を立ち去ろうと腰を上げる。
「おっと、ちょいと待ちなよ! いまそこで美味い握り飯買って来たんだ。食うだろ?」
「………………」
確かに空腹だったので、はもう一度その場に腰を下ろした。
慶次に渡されたおにぎりを警戒しながらも食べる。
その間、何処から来たのだとか、何処へ行くのだとか、いろいろと聞かれたが分からないと答えるしかなかった。
何も思い出せない。
……というよりも、そんなものはどうでもいいし、必要ないと感じた。
どうせもうすぐこの体は壊れる。
それまでは、ただ思うままに好きにすれば良い。
結局名前以外は何一つ満足に答えなかったに、しかし慶次は宛てが無いなら一緒に行こうと強引に同行し、歩き出した。
慶次が一方的に話し、は聞くともなしに無言で歩き続ける……そんなおかしな道中だった。
三日ほどは一緒に居ただろうか。
慶次の纏う雰囲気はとても明るく、の中の何かを揺さぶった。
それでも闇の霧は晴れることは無かったし、相変わらず体はいつ動かなくなっても仕方のない状態だったが、その最後の日――
二人は、活気のある町に着いた。
織田家の本拠・清州の城下町だと、慶次は話した。
「織田家……織田…信長様……?」
「そうそう、今や飛ぶ鳥も落とす勢いの信長様だよ。流石のでも知ってたか……って、そうだ! ここでの家族のことを探してやるよ。尾張か三河…駿河辺りだとしても、良いとこの姫さんなら手掛かりくらい見つかるだろうし」
は隣で喋る慶次の言葉を聞きながら、遠くに見える天守閣を見つめる。
あそこに行かなければ、と漠然と思った。
しかし、ふと目の前に手を差し出され、その主の慶次に視線を戻す。
「これ、何だと思う?」
慶次が差し出したのは、一対の貝合わせだった。
大きさは小さいが、緻密な意匠の逸品であると分かる。
「この前会ったもきっつぁんが作ったやつでさ、こいつのお陰で命拾いしたって言ってたんだ。何でも、いきなり赤く光ってが投げた石を弾き飛ばしたんだと」
確かに急所の米神を狙ったと思ったのに、掌に当たったにしてもおかしな弾かれ方だと感じたことを思い出した。
「本当は俺が特注した世界に一個しかない貝合わせの一つなんだけどさ、縁起もんだから片方ずつな」
「……え?」
「アンタにやるよ。かぐやみたいな美人になるように!」
は目を瞠った。
心底驚くくらいには意外だったのだ。
更に慶次は言葉を続ける。
「だから、元気出しなよ。もし記憶が戻らなくても、ここで暮らせばいいさ」
「ここ…で……?」
「ああ。過去よりも、ここで未来を作ればいい!」
両手を広げて笑う慶次が眩しくて、は渡された貝を握り締めて俯いた。
そうすると不思議なことに、少しだけ闇が遠ざかったような気がした。
何かとても大切なことを忘れているような…放り出しているような……帰りたい……そんな漠然とした心許無さが這い寄ってくる。
そして、城下で知り合いの店に行った慶次を待っている時に……出会ったのだ。
「おや、本当にあなたでしたか」
その顔を見た瞬間、は戦慄した。
全身が粟立ち、血の気が引き――
息苦しさが呼吸を圧迫して、胸に巣食った病が激痛を伴ってのたうち回る。
途端に甦る、噎せ返るほどの血の臭い……
しかし、それが記憶の中のものでは無く、目の前の男から直に漂って来ているものだと気付いた瞬間、音を立てて何かの箍が外れた気がした。
――キケン。ニゲロ。
純粋な本能のような感覚だったと思う。
脇目も振らず駆けだして、辿り着いた林の中。
振り上げられた刃と、握り締めた貝。
燃えるように熱い光に包まれて、そして――……
「――! !?」
強く呼ばれて、ははっと顔を上げた。
成長した現在の慶次が、眉を寄せての顔を覗き込んでいる。
その後ろには、貝合わせを作った職人の男。
奇しくも、十年前と同じ面子。
場所は尾張とこことでは大分離れているが、不思議な巡り合わせだ。
早鐘を打っている鼓動を静めて、深呼吸して告げる。
「ごめんなさい…」
「いや、別に構わねぇけど、大丈夫かい? 顔色悪いぜ?」
「大丈夫…です。それよりも、『ごめんなさい』――思い出したんです」
「え?」
確かに思い出した十年前の自分――頭がぼんやりしていてあまり物を考えられなかったが、分かる。
あれは確かに、甲斐から攫われた後の自分だ。
甲斐での記憶を失くしていた訳では無く、自分の意思というものが希薄だった……そんな異常な状態。
「慶次さんと一緒に居た前後はまだほとんど思い出せないんですけど、この貝のお陰でしょうか……貝に関する辺りのことは思い出しました」
不思議なことに、ふわりと暖かく感じるかぐや姫の貝……十年前も目の前の男の命を救った。
いや、彼を殺しそうになったを、救ってくれたのだ。
普通の貝なら、石の礫を弾くことなど不可能な筈なのに……貝自体に何かの力があるのか、それともが時間や場所を飛べたことと関係しているのか。
もし本当にあのまま殺してしまっていたらと思うと、ぞっとした。
「茂吉…さん? 本当にすいませんでした。謝って済むことじゃありませんけど、折角助けてくれたのに、私は……」
「いやぁ……別に何とも無かったからいいんだけどよ。それにしても、本当にあん時の娘さんかい? かなり印象が違うが……」
「……まぁ、俺も噂で聞いてたにせよ、会った時は驚いたな」
茂吉と慶次の言葉に、は視線を落とすしかない。
「あの時は、何だか自分じゃ無いような感覚…で……」
話している内にくらりと眩暈がして、思わず隣の慶次に掴まる。
何度か経験している激しい頭痛が襲ってきた。
これは、思い出すなという警告なのだろうか。
それとも、思いだしたくないという自分の甘えか。
「――おっと、大丈夫か? って! 暗くて分んなかったけど、顔が真っ青じゃねぇか!」
答える余裕も無いまま、はきつく目を閉じた。
(そう……あれは、私じゃない…それでも、確かに『私』だった……)
矛盾する思いは、しかし真実として頭の中に根を張っていた。
自分では無いようで、確かに自分だったもの………闇がかったような世界の中で、深く闇を呼びつつも、それを恐れていた。
それでも、恐怖や不安などという感情に蓋をして闇の中に居るのは、ひどく落ち着くことが出来たから――
(だから……『私』は………)
――暗闇。血。破壊。殺戮。零れ落ちる命。
断末魔の絶叫と血の臭い。
自分の体を濡らす、温かい液体……他人の命の温み。
――「刃向うものは、滅せよ!」
「っっっっ!!!!」
頭に直接響いたようなその言葉に、びくりと体が跳ねた。
「……私は…逆らわなかった……」
「…?」
ガクガクと体が震えて、止まらない。
辿り着いた答えに、一瞬で血の気が引く。
「! おい、しっかりしろって!」
抱き留めてくれた慶次に強く揺すぶられ、縋り付いたままの手に思わず力を込めた。
「逆らわなかったんです! 私は……自分に負けて……!」
慶次と茂吉の困惑は痛いくらいに伝わって来たが、にはそれを申し訳なく思う余裕も無かった。
しかし、しばらく無言で震えるの背を擦ってくれていた慶次の気配が、突然変化する。
「誰だ!? こんなとこを覗くなんざ無粋だぜ!?」
低い声で紡がれた言葉は、背後に向けられていた。
庇うように抱き寄せられ、もようやくその異常を感知する。
「――流石は虎姫。前田の風来坊殿を上手く手懐けたらしい」
真っ暗な木立から姿を現したのは、少し前まで行動を共にしていた相手だった。
「………六平太」
「こんなに早くお会いするとは思わなかったが、虎姫。我が主の命でね、御身を探していた」
慶次の警戒が強まるのが分かって、は震える体を叱咤して身を起こした。
「どちらの……主殿ですか?」
六平太は口の端を引き上げて告げた。
「我が主――毛利元就様より、虎姫様へ言伝と贈り物を預かっている」
「元就さんから…?」
「さよう。『先の駄賃代わりだ。好きに使うが良い』――これが御言付け。そして贈り物は、我らが手に入れた情報だ」
情報と聞いた瞬間に、ひやりと嫌な予感がした。
元就が、わざわざを探してまで伝えさせる情報――
「九州の島津、そして越後の上杉が、敗れた」
「え――――?」
「相手は同じ、時期もほぼ同じ。島津家は当主の島津光久討ち死ににより壊滅。上杉家は、上杉謙信が甲斐へ逃れ、落ち延びた家臣たちもそちらへ集まっているらしい」
あまりと言えばあまりの話に、は目を瞠ったまま固まった。
謙信の名を聞いて立ち上がった慶次も、微動だにしない。
「南と北――それらの広大な領土を一度に掌中にした軍は未だに正体不明だが、一つの噂がある。かつて将軍家に仕えていた武将が関わっているらしい――とな」
慶次の手から、今日茂吉から受け取ったばかりの貝が落ちた。
はそれを視線で追う。
カツンと地に落ちて割れた音が、その場に不気味に響きわたった。
071217