千代に六平太と引き合わされた瞬間、はもう訳が分からなくなった。
望月六平太は毛利の忍である筈なのに、豊臣配下の山内家に仕えていて。
毛利と山内の二家に仕えていることになるが、どちらかが仮の姿であるのは明白だ。
そして、先日の小谷城戦ではは毛利と六平太の力を借りて豊臣に勝利したという事実がある。
更に、当然のことながら、彼はが虎姫であることを知っているのだ。
パニックに陥るに、千代は秘密を打ち明けるように言った。
「実は、この六平太は、私の幼馴染なのです」
「え……?」
それはどういう意味なのか、と問おうとしたところに、突如がやがやという音が聞こえ、千代はがばりと立ち上がって駆け出した。
「ち…千代様……!?」
「一豊たちが帰ってきたのだろう」
驚いたにそう淡々と告げたのは、もはや礼などかなぐり捨てて飄々と腕組して立っている六平太だった。
「あなた、六平太――これは一体どういう……」
「どういうもこういうも見たままだ。俺が甲賀者で毛利家に仕えていることは千代も一豊も知っている。無論、その逆は元就様も」
「………unbelievable」
は思わず誰かさんのように英語で呟いてしまった。
元就は恐らく、対豊臣への対策の一環として、この六平太に普段は大坂周辺の状況を探らせているのだろう。
六平太はその仕事の間、豊臣の旧臣である山内家に入り込み、そこで仕えながら豊臣の情報を毛利に送っている。
そんな忍の使い方をする元就も相変わらずだが、その元就と同じように利害関係を割り切って他家の忍を悠々と使っている千代もすごい。
いや、幼馴染だと言うから、よほどの信頼があるのだろうか。
「豊臣と毛利……二つが本気で衝突したらどうするつもりなの?」
「両家が闘っても、山内と毛利が闘うことはあるまい。現に今回も一豊はかすり傷一つ負ってないぞ」
「……そう」
今回は豊臣と毛利の直接の対決では無かった。浅井と半兵衛の戦に、両家の旗があったに過ぎない。
仮に両家が全面衝突する日が来ても、六平太は毛利として戦い、そして山内家を守るつもりなのだろう。
自分が身一つだから出来ること――ももし、信玄の血縁では無く、迷惑をかける家族もいないただの武田の家臣で……そして政宗が伊達の当主で無かったら。
武田と伊達が戦う日が来たとしても、六平太のように自分の守りたいものを優先するだろう。
例えそうすることによって自分自身がどうなろうとも。
「……守りたいものがあるのは良いことだと思うわ。――だけど、裏切らないで」
親しくなった元就も、親切にしてくれた千代も。
出来ればどちらも裏切らないでほしい。
きつく瞼を閉じて、もその場に立ち上がる。
「それから、自分も大切にしないと、千代様に引っぱたかれるわよ?」
すれ違いざまに言ったその言葉に六平太は眼を瞬き、苦笑した。
「流石は虎姫殿。この短時間でよく見抜いている。――だが、甘く脆いと言われた元就様の言葉の通りのようだ」
は足を止めた。
あの冷徹な元就の目には、自分の無力さと理想の間に足掻くばかりのは、さぞかし滑稽に映るのだろう。
「何と言われようと、私には兵を駒のように使うことは出来ない」
「それが貴殿の良いところなのだろうよ」
振り向いた時には、既に六平太の姿は消えていた。
最後に、「千代は貴殿の正体に気づいておらん」と律儀に言い残して。
はその風変りな忍に口の中で礼を述べて、千代の後を追って歩きだした。
「戦に巻き込まれるとは、それはまた難儀であったのう。傷が癒えるまで、ここでゆっくりしていくと良い」
哀れみに顔を曇らせてのその言葉が、山内伊衛門一豊の第一声だった。
隣では、千代がにこにこと一豊に寄り添っている。
その顔が「流石は私の旦那さま」と得意そうに物語っていて、も自然と笑みが浮かんだ。
その後、武家の娘であることは明白なに、山内夫妻はどこの家の娘なのかと今更ながらに当然の質問をした。
嘘は付きたくないし、本当のことを言えたら一番良いのだが、豊臣と武田は敵同士である。
「……帰るべき家を失くしました」
だからは、そうとだけ言った。
もはや武田家の娘としてのこのこと帰れる身の上では無いとしては嘘は言っていない。
そして人の良い山内夫妻は、この言葉で『父親を戦で失って断絶した家の娘』として捉えたらしかった。
「行く宛てが無いのなら、しばらく私を手伝ってくれませんか? 何しろ旦那さまが城主になられて日も浅く、私も城回りの事に手が回らないのです」
言葉は温和で、が気兼ねしないようにとの配慮にも溢れていたが……その翌日から半ば強制的に千代に付いて回ることになった。
一体いつの間にと思うほど周到に外堀を埋められて、他の家人からも「あなたが新しく来た人ね?」と親しみを持って様々な世話を焼かれては、「違います」とも言えない。
それに、は千代に興味があった。
耳に入ってくる風評では、山内家は『女大名』と噂される程、千代の力に頼っている部分があるという。
一豊は武辺一途で、政治や駆け引きは苦手のようだ。
だが千代とて、武芸が出来る訳では無い。
彼女は極普通の無力な女性で、戦場とは縁遠い。
しかし、六平太を使っての情報収集や世を見定める眼力に優れ、その機転と度胸は目を瞠るものがあるらしい。
その上、あの竹中半兵衛とも昵懇で、豊臣秀吉にも才を買われて気に入られており、亡き秀吉の正妻とも仲が良かったという。
家来たちも、千代の機転と明るい性格に、尊敬と敬愛を持っていることがありありと分かった。
そこまでの人でありながら、千代は明るく無邪気で奔放で、その癖非常に慎み深く夫に尽くす女性だ。
相反する二つの面は、もう一方への隠れ蓑のようであるが、どちらも虚構とは思えない。
の知るまつや市も、夫を愛し支えていたし、常に夫を立てていたが、それとはどこか一線を画していた。
千代は、自由に生きながらにして、一豊を日陰に支えている……言うなれば、一見しただけでは金十両の馬を購い、夫の名声を広める手段とするような強かな人には見えないのである。
この人の傍にいれば自分が何か変わるとか、闇を克服できるとか、そういう明確な下心があった訳では無い。
ただ、もっと千代のことを知りたいと思った。
もしかしたら、無意識に憧れる気持ちがあったのかもしれない。
元々、近江で市たちに力を貸した後は、あちこちを旅して回ろうと思っていた為、特に宛てもないのは本当である。
千代たちに迷惑を掛けないように、正体が露見することと半兵衛等に存在を知られることだけは気を付けようと固く決心した。
こうしては長浜城の山内家で、千代の侍女として住み込みで働き始めたのである。
長浜で過ごした春は、今までに無く落ち着いた日々だった。
朝から晩まで城内で、炊事や掃除、繕いものの侍女仕事や千代の仕事を手伝い、彼女たちとお喋りに興じ、春の風景を愛でる。
元来性格も合ったのか、千代とはすぐに仲良くなり、今では一豊が居ない時などはこっそりと食事を共にすることも少なくない。
年は離れているが、主従というよりは同い年の友達のような感覚だった。
は千代に冗談半分に聞いてみたことがある。
そんなに毎日生き生きと楽しく過ごせる秘訣は何かと。
彼女は一笑に伏した。
「秘訣など大層なものはありませぬ。ただ――そうですね、幸せなだけです」
そう言って笑った表情は、しかし一点の曇りも無いようなそれでは無かった。
様々な感情を飲み込んで尚穏やかな湖面のような……そんな深さを湛えた瞳。
誤魔化されたのだとは気付いたが、だからこそ、もっと深く聞きたくともそれ以上は追究できなかった。
「幸せ……か」
与えられた城表の一室の縁側に座り、はそう呟いた。
その定義は何なのだろう。
人それぞれで違うことは確かだが、自分にとってもどこまでが幸せで不幸せなのか、その線引きなど出来そうにも無い。
この穏やかな長浜での城生活の中で、は断片的に昔の記憶を思い出してきていた。
庭にあったお気に入りの樹。美しい花々。
大切にしていた乳母手製の鞠。
じゃれ付いても大らかに遊び相手になってくれた父と、見守っていてくれた母の笑顔。
時々一緒に城を抜け出して幸村と遊んだ。
その度に誰かしらに連れ戻されて、決まって幸村が怒られた。
それをいつも両手を広げて庇っては、幸村を怒らねばならない臣下を困らせたりもした。
色鮮やかに甦ってくる温かい日々――――思い出す甲斐での記憶の中には、闇の要素たり得るものなど一つも無かった。
持病の肺が痛んでひどく苦しかった夜もあったが、それでも常に誰かが傍についていてくれたし、幼い自分には『病』や『死』という観念は程遠かったように思う。
甦る記憶の中に無いもの――浚われたということに関するものは一切思い出せていなかった。
そこにの『闇』に繋がる鍵があることは明白なのに。
更に、自分に不可解な面があることにも気が付いた。
奥州や甲斐では気付かなかったが、はどうも以前に正式に薙刀を習ったことがあるらしい。
今使っている得物は弓で、甲斐に居る時に一般的な武芸として幸村から刀と槍・体術は教わったが、薙刀は城の奥女中といった女性が扱う武器であるので、武将の鍛錬をしていたは触れていない。
奥州でも、勿論未来でも扱っていないし、甲斐で過ごした幼年期にもそんなものとは無縁だった。
それならば、いつどこで扱ったのか――……記憶の空白期間だとしか思えない。
そして、それらの唯一の手がかりは、堺から近江へ向かう途中に元親と通った山道の、村近くに立っていた小さな地蔵。
あの地蔵の前で僅かに頭に甦ってきた記憶は、間違いなく誰かから逃げている場面だった。
断片を思い出しただけで怖くて堪らなくて、気を失って元親に迷惑を掛けてしまったくらいだけれど……
「それでも、思い出さなくちゃ」
闇など克服して胸を張って前に進まない限りは、何の為に武田を出奔し、何の為に政宗の元を去ってきたのかさえ……分からないでは無いか。
あの時は、元親が居てくれて……独りでは無くて本当に良かったと思ったが、今度こそ独りで向かい合わなければならない。
「――おや、。どうしたのです、そんなに難しいお顔をして」
「……………千代様」
たまたま通りがかった千代は、おかしそうに笑っている。
その千代に真面目な表情を崩さないまま、は辞意を述べ、深く頭を垂れた。
「五藤様」
その翌朝、の呼びかけに振り向いたのは、五藤吉兵衛――山内一豊の父の代から仕えていた旧臣で、筆頭家老の片翼である。
父信玄以上の高齢に見えるが、まだまだ現役と言って止まず、合戦にもいまだに同行しているらしい。
普段は口煩いお目付け役、ご意見番、ぶっきらぼうな心音優しい老人……そんな印象を受けるので、一豊に従って軍の先頭を切っているというのは俄かに信じ難いが、如何せんは自分の目で見ていた。
以前、近江小谷城にて、対豊臣の城奪還戦の最中。
元親の臣下たちと城内を移動しながら浅井側に援軍ありと触れ回っていた時、その噂を流した豊臣兵の一人――話を聞くや否や「殿!殿ーー!!」と叫んで走り去って行ったのが、他ならぬこの吉兵衛だったのだ。
この長浜で最初に会った時は驚いたが、小谷城では変装して声色も変えていた為に、気付かれることは無かった。
――尤も、小谷城で敵軍の情報をくれた相手と、行き倒れていた所を千代に助けられた娘――それらが同じ人物だとは、到底結びつくまい。
「おお、ではないか。どうじゃ、しっかりと御方様のお手伝いに励んでおるか?」
「はい。至らぬ点は多々あれど、御方様のご指導により、微力を尽くしておりまする」
「そうか、そうか」
好々爺然とした満足顔で頷いた吉兵衛に、は心中苦笑した。
この老人は、心底山内夫妻を敬愛し一身を捧げており、奉公に尽くす者や努力の見える者、そして自分を頼って来る者には異様に甘い。
そこが厳しくしていても憎めない所以であるのだが。
「五藤様、実はこの度は暇乞いを致しました故、ご挨拶に参りました」
「なんと! ……そうか、国へ帰るのだな?」
「はい、もう傷もすっかり癒えましたので」
ここでは断絶した武家の生き残りとして認識されているに、吉兵衛も気の毒そうにしんみりと言った。
騙しているようで心苦しいが、世の中には知らない方が良いということもある。
甲斐の虎姫であるのことも、いざとなっても知らなかったということにしておいた方が身のためだ。
「それで、最後にあの子にも別れを惜しみたく――殿にはお許しを頂きましたので、五藤様さえよろしければ、ご一緒させていただいてよろしゅうございますか?」
「うむ、わしは別に構わぬ。あれも喜ぼう。……しかし、。お主、よくよく好きなんじゃのう」
「はい、あれほどの名馬には、早々お目にかかれるものではございませぬから」
あの子――とは、千代が金十両で買った一豊の愛馬・唐獅子である。
本当に、天下の評判通り、惚れ惚れするほどの素晴らしい馬で、無類の馬好きとしては興奮しない方がおかしい。
奥州南部産ということだが、世に名高い奥州馬――その最高峰であろう奥州筆頭の愛馬・白斗には劣るものの、早々ひけを取らない仕上がりだった。
共に遠駆けに出たこともあるが、一豊の乗馬技術も中々のもので、人も馬も良い相棒に巡り会えたと言えるだろう。
「しかし、お主は真に果報者よのぅ。御方様自らお助けいただいたばかりか手厚く庇護され、こうして山内家の宝にまで触れるのを許されて」
はい、本当に。と殊勝に頷きながらも、「殿と御方様には並々ならぬご恩を賜りました。五藤様にも、良くしていただいて……」と言うと、吉兵衛はにっこりと笑って頷き、「そうであろう、殿と御方様は……」と、またいつもの惚気話のようなものを始めた。
いつものことなので適当に聞き流すが、最後だと思うと名残惜しい。
そのようなやり取りをしながらも吉兵衛と共に唐獅子の体を洗い、辺りを一巡りして軽い運動を取らせる。
最後にその鼻面を撫でてやりながら、この『竜』のごとき馬と別れの挨拶をした。
「それでは、吉兵衛様。本当にお世話になりました。私はこれにて」
「こ…これ、。お主まさか、真にこのまま行くのか」
「はい。もう殿や御方様、お城の皆様にはご挨拶を済ませましたので」
傍らに用意していた旅装をひょいと背負って門を潜ろうとしたを吉兵衛は慌てて呼び止めたが、元よりそのつもりであったは予定を翻すつもりは無い。
そのまますれ違う人たちに挨拶しながら城門を潜り、少し行った辺りで最後にもう一度振り返る。
――「本当に行かねばならないのですか、」
昨日、急な暇乞いをしたに、千代は眉を寄せてそう言った。
探さなければならないものがあることを思い出しました――それがが言った暇乞いの理由だが、それには一豊も「女子の一人旅は危険だ」と難色を示した。
だがどう言われても意思を変えなかったに、千代は最後にこう言った。
「いつでも戻っておいでなさい。家だとでも思って、気楽に」
「――――ありがとうございます」
それ以外には、何も言えなかった。
言い尽くせない程の恩で、とても言葉では表せなかった。
「またお会いできるかは分かりませんが……皆、元気で」
振り返った先の城に深く一礼をして、は今度こそその足で長浜を出発した。
ここに身を寄せて一ヶ月と少し――
穏やかで美しい長浜の春を後にして、自分の過去と闇に、向かい合う為に。
071022
大河・原作の中では、一豊が城持ちになる前にお亡くなりになっちゃった吉兵衛ですが、武田哲也演じる彼がとても大好きでしたv