さやさやと流れる川のせせらぎで、の意識は浮上した。
見た事の無い場所だが、優しく差し込む木漏れ日と透明な小川が、何とも自然の美を作り出している。
その沢の辺で、大きな石に寄り掛かるようにして倒れていたようだ。
体が冷え切っていることからして、随分長い間眠っていたのかもしれない。
重くだるい体を起して、眩暈をやり過ごした。
頭が少し朦朧としているが、目立った外傷は見当たらない。
「…………ここはどこなんだろう……」
またか、というのが最初に思ったことだ。
流石に四回目ともなると殊更取り乱すことは無かった。
一度目は、未来からこの時代の小田原郊外の戦場へ。
二度目は、甲斐躑躅ヶ崎館から幸村の屋敷へ。
三度目は、幸村の屋敷から和泉の山中へ。
そして四度目が、近江の小谷城からこのどことも知れぬ場所へ。
ああ、また自分は逃げて来たんだな、と淡々と思った。
最初のように訳の分からない混乱は無いが、ひどく体が重かった。
場所も全く分からない。
分かるのは、夜通し戦場で闘って、終わると同時にここへ飛んでしまったらしいということ。
この『飛ぶ』という行為は、随分気力と体力を消耗するらしい……いや、いずれも追い詰められている状況でのことだから、そう思うのだろうか。
小谷城はどうなっただろうか。
長政と市は……あの二人ならば、無事に小谷城と領地を取り戻したことだろう。
取り戻した直後に豊臣の別動隊や織田に襲われるということも、毛利や長曾我部、武田が付いている限り有り得ない。
半兵衛は討たれたという話は聞いていないが、あの病に侵された体では、落ち延びることも困難だったかもしれない。
元親も元就も、怪我などしていないと良い。
あの二人については、彼らの思惑があるのだから浅井に手を貸してくれたことに仲介者のが礼を言う必要は無いのかもしれないが、特に元親にはあれだけ世話になっておきながら、一言も無く消えてしまった……心配してくれたかもしれないと思うだけに、申し訳無さが募る。
そして、幸村……恐らく佐助も来ていただろう。
武田として浅井と手を結ぶ為とは言え、彼らはのことも助けようと思ってくれたに違いない。
どちらにせよ会わせる顔が無かったことは確かだが、本当に一目も会わないままにまた逃げてしまった。
「………今更だよね」
悔やむ気持はあるが、自分は全部分かった上であの場から逃げだしたのだと、心のどこかで分かっていた。
取り留めのない思考は、重い体を這いまわるようにしてまぶたの裏にちらついては消えていく。
再びとろとろと落ちそうになる意識の中で、は馬の蹄の音を聞いた。
敵だったら……いや、行き倒れている若い女を助けるつもりの無い者ならば、逃げなくてはならない。
頭では分かっているのに、体はほとんど動かない。
かろうじて動いた視界にその人物が入り込んだ。
直後、高く凛とした声が頭上から落ちる。
「こんな所でどうかしたのですか?」
小袖に袴を纏った、武家の奥方という貫録の麗人だった。
いつかの市との出会いみたいだな、と思うと同時に、なぜか安心してしまい、ギリギリで保っていた意識は闇に落ちた。
次に目を覚ますと、は小部屋の布団に寝かされていた。
通りがかりの女性から「あら、目が覚めたのね」と声を掛けられる。
答えようとして噎せてしまうと慌てて水を持ってきてくれ、感謝しながら飲み干す頃に衣ずれの音が聞こえてきた。
顔を上げたの前に、「失礼しますよ」という言葉と共に入って来た別の女性が座る。
品の良い美しい内掛けを纏ったその人には見覚えがあって「あ」と声を上げるが、傍に居た水をくれた女性に慌てて頭を押さえられ、窘められる。
「これ、御方様ですよ」
その呼び名には頭を下げたまま目を見張った。
御方様ということは、どこかの大名の正室なのだろう。
大名家の子女であるのは豪奢な内掛けを纏っていることからも明白であるのに……自分も普通ならば着て然るべきものだというのにも関わらず、とっさにそれに結び付かなかった。
この時代にも随分慣れたと思っていたのに、こういう価値観がいまだに慣れない。
「失礼いたしました」
慌てて手を付き、そう言うと、相手は少し苦笑して溜息をついた。
「そのように畏まらずとも良いのです。具合が悪いのなら寝ていなくては」
顔を上げて改めて相手を見ると、人好きのする笑顔で微笑まれた。
年はより十程上だろうか……まつや市のようにこれまた美人ではあるが、どこか無邪気と賢さが同居しているような――好奇心に溢れた眼差しをしていた。
格好は随分違うが、小川の畔で会った馬上の人物に間違い無い。
「具合はどうですか?」
「お陰様で大分良くなりました。ありがとうございます。こちらへはもしかして……」
「御方様自ら、ご自分の馬に乗せてお連れ下さったのですよ」
やはりと思うと同時にもう一度深く頭を下げた。
女一人で、意識の無い人間を馬に乗せて連れ帰ることは容易で無かったに違いない。
「大変ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。あのままあそこに居れば今頃どうなっていたか……感謝の言葉もございません」
野盗に捕まって凌辱されるのも、敵方に虎姫として捕まるのも、どちらも絶対に遠慮したい。
大げさでは無く、目の前の女性はの命の恩人であった。
そこでふと、自分がまだ名乗ってもいないことに気付く。
同時に相手がどこの誰なのかも聞かされていない。
「と申します。私で出来ることなら、ご恩を返させてください」
「わたくしは千代。夫はこの長浜城の主で山内一豊です。恩など気にしなくても良いのですよ」
長浜城主――やはりどこかの武将大名であるらしい。
しかも、のあやふやな地理知識が正しければ、近江と長浜はごく近い筈だ。
(山内一豊……どこかで聞いたような……)
この戦国の時代では、未来での感覚よりずっとたくさんの城が存在している。
その大きさや規模はまちまちで、城持ちの武将も少なくない。
そんな中で、武田や伊達の武将ならある程度知っているでも、他国のことまでは聞き知れないのが事実だった。
それでも聞いたことがあるというのは……武田と縁のある武将なのかその反対で敵として名前を聞いたのか……。
「……千代様。山内様にも御礼申し上げたく存じますが……」
流石にどこの家に仕えているのか直球で聞くのは憚られ、会ってみれば分かるかもしれないと口を開く。
しかし、千代はゆるゆると首を振った。
「旦那さまは今は戦に出られています。留守を預かっているのはわたくしですから、心配はいりません」
旦那さま――随分仲睦まじい呼び方だな、と思った瞬間に不意に思い出した。
話に聞いて、羨ましいと思ったのだ。
「! 山鳥葦毛の名馬! 金十両の馬の人――!!」
思わず千代を指差して叫んでしまったは、唖然とした千代の視線に我に返った。
甲斐に居た時に小耳に挟んだ話だったのだが、覚えていたのはが無類の馬好きであったからに他ならない。
嫁入り時のへそくりで、夫に金十両(ちなみに、大きなお屋敷が軽々建つくらいの金額である)の馬を買った武将の妻が居ると……その内助の功で夫は一躍認められ、出世への足掛かりとなったのだと……武将の妻の鏡という訓戒めいた話だった。
件の武将の名前こそが、山内一豊といった筈だ。
そして、彼は元は織田信長に仕えていたが、今の主は確か――――豊臣秀吉。
(ここは、豊臣の城……!?)
指さしたまま二重の意味で青褪めたに、女性――千代は目を丸くしていたが、やがて突然笑い出した。
「随分大げさに噂が広まっているとは知っていましたが、ここまで面と向かって言われたのは初めてです」
「あっ……す…すみません……!!」
完全にパニック状態に陥っているを尻目に、千代はコロコロと笑う。
「良いのですよ。陰で言われるよりよっぽど気持ち良いというものです。……それにしても山鳥葦毛なんてよく知っていましたね」
「えっ…あ…その…馬が大好きなので……!」
馬鹿みたいに単純な言葉しか出てこず、は恥ずかしくて泣きそうになった。
敵の城内で、敵方の武将の奥方に助けられ、一体何を口走っているのだろう。
「ふふふ、そうですか。あの馬は、唐獅子(からじし)という名前なのですよ。私は馬のことは良く分かりませんが、旦那さまがおっしゃるにはあれは馬では無く、竜なのだそうです」
「竜……!」
それほどの名馬ということなのだろう。
彼の人の異名と重なる名馬……叶うなら一目で良いから……
「旦那さまが戻られたら、見せてもらえるように頼んであげましょう」
「いいんですか!?」
「ええ、約束です」
キラキラと眼を輝かせて、感激の余り「ありがとうございます!」と千代の手を取ったは、はっと我に返った。
そうじゃないだろう!と自分にツッコミを入れてぐったり項垂れる。
我ながら馬のことになると見境が無くなって敵わない。
それに、どうも千代にペースを乱されている気がする。
「ふふふ、こんなに笑ったのは久しぶりです」
「――――」
そう言って微笑んだ千代の顔は、油断ならないというよりも、どうにも憎めないようなそれであった。
しかし、その温和な笑顔の奥に憂いの影も垣間見えて……は何も言えず、ただ困惑を抱いていた。
その夜、千代から夕餉を共にしようと誘われ、大分体調も良くなっていたは床から起き上がって居間に向かった。
並べられた膳は千代との分の二つだけ――甲斐では父や幸村たちと当たり前のように賑やかに食べていたから忘れそうになるが、主従が食事を共にしないのは普通である。
それを考えれば、ただの行き倒れであるに対して破格の待遇であった。
「さあ、冷めない内にいただきましょう」
「……ありがとうございます。いただきます」
食事中に他愛のない会話を交わしながら、はじっと千代を観察していた。
ここで目を覚ましてからこちら、ようやく冷静になってきた頭で考える。
ここが豊臣の城であることを考えれば、なるべく早く出た方が良いに決まっている。
けれど、すぐに出て行けば余計に怪しまれるだろう。
の素性が知られているかどうか――それが問題だった。
千代は何も言わないし、その態度からも何かの意図は感じられないが、聡明そうな女性である。
まして、夫の為に金十両の馬を購入したほどだ。
その夫の敵と知れば、彼の為に仕留めるなり拘束するなり何とかしようと思うのではないだろうか。
が身に付けていたものは、ほとんどが堺から近江への途中で元親に用立てて貰ったもので、武器も携帯していなかったらしい。
身元が分かるようなものは何も無かったはずだ。
だが、一つだけ――の右肩に刻まれた武田菱を見られていたとしたら。
この城で目覚めた時、汚れは拭われ、清潔な一重を纏って、怪我の治療もされていた。
肩の痣を見られた可能性は高い。
そうだとしたら、武田と無関係だと言い通すのは難しいだろう。
戦に出ているという千代の夫――山内一豊を始め、この長浜城内にはそれほど戦力が残っていないようだったが、いくら少数とは言え狙われて手ぶらで応戦できるかと問われれば自信は無かった。
そもそも、一豊の出ている『戦』というのは、地理的に考えて小谷城のあの戦だろう。
半兵衛の指揮下で働いていたなら、虎姫としてのの顔を見ている者もいるかも知れない。
……それ以前に、一豊やその家来――ここにいる女性たちの大切な人をがこの手にかけたかもしれないのだ。
「――聞いても良いですか?」
食事が終わり、千代は真面目な顔でそう切り出した。
も緊張した面持ちでそれに頷く。
例え正体がバレても、憎まれても、命の恩人である千代に仇なすような事態だけは避けなければならないし、出来るだけ嘘もつきたくない。
「そなたは、武家の娘でしょう。それが、なぜあのような場所に一人で? 怪我もあったし、随分ひどい様子でしたが」
「――――戦場から逃げて参りました」
「まぁ…!」
丸きり嘘というわけでは無かった。
いくら勝敗が付いた後とは言え、は逃げだしたのだ。
自分が果たすべき役目が終わったと思ったあの時、あれ以上戦場に居たくなかった。
視界に映る闇と、自分の心が引き寄せる闇、そして戦場特有の負の気配に耐えられなかった。
「それであのように血の臭いがしていたのですね、可哀想に……」
心から憐みの滲む千代の言葉にも、顔が歪むのを抑えられなかった。
体には何箇所か切り傷も有り、泥と汗に塗れてさぞかしひどい有様だっただろう。
たくさんの敵兵をこの手にかけた――弓矢という遠距離の武器なので返り血はほとんど浴びていないが、屠った人間の血の臭いはそう簡単に消えない。
その中に、千代の夫や家来の血もあるかもしれないのに。
「……重ね重ね、本当にお手数をお掛けしました。ここまで連れて来ていただいただけでも大変でしたでしょうに、こんなに良くしていただいて……」
「困った時にはお互い様です。それに、ここに運んだのは私では無く我が家の郎党ですから」
は頭を伏せたまま目を細めた。
運ぶ時に痣を見られた可能性だってある。不安の種は確認しておかなけば。
……こんな自分に優しくしてくれる千代……彼女に申し訳無く思いながらも、こんなことしか考えられない自分が嫌だった。
けれど、善人ぶって結果的に武田に迷惑をかけることになっては目も当てられない。
「――ありがとうございます。そのご家来の方にも是非お礼を」
「それこそ気にしなくて良いのですよ。足が速い者故……これ、六平太をここへ呼んでおくれ」
控えていた下男にそう伝えたすぐ後に、千代の背後にさっと気配が現れた。
千代は特に驚いた様子も無く、に向かって綺麗に微笑む。
「望月六平太という者です。六平太、娘さん――があなたに礼が言いたいと」
名前に聞き覚えがあったが、まさかと思った時には遅かった。
千代の肩越しに目が合ったその相手を見た瞬間、は目を見開いた。
「それは勿体ないことで。礼には及びませぬぞ――殿」
口の端を上げて笑った武士風のその男が忍であることを、は知っていた。
小谷城での影に隠れて見張っていた忍――毛利家に仕える元就が寄こした忍である。
071014
2006年大河「功名が辻」より、千代と六兵太登場です。
本当は上記放映中に出したかった山内家ですが、予定外のアニキや日輪乱入などにより、ほぼ一年遅れでのお目見えとなりました。
次回は一豊や吉兵衛も登場予定。出来るだけ大河見てなかった人にも分かるように書きたいですが、仲間由紀恵や上川隆也で脳内フォローしながら読んで頂けるとすごく嬉しいです(笑)