夜半――暗闇の中に横たわる静寂は、突如として破られた。
急を報せる鐘の音が、静けさを切り裂くように鳴り響く。
随分前から目を覚ましていたは、布団からゆっくりと身を起こした。
城の中が俄かに騒がしくなった気配がする。
彼らのように慌てることは無いが、何が起こっているのかを知っていても、不安があることに変わりは無かった。
慌てずに冷静になれ――と自分に言い聞かせて目を開ける。
真っ先に視界に入って来たのは、ぽっかりと口を開けたような暗闇だった。
――「誰か、助けて……!」
脳裏に聞こえた気がしたのは、幼い頃の自分の声――ドクリと痛いほどに脈打って冷えていく胸の鼓動を押さえつけ、は深く深呼吸した。
こんな城の奥に隠れて弱音を吐いている場合では無い。
闇に震える指先を握り締めて、与えられた夜着の乱れを直す。
その下に着ている小袖袴を気付かれないようにしなければならない以上、しばらくは自重が肝要だ。
「………来た」
やがて程なくして、昔より格段に鋭くなった聴覚が複数の足音を捉えた。
手に明かりを持った数人分の影が近づいてくる。
「失礼致します!」
断りを入れてから開けられた障子――
捕虜相手に随分丁寧だと思ったが、その声は予想より高いものだった。
「敵襲にございます! 姫様は我らと共にお逃げ下されませ!」
武装した兵の前に、年かさの女を筆頭にした三人の女中が進み出て、は驚いた。
「ちょっと待って……私は武田の者です。それなのに、どうして貴女たちが…?」
兵の方は豊臣だが、女たちは元々城中に仕えていた浅井の者だろう。
浅井と武田は今の所、表向きは敵同士の筈だ。
何より、は浅井長政に捕らえられていた所を逃げ出してきたという設定になっている。
彼女らにとってみれば、は主君の敵である筈――それを逃がそうということは……
「――竹中様のお下知でございます」
その、重々しい声に。
「竹中半兵衛は、浅井からこの城を奪った張本人でしょう?」
思わず、そう言わずにはいられなかった。
女たちは一同に沈黙する。
とて、分かっているつもりだ。
力を持たない彼女たちが生きる為には、強者に従わなければならないのだと――望むと望まぬに関わらず。
だがそれでも、自国の民を心から想っている浅井夫妻の姿を知っているだけにやるせなかった。
「……ごめんなさい。私が言うべきことじゃありませんよね」
は唇を噛みしめて立ち上がった。
闇の中で消耗して、少し感情的になっているのかもしれない。
兵の前だろうと気にせず夜着のままで廊下まで歩き、女中が用意してくれていた簡素な打掛を借りてその上に羽織る。
なるべく不本意に見えるように、ため息をついて兵たちを振り返った。
「竹中半兵衛を信じるわ。……私は生きて甲斐に戻らなくちゃならない」
頷いて、案内を始めた兵と女中たちに守られるように、は小谷城の中を駆けた。
自分達と併走する目に見えない気配を感じながらも、戦の気配に焦ったように走る。
やがて、本丸の裏手――食料庫の奥に口を開けていた隠し通路に通されたは、ふいと空を見上げた。
日の昇り始めた空に、一羽の鷹が滑空している。
「こちらです。お早く!」
慌てた女中に押されるようにして入口に歩を進めた途端、はその場に蹲った。
「うっ……!」
「姫様!? どうされましたっ!?」
慌てて覗き込んできた女中の言葉にも、懐から取り出した手拭いで口を覆って応えない。
そうすると、その場に次々に女中と兵たちが崩れ落ちた。
「……ごめんなさい」
手拭いは外さないまま立ち上がったは、ここまで先導してくれた女中たちを見下ろした。
「これからここを攻めるのは、浅井よ。貴女たちは、自分の信じるべきものを信じてここで待っているといいわ」
彼女たちの信じるべきもの――それが長政と市であることを祈りながら、は外に出て片手を掲げた。
そこにスイと先ほど見た鷹が降りてきて、さっきは咥えていなかった大きな包みをの目の前に落としていく。
「――万事計画通りと、元就さんにも伝えて」
「――承知」
部屋から付いて来ていた気配――身を隠した毛利の忍に言付けをして、相手が去っていったのを確認すると、もその場に打掛と夜着を脱ぎ捨てた。
下に着ていた動きやすい小袖と袴の乱れを直して、鷹が運んでくれた包み――弓と矢を手に取る。
一瞬頭を半兵衛の顔が過ぎったが、迷いはしなかった。
「私は、私の信じるべきものを信じる――!」
身の内の力を解放し、炎を纏った矢を渾身の力で空に放つ。
まだ半分暗い空を、その火矢が一瞬照らした。
次の瞬間、離れた場所のあちこちから陣触れの法螺貝が鳴り響く。
最初の襲撃の報は陽動――今度こそ、今この時を持って、対豊臣の戦いが幕を開けたのであった。