甲斐に――自分の生まれた家に帰ってきて、自分の半生を振り返って。
 一度も思わなかったと言えば、嘘になる。

 なぜ自分は、未来へタイムスリップしてしまったのか。
 不治の肺病に蝕まれていた体で、敵に浚われたその先で―― 一体何があって、時を…いや、世界を飛び越えてしまったのか。

 だが、それ以上を考えることは無かった。
 それは怖かったからかもしれないし、そうするだけの余裕が無かったからかもしれない。

 ただ、必要を感じなかったのは事実だ。
 父である信玄が引け目に思い、自分さえも忘れる切欠になったその出来事など――無理に思い出す必要は無いと。

 しかし、今こうして過去に落ちていきながら思うことは一つだった。

 ――私は、知らなければならない。

 大切な人の傍で、大好きな人の傍で、生きて行きたいと思うならば、何としても。
 が異常に恐れるモノ、弱さの根源――

 きっとそれが、この身に巣食う闇のルーツだから。

51.闇のルーツ

 息が荒い。
 呼吸が苦しい。
 胸が痛い。
 手足が疲れたと悲鳴を上げている。

 は、必死の思いで走っていた。
 月の明るい夜だったが、木々に遮られた山道は暗い。
 常識で考えれば、こんなに暗い山道を走り回るなど自殺行為のようなものだが、今はそんなことも言っていられなかった。

 ――捕まったら、殺される!

 月明かりさえ、疎ましく思ったのは初めてだった。
 その癖、どこを見てもぽっかりと口を開けている闇が恐ろしくて堪らない。

 ――怖い!怖い怖い怖い怖い!!

 走って、走って……そしては何かに躓いて派手にこけた。
 擦り剥いた手足に顔を顰めながらも呻き声さえ我慢したというのに、躓いたものの存在を認めた瞬間、思わず呟いていた。

「……お地蔵様…?」

 じっとその歪な顔を見つめている内、涙が溢れてきた。
 しかし、ここで泣いてしまう訳にはいかない――泣き声を聞きつけられるとか、視界が曇るとか、そういう理屈に拠るものではなく、子どもなりの直感で分かっていた。

 いま泣けば、心がぽっきりと折れてしまう――

 はぐっと腹に力を入れて涙を耐え、体力の限界を訴える体を地蔵に寄せると、膝を抱えて小さくなった。
 供え物を持たない代わりに、取れかけた髪飾りをそっと地蔵の裏側に落とす。
 そして一心に祈った。

 助けて、助けて――父上、母上、誰か……

 喉から零れるいつもの咳さえなるべく我慢をしたが、そうする分だけ弱る胸の膜を、今にも恐ろしい物の怪が食い破ってきそうだ。
 今まで体験したことも無い程の胸の痛みと苦しみ……
 遠のく意識……
 捕まって殺される前に、この胸に根を張った病によって命を奪われるかもしれない。

 死んだら、どこに行くのだろう。
 詳しくは知らないが、でもそこは、きっと真っ暗なのだと思う。
 永遠に暗い闇の中をたった一人で彷徨い続ける。
 ……それはなんて、途方も無い恐怖なのだろう。

 は地蔵に身を寄せながら、戦慄した。

 ヒトリハコワイヨ、ダレカ…タスケテ――……







 パチパチと火の爆ぜる音に覚醒した視界に、映り込んだのは闇色の空――

「嫌っ……!!」

 慌てて飛び起きて駆け出そうとしたは、強い力に捕まえられて引き戻された。

「は…離してっ…」
「オイ、! 落ち着け! 俺だ!」
「政宗さんっ……!?」

 会いたいと思いすぎた心が真実に目隠しをしたのか――
 一瞬視界に入った眼帯にとっさに名前を呼んで相手の腕に縋りついただったが、驚きに目を見開いた元親を前にしてはっと我に返る。

「"政宗"……?」
「すっ…すみませんっ…!」

 慌てて体を離したが、そこで初めて体がガクガクと大袈裟なくらい震えていることに気付いた。

 ――止まれ…!
 は自分の体に言い聞かせるようにして、自らを抱きしめた。
 情けなさと恥ずかしさで、顔が上げられない。
 とっさとは言え、ここに居るはずの無い人を呼んでしまった自分が信じられなかった。

 政宗は、を庇って大怪我を負って、今も甲斐で起き上がることすら出来ないのだ。
 それなのに、夢の闇に怯えたぐらいで助けて欲しいと願うなんて――……

「ごめんなさい――…」

 結局自分は、大切な人たちから離れてもずっとこのままなのでは無いか。
 一人では暗い場所に居ることもままならない、無力な子ども。

 その時、閉ざしていた耳に、小さな舌打ちが聞こえた。
 直後、後ろから暖かい温もりに包まれ、は目を瞠る。

「っ……元親さん!?」
「寒いんだろ、無理すんな」

 うろたえたのは、耳元で低い声を聞いたからか、それとも、抱きしめてくる温もりを心地よいと思ってしまったからか――……
 強引な言葉に抗う気力も無く、はそのまま声を殺して泣いた。

 後ろに居る元親に泣き顔を見られないのがせめてもの救いだと思ったが、それも計らいなのかもしれない。

 どれほど泣いただろうか……いつの間にか離れていた元親が、何処からとも無く水に塗らした手ぬぐいを持ってきてくれ、はありがたく自分の目に当てた。
 今更冷やしても腫れることは避けられないが、無いよりは数倍マシだ。

 そして、地蔵の前で急に倒れてしまったこと、倒れたを元親が負ぶって運び、介抱までしてくれたことを聞いた。
 あまりと言えばあまりの醜態に、本当に合わせる顔がない。

「……重ね重ね、本当にすみませんでした。元親さんは先を急いでるのに」
「なーに、いいってことよ。悪いが勝手に運ばせて貰ったから足止めは食ってねぇし、何より泣いてる女を放っとくなんざ男が廃るってもんよ」

 どこまでも男前な台詞に、はただ礼を言うことしか出来ない自分を恥じた。
 元親はそれさえも軽く受け流す。
 そして、その調子のまま何でも無いことのように聞いてきた。

「ところで、さっき言ってた"政宗"ってのは、独眼竜のことか?」
「っっ……!!」

 思わぬタイミングで図星を付かれ、は言葉に詰まった。
 今は敵同士だが、かつては誼のあった元親と政宗――
 元居た時代風に考えるなら、片思いしてる人の友達に、自分の気持ちを知られる気恥ずかしさのようなものだろうか……

 しかし、そんな暢気なの動揺は、元親の一言によって一瞬にして吹っ飛んだ。

「へぇ…そいつは面白いような面白くねぇようなカンジだが……『あの人』ってのも、竜のことみてぇだなぁ?」

 顔が青褪めるのが自分でも分かった。
 元親には疾風との会話を聞かれていたことをすっかり失念していた。

 怪我して寝ていると言った『あの人』が政宗のことだと知れれば、長曾我部としてどう動くか知れたものでは無い。
 ましてや、の正体まで知れれば、動けない政宗の潜伏先まで知られてしまうことになる。
 いま長曾我部軍が甲斐を攻めれば、政宗も、武田も危ない――

 こみ上げてきた吐き気に、とっさに口元を押さえた。

(また、私のせいで、私の大切な人たちを危険に晒す――?)

 考えることさえ拒絶するような事柄だった。
 冗談では無い。
 そんなことは絶対にさせない。

 させない為にも、今ここで終わらせなければ。
 の命に代えても、大切な人たちを脅かす脅威を止めなければ。

 ――ソウシナケレバ、マタワタシハヒトリニナッテシマウ

 ぐるぐる、ぐるぐる……

 ――ヤミハ、キライ

 圧迫された脳が眩暈を起こしそうな思考でを支配する。
 それに押されるように胸元の短刀を引き寄せた右手――それを捕まえたのは、隻眼の鬼だった。
 どこか外海を思わせるような片目をギラリと光らせたかと思うと、思い切りの手を捻り上げて短刀を飛ばした。

「おもしろい奴だと思ったが、なるほどなぁ。アンタ、昔のアイツに似てるぜ、

 武器を奪われたは、焼け付くように麻痺した感覚を持て余して、元親を見上げた。
 アイツ――?
 元親が苦労しているという友達のことだろうか…?

「アンタが何者か、なんであんなとこで倒れたのか、竜とどういう関係なのか――今は聞かないでおいてやるよ。女を問い詰めるのも趣味じゃねぇしよ」

 頭の上に置かれた大きな手が遠慮会釈も無くわしわしとの髪を掻き回した。
 そうすると不思議なことに、体を支配していた重苦しいものがふっと遠ざかっていく気がした。
 晴れた思考が、ようやく真っ直ぐに元親を捉える。

「――元親さん」
「あん?」
「アニキって言うより、父上ってカンジかも」
「何だとっ!? テメェ、言うに事欠いてそれかよ!」

 の中の"父上"は勿論信玄のことである。
 としては誉め言葉であるそれに憤慨する元親は、近くで赤々と燃える炎よりも温かく思えた。

 元親さんの傍は温かい――……
 まるで南国の太陽に抱かれているようだ。

 自然とこみ上げてくる笑いを抑えきれずに頬を綻ばせながら、は改めて思った。

 この場所は、きっと自分の中の闇のルーツ。
 いつかは一人で向き合わなければならない過去の闇。
 それに初めて触れた夜に、傍に居たのが元親で良かった――

 大切な人から逃げて、独りになりたくてここまで来たのに。
 なのに、
 だけど、

 ――独りじゃなくて、本当に良かった。






070526
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