甲斐の躑躅ヶ崎館に末姫からの文が届いた日から、遡ること七日――
突如甲府から姿を消した『甲斐の虎姫』ことは、和泉の隣にある堺の街に来ていた。
父である信玄に、手紙を送る為である。
一命を取り留めた政宗と話したあの夜――幸村の屋敷から正体不明の力で行方をくらましたは、目が覚めると旅籠の一室で寝かされていた。
どうやら、山中の街道で倒れていたところを、旅の行商人に助けられたらしい。
場所は、畿内・和泉の宿場町。
甲斐の甲府から、実に500kmは離れている――ましてやこの世界において人間の足で旅をしたなら、山を迂回する等もっと距離は伸びるだろう。
まさに人外の長距離を一瞬で飛んだは、それでも不思議と疑問は抱かなかった。
400年以上の時と歴史の異なる異界――これらをかつて二度も行き来したことに比べたら、所謂ワープをしたことくらい小さなことだと自分を納得させる。
何より、大切な人たちから逃げたかったにとっては、遠くに来たことは歓迎すべきことだった。
しかし、逃げ出して、それからどうするかなど考えていた訳では無いは途方に暮れた。
まず、着の身着のまま出て来てしまった為に無一文……実際問題として先立つものが無かった。
その上、おかしな力を使ったせいかその後丸一日寝込んでしまい、好意で助けてくれた旅籠の人たちにも迷惑をかけた。
次の日一日をかけて旅籠で働いて宿泊費だけでも返したが、現状は何も変わらない……それでもそのまま留まることは出来ずに、その旅籠を後にした。
どうするべきかを決めかねたまま、一旦は足を東に向けた。
――個人として力を貸すという浅井夫妻との約束があったからである。
伊達軍の介入で有耶無耶になってしまっていたが、甲斐から近江までも相当の距離がある。
が一瞬で和泉まで飛んでしまったことで、甲府や和泉で過ごした若干のタイムロスも消せるかもしれない。
浅井軍と竹中半兵衛率いる豊臣軍の戦いに間に合うかもしれないのだ。
しかし、しばらく考えてそれがいかに無謀であるか気付いた。
現在のは、ろくな武器も持たず、本当にただの身一つ……加えて地理もこの土地の情報も旅費さえも無いまま、一人で近江に辿り着けるとは思えなかった。
そもそも、山中に行き倒れた時点で、山賊やましてや畿内を治めている豊臣に捕まらず、善良な人に助けて貰ったのは、幸運としか言いようがなかったのである。
……どうしよう。
考えも無しに飛び出してきた自分の浅はかさが情けなくて、市たちとの約束も父たちの愛情も政宗への気持ちも…何もかも中途半端な自分に嫌気が差して、道端に座り込んでしまった。
どれほどそうやって無気力な自己嫌悪に浸っていただろうか……ふと気付けば、猛烈に空腹感をいだいている自分が居た。
どんな時でもお腹は空くし、睡眠は必要だ……人間として当たり前のことなのに、ずっと忘れていたような気がして目から鱗が落ちる思いだった。
側を農民の子どもと父親が手を繋いで鍬を担いで歩いていく。
「………父上」
ぽつりと呟いた言葉は、じんとした温みを持って胸に沁みた。
本来なら、は屋敷で謹慎している筈の身――
それを、誰にも告げず、ただ政宗だけに会って、まさに逃げ出すようにして出てきてしまった。
信玄の娘として――甲斐の姫として、とても許されるような勝手では無い。
父は、怒っているだろう。
しかしそれと同時に、こんな馬鹿な娘でも突然姿を消したことを心配しているに違いない――まさに十年前、浚われたはそのまま行方知れずになってまったのだから。
なんて残酷で、親不孝なことをしているのだろう――……自分の意思でしたことの筈なのに早速後悔してしまったが、悔やんでいても始まらない。
とにかくも、これ以上心配をかけない為に、早急に甲斐まで手紙を送らねば、とやっと気付いた。
街道の茶屋に集まる商人に聞くと、甲斐までの最短の連絡方法は海路を行く商船に乗せることだと言う。
信用できる商人仲間へ紹介状まで書いてくれた親切な男に礼を言い、は一人でこの辺り最大の港を有する堺を目指した。
和泉と堺は山一つ隔てただけの隣国だったが、にしてみればこの世界に来ての初めての一人旅。
おまけに馬も路銀も無く、地図も明かりも無かったが、月と星で方角を計り、手近な棒を拾って属性の力で炎を灯して夜通し歩き、無事に堺まで着くことが出来たのだった。
「う……わぁ……」
山道を抜けた丘から朝日に浮かび上がった堺を見た時、は思わず感嘆していた。
米沢とも、甲府とも違う。
豊かさは同じ程度なのかもしれないが、堺は、本島きっての港町で商人の町と言われるだけはあって、賑やかに活気付いていた。
あの竹中半兵衛が付く豊臣のお膝元で、これだけ力に満ち溢れた雑然とした街があるというのは、正直言って意外だった。
町に入り、紹介してもらった商人を探し、手紙を託す。
その際、背に腹は変えられない――と、唯一持っていた短刀を売り捌いた。
武田の家紋入りだったので、敵地で流すのはマズイかとも思ったが、それも今更である。
今のは、武田の姫としてでは無く、ただの『』としてここに居る。
刀を売った商人にも、以前勤めていた武田家縁の家で拝領したのだと言って通した。
「さて……折角だけど、長居は無用かな」
手紙も心づけを多めに渡して無事に出したし、堺での目的は果たした。
心地良い潮風を吸い込んで深呼吸し、は大型の船がたくさん並ぶ港をぼんやりと眺めた。
短刀を売ったお陰で当座の路銀くらいは出来たが、それも微々たるものだ。
こうして何も考えずにいると、決まって政宗のことばかり思い出してしまう。
――「また俺から逃げる…気か……?」
本当は逃げたくなど無い。
けれど今のには、政宗に向き合えるだけの資格は無い。
幸村にしたって同じだ。
自分の志を持ち、心身ともに鍛えてこの戦国を鮮やかに生き抜いている彼らに対して、はいかにもちっぽけで情け無い存在だった。
胸を張って、政宗や幸村、信玄たちの前に立てるような人間になりたい――
それが、今の自分の等身大の気持ちだった。
だから、彼らの側では駄目なことを、離れて成そうとした……それでも、もうこんなにも政宗に会いたい。
「……信じられない」
自分自身に呆れるように溜息をついた。
実際、こんなことばかり考えていられる余裕が、今の自分のどこにあるのだ、と叱咤する。
今後の予定としては、今からすぐに近江を目指したい――琵琶湖を臨む浅井長政と市の国である。
しかし、堺までの道中とこの堺でも何気無い風を装っていろいろと聞きまわってみたが、不思議なほど情報が無かった。
ということは、いつもの如く半兵衛が秘密裏に動いているか、それとも――……
「ピーーーー…!!」
不意に取り留めの無い思考を中断されて顔を上げれば、港から下ろした荷の前で、一羽の鳥が船乗り達に捕まっていた。
足を持って逆さ吊りにされながら羽をバタつかせてもがいている所などは、今から捌かれようとするニワトリを連想させるが、その羽色はぎょっとするほど派手だ。
「ピー! ヤメロ! テメエ! クタバレ!!」
は目を瞠った。
何とも口の悪いオウムである。
しかし、もっと驚いたのは船乗りたちの反応だ。
「おい、こいつまた喋りよったで!」
「人間の言葉を喋る鳥なんて聞いたこと無いわ。海の悪魔に違いあらへん!」
「こんなんにうろつかれたら次の航海で船沈められてまう。さっさと殺してまわな!」
海の悪魔――どうやら、この世界ではオウムは一般的では無いらしい。
「オタカラヨコセ! オタカラ!オタカラ!!」
自分が殺されそうになっているのに、お宝って……は疲れた心地で溜息をついた。
オウムに罪は無いだろう。ただ主人が良く使う言葉を覚えただけなのだろうし、習性である口真似だけで殺されたのでは可哀相だ。
「――あの、すみません」
再度の溜息を耐えて、笑顔で船乗りたちに話しかけた。
「この辺りで綺麗な羽の鳥を――……ああ、…サスケ!」
いま気付いたように鳥に視線を向けて走り寄る。
咄嗟に思いついた名前は、家族同然の忍のもので……髪の色や顔のペイントが似ていたからと言ったら彼は心底落ち込みそうだ。
「サスケ…? この鳥は姉ちゃんの鳥かいな?」
「はい、船から下りた時に逸れてしまって……ああ、本当に良かった! ……あれ、でも……、もしかしてこの子が何かご迷惑を…?」
不安そうに問えば、船乗りたちは否と首を振ってから、気を取り直したように勢いづけて口を開く。
「けど、こいつは海の悪魔や!」
「そうやで、一緒におったら姉ちゃんも食われてまうで」
「人の言葉喋るやなんて、ただの鳥やあらへんわ!」
「人の言葉…? ああ、嫌だおじさんたち、そんなのオウムなんだから当たり前じゃないですか」
「おーむ……?」
「異国から入ってきたモノマネをする鳥ですよ。確かに珍しいでしょうが……堺くらい大きな港だったら、当然見たことあるでしょう?」
ね、サスケ? とゆっくりとオウムに話しかければ、彼(彼女?)は「サスケ! サスケ!」と繰り返した。
それを見た船乗りたちは、顔を見合わせて小声で言葉を交わし合い、やがて乾いた苦笑いを浮かべながら手を振った。
「勿論、知ってんで、オームやろ、オーム! いや、珍しいからちょっと近くで見てみたくなってなぁー」
「……おじさんたち、まさか珍しい鳥だからって、捕まえようとしてたんじゃ……」
焦るところに猜疑の目を向ければ、基本的に人が良い彼らは疑われては堪らないと、オウムを放して逃げていった。
波が打ち寄せる波止場に、とオウムだけが残される。
「良かったね、君。ほら、もう捕まらないように早く逃げてね」
いや、珍しいオウムが天然な訳はないから、この場合飼い主の元に戻ったほうが良いのだろうか……そんなことを考えながら、はくるりと踵を返した。
一日一善で自己満足して、思考を近江のことに戻そうとしたが、それは再び独特の喋り声によって遮られる。
「オタカラ! オタカラ! テメエ、ヨコセ!」
「………………」
バサバサと大きな羽音を響かせての周りを飛びながら、相変わらずの口の悪さを披露するオウム。
飼い主の顔が見てみたいとはまさにこの事である。
結局、追い払っても宥めすかしても撒こうとしてもその努力は報われず、は諦めて先を急ぐことにした。
珍しい派手な鳥を連れていたら悪目立ちしてしまうので嫌だったが、飽きたら向こうから離れるだろうとタカを括る。
そうして付かず離れずの一人と一羽が共に堺を抜けて東の街道に入った頃だった。
「モトチカ!モトチカ!」
急にオウムがそう叫んだかと思うと、スイと高度を上げて街道から外れた山の中へ入っていく。
突然のことに呆気に取られたは、しかしすぐに表情を険しくした。
「……剣戟?」
大分遠いようだが、鋭くなった聴覚と感覚がそれを捕らえる。
この剥き出しの闘気と言い間違いない。誰かが、山の中で戦っているのだ。
それは、まさにオウムが飛んで行った方角で――
「……私って鳥好きだっけ」
そう言えば今更ながらに思い出す事実だった。
尤も、自覚していたのはもっと小さな可愛い小鳥だったのだが。
それにしてもここまで関わったのも何かの縁だし、あのオウムが巻き込まれて殺されたら寝覚めが悪いこと請け合いだ。
は一つ溜息をついて、我ながらお人良しであることを自覚しながらも駆け出した。
近づく毎に強くなっていく圧迫感……は表情を改めた。
盗賊とどこかの武者くらいに思っていたが、これは只者では無い。
凄まじい気にあてられて、知らず頬を冷たい汗が伝う。
やがて開けた視界に飛び込んできた光景は、を驚かせるのに十分だった。
「ピーちゃんじゃねぇか!」
「モトチカ!モトチカ!」
派手な衣裳に派手な武器を構えた偉丈夫が、顔を輝かせてオウムを迎え入れる。
そしてその向かいに対峙していたのは……
「疾風……!!??」
「! ……!」
赤い髪と黒い脛宛ての忍――の友人である疾風だった。
なぜ彼がここに――思ったことは向こうも同じだったらしい。
反射的に駆け寄ろうとして、じゃらりと聞こえてきた音源にもう一方の存在を思い出す。
はっと目を向ければ、訝しげに細められた隻眼がを射抜いていた。
「なんだ、テメェ……テメェも伊達の人間か?」
そう言って凄みながら肩に掛けた武器は、鎖の付いた巨大な碇。
只者で無いという直感は、この疾風と互角に渡り合っていたらしいことから見ても間違い無さそうだ。
そして、どうやらオウムの飼い主でもあるらしい……――『モトチカ』――オウムは彼をそう呼んだ。
堺の港は、本州の玄関口。
そして、疾風はこう見えても伊達軍黒脛巾組の中で抜きん出た力を誇る戦忍――
有り得ないとは言い切れない名前が浮かんで、は頬を引き攣らせた。
「……まさか」
その呟きは、彼の質問の答えにも、己の考えの感想にも重なっていた。
070505
CLAP