拝啓 父上様


 突然姿を消し、さぞや驚かれたことと存じます。
 どうやら、以前この世界へと戻ってきた時と同じようにして場所を移動してしまい、無一文だった私は今、畿内・和泉の旅籠にて厄介になっております。
 私は物を知りません。そして覚悟も自覚も足りず、心弱いせいで父上や武田家に迷惑を掛けてしまいました。
 甲斐を出たのは私の意志です。
 恩人からも家族からも逃げることしか出来ない弱い私の意志です。

 此度のこと、そしてこれからのことをゆっくりと考える時間をいただきたく、頭を冷やす意味でも、しばしのお暇をいただきとうございます。
 当座の行き先は佐助に伝えてありますが、それより先はどうか追われませぬよう。
 謹慎中の身でありながら勝手な振る舞いをお許しください。

 心の整理が付きましたら、必ず一度戻ります。
 その時までお体を大切になされますよう、ご武運をお祈りいたします。

 幸村殿、佐助、家中の皆様にも宜しくお伝えくださいませ。


 

47.手紙の声

 甲府の躑躅ヶ崎館にその文が届けられたのは、武田の姫武将でもある末姫が姿を消して十日後の午前だった。
 何の特権も行使せずに和泉からこの甲斐まで送られたにしては異例の早さだが、どうやら海路を使ったらしい。
 今は豊臣領となっている駿河の港から界隈でも信用のある幾人かの商人の手を経て、最終的に武田へ出入りする御用商人によって届けられた。

 主である武田信玄の居室には、その文のことで呼ばれた三人の人物がいる。
 武田の一番槍武将である真田幸村、武田が誇る忍隊の長・猿飛佐助、そして信玄の知恵袋でもある軍師・山本勘助。

 最近では甲斐の虎姫とも呼ばれるようになっていたの失踪は、家中・城下に知れ渡れば徒に動揺を広めることになり兼ねないので、謹慎中という名目で伏されていた。
 行方不明という真相を知っていたのは、ここに集められた人間だけである。

 あの伊達軍が乱入してきた戦明けの日を境に忽然と姿を消し、佐助の指揮の元に忍隊が行った捜索でも杳として行方の知れなかった――
 豊臣の本拠である遠い畿内に居るなどとは夢にも思わなかったから、捜索が実らないのも当然だったのだ。

 そのから届けられた文を、父である信玄はその場に意訳して読み聞かせた。
 顔には特別な感情は表れていないが、を心配してほとんど眠っていなかったのか、濃い疲労の色が見える。
 読み終えた信玄は、言葉を切って数拍おき、徐に視線を上げた。

「……して佐助、『当座の行き先』とは?」

 佐助は信玄の目線を受け止め、少し考えるように間を空けた後、いつもより若干固い声で答えた。

「俺が聞いたのはまだ伊達が乱入してくる前でしたけど……姫さんは浅井夫妻に対して、豊臣から近江の領地を守る為に戦うべきだと説得しました。近江の国が豊臣の手に落ちれば魔王を刺激して天下を巻き込んだ大戦になり兼ねない、と」
「ほぅ……」

 感心したように声を漏らした勘助の横で佐助は更に言葉を続ける。

「その上で、個人的な意見だと前置いて、浅井は武田・上杉と同盟を結ぶべきだと説きました。同盟を持たない今の武田として力を貸せない代わりに、個人として協力する…それが誠意の証だと。そんでその時に言伝を預かったんですよ――『近江に家出します』ってね」

 他には心当たり無しですと言い切る佐助に、信玄はふむ…と低く唸ってため息をついた。

「どう見る、勘助」

 勘助は顎を擦っていた手を置いて、は、と信玄を見上げた。

「戻ると仰せられる以上、お戻りにはなるでしょう。しかし如何な心積もりで戻られるかは……」

 珍しく言葉を濁した名軍師は、姫様が平凡な我儘姫や深窓の箱入り姫であられたなら話は簡単なのですが、と括った。
 信玄も頭の痛い事柄にため息をつく。

 は学ぶべき時間のほとんどを未来で育ち、それ故に世の中の物事を知らない。
 何が良く何が悪いのか分からないというのは、特に独特の作法にうるさい武家にあっては辛いことだろう。
 それでも真面目に、童がやるような書き取りや言葉遣いの勉強に始まり、武芸、茶の湯、詩歌や芸事全般にかけても学んでいた。

 信玄の娘たるに恥ずかしく無いようにという気概であることは信玄自身にも分かっていたし、それだけ努力しても家中の信用を中々得られないことに親馬鹿と言われようと気を揉んでも居た。
 元来、活発だが不治の病に侵されていたせいか、引っ込み思案な所もあり、不必要なほど思慮深い……
 親の欲目を抜きにしても、己の立場と力量と周りの評価を推し量って、足場を固めるべく邁進していた聡い娘……

 その娘に関して唯一つ気がかりだったのは、謙信も言っていたように心に何かしらの『闇』を抱えていることだった。
 それは、たった一人で攫われ、未来へ飛ばされ、孤独のまま帰還したの胸に確かに巣食っていた。

 しかしそれでも、自分たちが傍に居さえすれば抑えられると思っていた。
 一気に決壊したのは、たった一人の男の出現――

 ギリリと手の内の扇を握り締めた。

「――幸村、伊達の小童はどうしておる」
「……は、大分回復し、意識は確りとしておりまする。馬に乗れるようになるには、今しばし時が必要かと存知まするが」

 奥州筆頭である独眼竜伊達政宗――この世界に帰還した頃のを保護し、今回も織田の刺客から身を挺しての命を守った。
 愛娘の命の恩人であるこの敵国の大名に、信玄はまだ一度も会っていない。

 勘助の言った通りである。
 は気が済めばこの甲斐に戻るだろう。だが、以前のように信玄の娘としてこの館に戻る為では無い。
 奥州の間者と疑われた罪を――それを解く為に申し付けた謹慎を破った罪を、償う為に戻ってくるのだ。

 信玄は深い溜息をついて顔を覆った。
 かつて自分を廃そうとした父や息子――それにしたのと同じ事を、にまで出来る訳が無い。

「小童め……」

 信玄は政宗が憎かった。
 が敵である政宗を慕っていたのは、言動を見ていればすぐに分かった。
 そして政宗も、その形振り構わなずを取り戻そうとする行動が、全てを物語っている。
 の心を奪い、そして自身をも奪おうとする政宗――それでも、愛娘を追放したりましてや殺したりするくらいなら、熨斗付けてくれてやった方が幾らかマシというものかもしれない……。

「――お館様、姫様を…『甲斐の虎姫』を失わずに済む方法なれば、他にもありまする」

 胸中を読んだかのような勘助の言葉に、信玄ははっと顔を上げた。

「今ここで、独眼竜を殺してしまえば良いのです」

 低い声でゆっくりと告げられた言葉は、『鬼』と呼ばれる程の鋭い眼光に集約する。

「主を失って動揺する奥州を即座に攻め落とせば、姫様に対する疑いも晴れまする。そして独眼竜が消えれば、姫様自身のお目も覚め……」
「それはならぬっ!!」

 突然大声を上げて立ち上がった幸村に、全員の視線が集まる。
 幸村はふるふると拳を握り締め、激昂したまま信玄の前に進み出た。

「それはなりませぬ、お館様っ! いま手負いの独眼竜を討てば、命を助けられたは何と思いましょうや!……それこそ己を責め、自刃し兼ねませぬっ!」

 主の剣幕にぽりぽりと頬を掻いた佐助も、溜息をついて同意した。

「まあ、そうだね。姫さんの性格だとやりかねないよね」

「――フッ、フハハ、よう言うた、幸村! 敵を討ってを手に入れようなどと言い出すようならば、わしも安心してくれてやれぬ所よ。勘助、お主も人が悪いのう」
「何の。我らが姫様を欲しいと言うなれば、このくらいは当然のこと。幸村殿、うかうかしていては、あの切れ者の独眼竜に浚われまするぞ?」

「~~~~~~~~っ!!」

 嵌められたと知り、顔を真っ赤にして口をパクパクと喘がせた幸村は、そのまま一言も発せず部屋から出て行った。
 佐助もそれに従って一礼して消える。

「……あまり幸村を苛めてくれるなよ、勘助。――して、浅井は何とする?」

 苦笑した信玄は、真顔に戻って勘助に視線を向ける。
 その意を汲んだ勘助は、いつも通り信玄が望んでいることを策として口にした。

「姫様が近江へ向かわれたのならば、重畳。かつて北条・今川と結んだように、今度は上杉・浅井と三国同盟を結べば宜しい。間の織田は黙ってはおりますまいが……さて、ここが幸村殿の男の見せ所ともなりましょう」

 うむ、と頷いた信玄は、西の空へ思いを馳せる。
 文から垣間見えた娘の心は、手ひどく傷付いているようだった。

「厄介な男に捕まりよって……帰ったら、このわし自ら鍛え直してくれるわ!」

 荒々しい言葉とは裏腹に、声音は深慮に滲んでいた。






 息を切らして自分の屋敷に戻った幸村は、真っ直ぐに客間へと向かった。
 その部屋に辿り着くなり、スパンと勢い良く障子を開けると、眉を顰めた隻眼がこちらを睨んでいた。
 既にその半身は布団の上に起き上がっている。
 あれだけの深手を受けたというのに、脅威の回復力だった。
 一時は確かに生死の境を彷徨っていたというのに、もう平然としているその顔を見ると、幸村の中にどろどろとした苛立ちが溢れ、気が付けば声を張り上げていた。

「貴様には渡さぬっ!!」

 唐突の来訪に唐突の宣戦布告――普通ならば怒る場面だろうに、言われた独眼竜――政宗は、ニヤリと口の端を引き上げた。

「おもしろい。テメェもアイツに誑し込まれた口か」
「誑し……っ、ぶっ…無礼なっ…!!」

 自分の想いも、その上、までも侮辱されたようなものだ。
 激昂した幸村を政宗は平然と床の中から見上げる。

「事実だろーが。アイツはウチでも、武将から一兵卒……城下の町人に至るまで悉く手懐けていきやがったからなぁ……まあ尤も、この真面目な甲斐じゃあ、流石のアイツも居心地悪そうだがな」

 それが真実なだけに、幸村は反論出来なかった。
 屋敷の者たちの噂話でも耳に入ったのか、手飼いの忍に調べさせたのか……恐らくはその両方だろうが、政宗は武田でのの暮らしぶりを知っている。
 むしろ、知らないのは幸村の方かもしれないと思った。
 幸村が知っているのは、武田の姫としてのだけだ。
 の性格上、ただの『』として自由に想うがままに過ごしていた伊達での生活は、武田でのそれよりも遥かに性に合っていたのかもしれない。
 それでも――が武田の者であることには変わり無い。

「しがらみあるは、その土地に根を下ろしている証拠だ。伊達に居た頃の天涯孤独よりも、家族と共に過ごす武田の方が幸せに決まっている!」
「何が幸せかは、アイツが決めることだろーが」

 ――「政宗さ…ん―――」

 の口から切なげに零れた名前……
 あの時、幸村は身を焼かれるような炎を自分の内に感じた。
 今まで感じたことの無いそれは、嫉妬だ――

「確かに、その通りだ。……だが、を幸せにするのは、この幸村でござる!」
「何……?」

 ここに来て、ようやく政宗の表情が動いた。

 が消えた夜――屋敷に戻った幸村は驚いた。
 たった今までの気配もあった筈の部屋の中には、静かに天井を見つめる政宗しか居なかったからだ。

!? どこへ行ったのだ!」
「I don't know.……俺が知りたいくらいだ」

 問い詰める幸村に、政宗は無表情でそう返したきり、何も答えようとはしなかった。
 あの時政宗と何かあったのか、幸村が突然あんなことを告げたのが悪かったのか、それとも最初からそのつもりだったのか――
 は忽然と姿を消した。

は必ず連れ戻す……俺は、に求婚した。お館様のお許しも得ている」

 面と向かって言えば、今度こそ政宗の隻眼が見開かれた。
 そしてひどく不快そうに顔が歪められ、目に殺気が篭った。

「イイ度胸じゃねーか、真田幸村……これで正真正銘ライバルって訳だ。ますますぶっ殺したくなってきたぜ」
「それは俺の台詞だ、伊達政宗」

 が想いを寄せる相手――これ以上、憎い相手もいない。

 ――『幸村殿、佐助、家中の皆様にも宜しくお伝えくださいませ。』

 幸村『殿』などと、最近では公の場でも呼ばれていない。
 それをわざわざ文で敬称を付けたのは、が弟としてでは無く、一武将として幸村を見てくれたという表れだ。

「貴様には、断じて負けぬ……!!」
「Ha! せいぜい今の内に吠えとくんだな」

 殺気の張り詰めた睨み合いをふいと断ち切って、幸村はその部屋を後にした。
 どれだけ憎く、倒したい相手でも、怪我人など論外だ。

「……

 文の言葉が、の声として聞こえてくるような西の空に一言零して。
 幸村は槍を持って、師との鍛錬の為に再び館へと駆け出したのだった。






070422
CLAP