45.弱き心

 ――なぜこんな事になったのだろう?

 呆然としたまま、は空を見上げた。
 星の多い空の中では、大分細った三日月も眩しい程だった。

(お父…さん……お母さん……)

 そう呼んでいたのは、元居た時代で拾って育ててくれた義理の父母。
 最初はただ、あの優しい養父母に認めてほしかっただけだった。

 ある日突然この世界に戻って来て、助けてくれた人たちの力になりたくて……温かい人たちの傍に居る理由が欲しくて、力を求めた。

 本当の父と再会できてからは、それまでよりも認めてほしいと思う相手が格段に増えた。
 父と、家族のような臣下たち…守るべき領民、それだけに留まらず広い天下に響く『甲斐の虎』の…その娘たるに相応しい評価が欲しかった。

 だが今となっては、それが本当に自分の欲しかったものなのかは分からない。

 ――本当に心から望んだものは、何だったのだろう?







 表向き浅井を相手取った戦から一昼夜明けた後――
 が目覚めたのは、体に馴染んだ躑躅ヶ崎館の離れだった。
 普段のように自分の部屋の布団に寝かされていて、一瞬状況を見失う。

 しかし、霞がかかったような頭でようやく事態を思い出すると、一気に血の気が引いた。
 弾けるように起き上がって目眩に呻き、それを無視して立ち上がろうとして転倒する。
 物音に気付いて駆け付けて来た佐助に縋るように問い詰め、やっと聞き出した言葉に、心のタガが外れた。

 ――「竜の旦那の命は、今も予断を許さない状態だよ」

 嘘だと大声で叫びたかった。
 もしかしたら、実際に叫んでいたのかもしれない。
 とにかく、頭の中が真っ白になったような真っ赤になったような……嵐のように感情が荒れ狂う錯乱状態の中で、の目的は一つだった。

 ――今すぐ、政宗さんのところへ…!

 カッと体が熱くなって何かに溶け込むような感覚を掴んだ気がしたが、いきなり抱きついてきた佐助によって阻まれた。

っ! 正気に返ってくれって、頼むから!!」
「邪魔…しないでっ…!」

 懇願といった体で止める佐助に本気で炎を使い、こちらを傷つけないようにという配慮から全力を出せない真田忍隊を力づくで押し退けた。
 数人がかりで取り押さえられても、そこから抜け出そうとがむしゃらに暴れる。

 一時間にも及ぼうかというその騒ぎに終止符を打ったのは、他でもない父・武田信玄だった。

「この…馬鹿者が!!」

 拳ではなく平手だったが、が覚えている限りでは信玄に手を上げられたことは初めてだった。

「頭を冷やさぬか、! お主を案じて止める臣に刃を向けるとは如何なる了見じゃ!!」

「っっ――――…………申し訳…ございません…」

 それ以外に何も言えなかった。

 叩かれた頬よりも、父の怒気を含んだ眼差しよりも、何より胸が痛くて堪らなかった。

 自分のせいで生死の境を彷徨っている政宗に会いに行けない――

 ただ座っているだけのことがこんなに苦痛なことは無かった。






 信玄の言葉によって抵抗を止め、抜け殻のように空にかかる三日月を見上げてからどれほど経っただろうか――

 ただ祈るしか出来ないは、ずっと空を見上げていた。
 神でも仏でも何でも良い。
 を未来と行き来させた何か――不思議な力がこの世にあるなら、政宗を助けて欲しいとひたすらに願った。

 その為になら、何でも差し出すし、自分の命だってどうでもいい――




 やがて空が白んで来た頃、気配も何も感じずに、不意に目の前に鮮やかな赤が飛び込んできた。

――そんな所に居ては風邪を引くでござる」

 今まで戦の事後処理に駆け回っていたのか、まだ血塗れた装束も代えていない幸村が静かな眼差しでを見つめていた。
 幸村のその姿に、戦場でのことが思い起こされる。



 ――「っ!」

 突然目の前に伊達軍が立ちふさがったあの時……
 政宗から『』を取り戻しに来たと聞いた時……

 確かには震えるぐらいに嬉しいと感じていた。
 けれど一個人である前に『虎姫』でなくてはならない自分には、伊達に行くことなど到底頷く訳にはいかなかった。

 そしてそのまま政宗たちと対峙していれば、遠からず戻ってくる信玄率いる武田軍主力と伊達軍がぶつかるのは明らかで……そうでなくとも駆け付けた幸村と政宗はライバル同士。どちらが命を落としても不思議ではないそんな二人を戦わせたくなかった。

「独眼竜は私の獲物だ」

 そう言ったのは、状況を鑑みて何とか切り抜けようとする冷静な自分……
 しかしそれだけでなく、どんな形であれ久しぶりに会えた政宗の一番近くに居たいという浅はかな望みを抱く自分がいたことも確かだ。

 刃を向けることに抵抗がなかった訳ではない。
 けれど純粋に楽しげな隻眼と向かい合って、高揚している気持ちも本物だった。

 そうやってどれだけの時間対峙していたのか……本気では無いだろう政宗にはついていくのがやっとという状態でその勝負に没頭していたのだが、不意に幸村の気配が乱れたことで我に返った。
 そして向けられた――真っすぐな殺気。

「テメェ、織田の犬!!」

 政宗が叫んだのは聞こえたが、幸村の背後から飛び出して来たのは、まだいつきと同じくらいの幼い少年で……前々から政宗を狙っていたという『織田の犬』と咄嗟に結び付かなかった。

「信長様の邪魔をしようなんて、お前目障りなんだよ! 死んじゃえっ!!」

 本人から織田信長の名前が出てようやく、実感として『織田の犬』と繋がった。
 しかし、その時にはもう遅い。
 実際に動きを止めていたのは一瞬だったかもしれないが、その間が明暗を分けた。

「――っ!!」

 幾つも聞こえた叫び声の中で、その一つだけが鮮明に聞こえた。

 そして包まれた大きな温もり……それがずっと焦がれた人だと知ると同時に、その人の体が衝撃に強ばった。

「――――――ッッ!」

 あの瞬間の絶望を他には知らない。

「っっ……や……いやっ……さむね……政宗さんっっっ……!!」
「……ようやく、呼んだな……」

 武田も伊達も、この時全ては吹き飛んでいた。
 あれだけ大事だと思っていた信玄の娘としての立場も、虎姫としての責任も、何もかもが遠くへ消え去り……残ったのは、ただ目の前の大切な人を失うかもしれないという途方も無い恐怖だった。

「政宗さん…政宗さんっ…!!」

 ひたすらに名前を呼んだ気がする。
 記憶が曖昧なのは、夢であれば良いと願ったからか……気が付けば政宗から引き離そうとする腕に必死で抗っていた。

「幸村…! 離してっ!!」

 しかし、普段子どものような弟分は、常に無い厳しい顔で首を振った。

「離すのはの方だ。それは独眼竜だぞ」
「それが何なの!? いや…離して……起きて、政宗さん…政宗さん!!」

 尚も暴れるの手を強引に政宗から引き剥がしたのは、厳しい表情をしたかつての上官だった。

「――落ち着かれよ、武田の姫」
「小十郎さん! 小十郎さん、政宗さんがっ…!!」

 自分でも滑稽な程に取り乱しているという自覚はおぼろげにあった。
 政宗の傍らに膝をついた小十郎は、に一つ頷いて見せ、幸村に向き直る。

「政宗様はそちらの姫を庇って怪我を負われた。今は休戦ということで依存ねぇな?」
「――そちらが仕掛けて来たのだ。好きにするといい」
「今ひとつ。武田の館の中に政宗様を入れることは出来ねぇだろうが、今動かすのは危険だ――近くにどこか都合して貰えまいか」
「幸村っ……!!」

 としては、すぐにでも躑躅ヶ崎館に運んで侍医に治療を任せたかったが、幸村は思慮深く政宗と小十郎を見、最後にに目を止めて短く頷いた。

「某の館に運ぼう。――才蔵!」

 佐助が不在である為、別の忍を呼び、幸村は政宗を運んで手当てするように細かな指示を与えた。
 当然のように付いていこうとしたの意識は、そこで途切れている。




「――あの時、私の意識を落としたのは幸村…?」
「……いや、才蔵でござる」

 はほっと息をついた。
 弟のように慕ってくれる幸村が、の意思をお構い無しに物のように扱ったなどと信じたくなかった。
 だがそれも、次の台詞に打ち砕かれる。

「しかし、才蔵がやらねば俺がやっていた」
「……! ゆ…きむら……?」

 信じられない心地で彼の名を呼べば、真っ直ぐな強い眼差しとぶつかった。

「あの時のは、冷静さを欠いていた。某もいつもお館様に言われている。何時如何なる時も冷静な思考を失ってはならぬ――獣のように衝動だけで行動しては、大切なものを守ることも叶わない」

 幸村が言う信玄の言葉は、確かに真理であるのだろう。
 けれど、今のにとっては自分の想いまで否定されたようで思わず頭に血が上った。

「確かに冷静じゃなかったし、幸村や武田の皆にも迷惑はかけたかもしれない! だけど、あの場合他にどうしたら良かったっていうの!? 政宗さんは確かに敵だけど、私を庇って致命傷を負ったんだよ!? 敵だからってそれを見捨てるべきだったって言うの!?」

 声を荒げて肩で息をするをじっと見つめ、幸村は揺るがない声で告げた。

「――、御館様が言わぬなら、俺が言う。あの場で、『武田の姫を守った伊達政宗』ならばすぐに助けることが出来た。お館様がその場に居れば躑躅ヶ崎館に入れて手厚く治療しただろう。情に厚いお館様なれば、敵であろうと恩人を見捨てることなどあるまい」
「だったら――」
「だが、あの時は、大きな声で独眼竜の名を呼び、取り乱した――それを見た武田の人間はどう思う?」

 反論しかけていたは、その場に凍りつく。

 長年伊達に囚われていて先日帰還したばかりの姫――
 その姫が、敵である伊達当主の名を親しげに呼び、傷を負った相手を抱きしめて取り乱した……

 甲斐で生活し始めた頃にも、武田家中の人間にさえ言われたでは無いか――

 ――「姫様と言えど、勝手な振る舞いは承服できませぬ。……それとも、この黒脛巾と話すようなことがおありか?」

 伊達と内通しているのではないか……長年奥州で暮らす内に情が移って、逆に伊達の間者としてこの甲斐に戻ってきたのではないのか。
 異質なものへの疑いは無理からぬものと思っていた。
 だからこそも、時間を掛けて信用を得るしか無いと。
 そう出来なければ、父信玄の顔に泥を塗ることになると必死で……

「……既に家中や城下にもあの時の様子は広まっている。は伊達の妾だったとまで言われているのだぞ!」
「!」

 自身がどう言われようと侮辱されようと構わない。しかし……

「父…上は……」
「……馬鹿げた噂を広めぬようにと、珍しく家臣の前で声を荒げられた。共に居た謙信公と勘助殿の口添えで何とかその場は収まったが、納得しきれない者も居よう」

 呆然としたまま何も言えないの目の前に、幸村が膝をついて視線の高さを合わせた。
 山の端から顔を出した朝日が、厳しいままの幸村の顔を照らし、普段より数倍大人びて見える。

は――弱い」
「……!」
「幼き頃から、ずっと強いのだと思っていた。だが、それは自分を曲げて強いフリをしていただけだ。普段無理をしている分、此度のようにいざという時はひどく脆い」

 その通りだと思った。
 戦う力も弱いが、何よりもその心が――ずっと孤独に怯え続けていた心は、こんなにも弱い。
 結局その弱さと中途半端な仮面が災いし、政宗の身を余計に危うくしたのだ。

 自責と自己嫌悪で押しつぶされそうだった。
 じくじくと痛む胸を押さえて顔を歪める。
 そんなの目の前から立ち上がり、幸村は登っていく太陽の方角を見つめた。
 その視界には、この躑躅ヶ崎館からよく見える遠い富士山が映っている。

「俺など、あの日本一の富士に比べればまだまだ未熟! この武も心も、まだまだ弱きところもござる。だが、それでも弱く脆いを守るのは俺でありたい。いつか必ず富士のように日本一に……日の本一の兵と呼ばれるようになってみせる!」

 精悍な表情を朝焼けに染めて真っ直ぐ見つめてきた幸村に、の心臓がどきりと跳ねた。
 まるで知らない男を前にしているようで、知らず緊張に身が強張る。

「先ほど、お館様から内々にお話があった。風評に付いた傷が定着する前に、をどこかへ嫁がせることを考えておられる――と」
「嫁…ぐ……? 私が……?」
「俺は、先刻に言ったことをお館様にも申し上げた」
「!」
「お館様は、に異存なくば、許す――と」

 ただ驚くことしか出来ないは、余りのことに言葉を返すことが出来ず――そんな様子を見てどう思ったのか、あくまで真面目な顔のまま、幸村は言った。

が俺を弟のように見ているのは知っている……違う男を想っていることも。だが、この幸村の熱き想い、覚えていて欲しい」

 照れながらも大真面目に告げてそのまま身を翻した幸村は、離れの庭から立ち去る間際、一瞬だけ足を止めて振り向かずにその言葉を残した。

「独眼竜が目を覚ました――医者の話だと、もう心配は無いそうだ」

 告げるだけ告げて静かに去って行った後姿を見送ったの目からぽろぽろと涙が零れた。

「……私に、そんな資格なんて無いよ、幸村……」

 真っ直ぐな幸村に想って貰えるような人間では無い。
 自分のことだけで精一杯なのに虚勢を張って、心に巣食った闇にも勝てず、結果大切な人たちを傷つけて――
 それでも、あの人の命が助かって良かったと、心の底から安堵してしまっているような身勝手な自分。

「政宗さ…ん――――」

 今はただ、会いたい……傍に居たい……!

 そう慟哭する心を抱いた瞬間、体が発光したように熱くなり、の意識は赤い光の中に溶けた――






070408
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