今年は例年に比べると暖かいというのは、奥州筆頭・伊達政宗にとって何よりの幸運だった。
「政宗様、昨日国境の雪が解け始めたと報せが」
「――Good.」
ずっと待ち望んできた情報をもたらした小十郎に思わず笑みを見せる。
諸々の指示を受けて片目たる男が退出すると、政宗は懐から短刀を取り出した。
「――は死にました」
単身甲斐に潜入した疾風が帰還の報告として開口一番に告げた言葉に、政宗は心臓が活動を止めたようにその場に凍りついた。
「――そう、伝えてくれと、に頼まれました」
だから、間を置いて続けられたその言葉を聞いた瞬間、思わず不器用な忍の上に特大の落雷をお見舞いしたとしても、責められる謂れは無い。
普通の人間ならば即死してもおかしくない怒りの鉄槌をまともに食らっても表情一つ変えないのは、流石かつて伝説の忍とまで言われた男だということか……少し焦げた黒装束の合わせから一振りの短刀を取り出し、肩で息をする政宗の前に差し出して、淡々と言葉を述べた。
「今までお世話になりました。さよなら。ありがとう。ごめんなさい――それから、これを殿へと」
が並べただろう言葉を眉を顰めて聞き、更に差し出されたものを受け取った瞬間、政宗は思わず手が震えた。
それは、の初陣の際に政宗がやった守り刀――元は政宗の初陣に父・輝宗から貰ったものだったが、自分よりも非力なを加護して欲しいと渡したものだった。
口では政宗も気軽に言い、も恐縮した程度で素直に受け取ったが、この守り刀が政宗にとって大切なものだということは彼女もよく分かっていただろう。
それを返して来たということは――……
――「は死にました」
どんな顔で、彼女はその言葉を口にしたのだろうか。
信玄の元で末姫として大切に迎えられた筈なのに、なぜ自分を『殺す』必要があるのだろう。
は気付いているのだろうか……その言葉自体が、無理をしている証拠だということに。
すらりと伊達の家紋がついた鞘を払うと、美しかった直刃に曇りがあった。
一見しただけでは分からないように綺麗に拭われていたが、きちんと研ぎに出さない限りは完全には消えないその痕跡。
血と油の跡――何度も人間を斬った血曇り。
武田に行った後でそんな危険があったとは思えないから、伊達軍に居た時のことだろう。
はこの刀で人を斬ったのだ――こんな頼りない一振りの小刀に頼らなければならない程危険な場所に身を置き、そしてあの平和そうな顔を歪めて人を斬ったのだ。
政宗は堪らない焦燥を覚えた。
今すぐに腕の中に抱きしめて、安全を確かめたい――危険や血生臭い所とは無縁の場所に居てほしい……その癖、戦場であれどこであれ、常に自分の側にだけ居てほしい。
「……HA、ガキか、俺ぁ」
その感情の名などどうでも良かった。
ただ、奥州筆頭として――そして伊達政宗という一人の男として、すべきことをし、欲しい物は力づくでも手に入れるだけだ。
「――疾風」
「ここに」
伝説の戦忍は、に付けられた名を呼ばれて政宗の側に跪いた。
元は敵国の忍頭だったこの男も今では自分に対して本物の忠誠を誓っていると知ってはいたが、それは今だけは別問題だ。
「お前も行きたいか?」
「――――はい」
しばらく躊躇った後にけれどきっぱり頷いて見せた疾風に、政宗は口の端を吊り上げた。
「イイ度胸だ……」
この疾風が甲斐から戻った夜――短刀を受け取った後で、「なんで無理やりにでも連れて戻らなかった?」と叱責した政宗に、疾風は淡々とこう答えた。
「が、殿の傍に居るよりも幸せだと申しました故」
主君の命令よりもの幸せの方が大事――そう言ったも同然だったが、この忍に限ってだけはそれでも良いような気がした。
いつの間にか後ろに控えていた小十郎などは米神を震わせて怒っている……というよりも呆れていたが、こんな調子の疾風が今まで幾度となくの命を守ってきたのだ。
ただ、が言ったというその言葉が政宗の心に深く突き刺さったのは紛れも無い事実で――
「そうか……アイツは、元気だったか…?」
内心の動揺を悟らせまいと、そう問うだけで精一杯の政宗だったが、疾風から返って来た言葉に今度こそ思考が止まった。
「は、元気でございました。――別れ際に口を吸った時は随分驚いていましたが」
その時のことを思い出したのか、政宗が初めて見るような顔で思い出し笑いなどというものまでしてみせた伝説の戦忍に――政宗は自分の血管が切れる音を聞いた。
「――――覚悟はいいか、疾風?」
「……殿…?」
「問答は無用だ――死ね」
後に鬼の小十郎をもってして「あの時の政宗様は閻魔などと可愛いものではございませんでした。……あれならば織田の魔王も赤子同然でしょう」と言わしめた政宗は、本気の六爪流で、折角無事に生還した疾風を半死半生にしたのだった。
未だになぜ政宗の逆鱗に触れたかがはっきりとは理解できていない様子の疾風だったが、に関係しているというのだけは分かっているらしい。
そのに会いに行きたいかと問われ、逡巡した挙句にも是と答えた疾風は、政宗にとってはやはり嫌いにはなれない正直者だった。
だが、残念なことに政宗はそんなに優しくも甘くも無い。
「OK、分かった。んじゃー疾風、てめぇは西だ」
「――は?」
「毛利・長曾我部・島津が手を組んだっつー話を聞いた。織田と豊臣の動きも含めて、お前ちぃと調べて来い」
「………殿……」
「アァ? 不服か?」
笑顔で鯉口を切って聞けば、疾風の顔が一瞬恐怖に引き攣ったように見えた。――あくまで桁外れた動態視力を持つ政宗だからこそ見えたのだろうが。
「……承りました」
些か顔色の悪い疾風が頭を下げて部屋を出ると、政宗は自分に苦笑した。
は疾風にも会いたいかもしれないが、自分がムカつくので却下だ。
「――政宗様? 先ほど疾風とすれ違いましたが、どうかされ……」
言われた用事を終えたのか再び戻ってきた小十郎は政宗の顔を見るなり嘆息した。
「……大人げの無い」
「うるせぇぞ、小十郎!」
何でもお見通しの傅役に怒鳴って、政宗は小十郎の持ってきた地図に目を落とした。
街道の雪が解け始めた今、甲斐への――への道が開けるのは時間の問題だ。
胸に空いた穴を埋める為……そして奥州を束ねる独眼竜として何も見落とさないように、頭を切り替えて思考に没頭した。
「Oh……こりゃまたniceなtimingだったようだな」
心からの呟きは驚いている集団の前に朗々と響いた。
先頭で馬に跨っていたを目の前にしていくつか動揺する気配を自軍から感じたが、政宗自ら馬を数歩進ませることでそれを制する。
雪解けが確認されるなり万端の準備を整えて米沢を経ったのは二日前――
昨日の未明に甲斐に浅井が侵攻したと聞き、それを迎え撃つ武田軍に越後の上杉謙信と……そしても居ると聞いて、伊達軍は無茶と言えるほどに進軍速度を速めた。
武田と上杉とそして浅井――三つ巴なのか何なのか、全く訳が分からなかったが、その渦中にが居るということが問題だった。
道中で竹中半兵衛が率いる豊臣軍が現れたとか、魔王が忍び隊を投入しただとか、更に混乱を深めるような情報ばかりが飛び交っていたが、甲斐の本拠である甲府の街が何者かに奇襲を受けていると聞き、そちらに方向転換したのはただの勘だった。
ならその意味にも気付いて真っ先に来ているではないかと――さしたる根拠も無い勘。
だが、今はその曖昧な直感に感謝したいくらいだった。
これまたなぜそんなことになっているかは皆目分からないが、甲府を襲っていた筈の浅井軍が引き上げようとしていたところに鉢合わせたらしい。
その先頭にいる浅井長政と市と思しき夫婦の横に、目的であったまでが居る。
まだ甲府城下の門を出る前とは言え、ただ『お見送り』に来たという雰囲気では無かった。
まるで今からどこかに戦をしにいくような物々しさだ。
ナイスタイミングと言ったのはそれ故である。
「大人しくそっちの女を渡して貰おうか」
「――まさ……」
馬上で呆然とするとここに来て初めて視線が合い、政宗は柄にも無く自分の心臓が跳ねたのを感じた。
ずっと想い描き続けてきた存在が手の届く場所に在る――全てを打ち捨てて無理やりに連れ去りたい衝動が湧き出たが、何事か口を開きかけてきゅっと閉じたの表情に体にストッパーがかかった。
「……私に何用か、独眼竜」
聞いた事の無い、固い声だった。
長政たちの前に進み出たその体は、敵意ともとれるような緊張感に覆われている。
は敵である武田の娘だ――分かっていた筈なのに、いつものように『政宗さん』と呼ばれないだけでこんなに胸がざわつく。
「……あぁ、大事な用があってな。一緒に来て貰うぜ――甲斐の虎姫」
ほんの一瞬、の表情が苦しそうに歪んだ気がして政宗は息をつめた。
甲斐の虎姫――その名は、最早この辺りに響き渡っている。
伊達に囚われ続けてきた武田の末姫は、武芸にも秀でた才媛で、今では武田軍の一角を担っている――と。
甲斐に戻って以来縁談も降るようにあるということだったが、父である信玄がそれを全て跳ね除けていると聞いた。
それ故、末姫は虎の寵愛高き秘蔵の姫であると囁かれている。
甲斐の虎の娘たるに相応しい、虎の姫君――その世間の評価を知れば、なら喜ぶだろう。だが、お陰で伊達はすっかり悪役なので、逆に申し訳ないと項垂れるかもしれない。
実際に会うまでは、そんなの反応を想像して気楽に苦笑していたものだが、こうして向き合って、自分の能天気さ加減に政宗は吐き気がした。
奥州の独眼竜と甲斐の虎姫――そうやって向かい合う限り、自分たちは敵でしかない。
しかも、こうして互いの領民・部下の前で対峙するからには、命の取り合いとて辞さない覚悟が必要だった。
「……Ha、今更か」
口の中で呟いて、政宗は強い眼差しをに向ける。
それでも――例え敵でも、この手に取り戻すと決めたのだ。
そのことには、ここにいる伊達軍の誰一人として不服を唱えるものはいない。
例えに刃を向けることになっても……例えどちらかが傷付くことになっても。
もう、迷わない。
「俺は天下を取る――迷ってる暇なんざ、ねぇ」
独白にも似た呟きを拾ったのは、隣に居た小十郎ぐらいだっただろう。
ふっと笑われたことに腹は立ったが、目の前のの瞳が強い色を宿してその輝きに政宗の視線が縫いとめられる。
「……It's nonsense.」
一緒に来て貰うと言った言葉に対しての返答――それを政宗が良く使う言葉で返して来たことに、自然と口の端が上がった。
「――You often said.(言ってくれるじゃねぇか)」
おもしろい。
その強い眼差しに、好敵手と対峙した時のように高揚している自分を感じた。
が傍らの浅井夫妻に向かって自分が伊達を引き止めている間に行けなどと話していたが、政宗としては浅井などどうでも良い。
行くなら行けとばかりに、ただだけを見つめていた政宗だったが、不意に後ろと前方から感じた新たな強い敵意に意識を取られた。
「伊達ますぁむぬぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
馬ごとその場に飛び上がって落下しざまに斬りかかって来たのは、全身に赤を纏った正真正銘の政宗の好敵手。
とっさに抜いた六爪でガッチリと受け止めて、政宗も闘気を高めた。
「真田幸村ァ……こないだの礼はたっぷりとさせて貰うぜ?」
幸村は先日と同じように頭に血が上っているが、今度は政宗も負けてはいられなかった。
これは、自分が楽しめればいいだけのいつもの幸村との対戦では無い。
幸村も政宗の目的が分かっているのか、六爪と交わった二槍にギリギリと力を加えた。
「お前などには渡さぬ!!!!」
「It's my dialog.……それはこっちの台詞だぜ、真田! アイツは俺のもんだ!」
「は物などではござらんっ!!」
「んなこたぁ分かってんだよっ!!」
互いに吼えて力をぶつけ合い、その反動で一旦距離を取る。
「――独眼竜!」
聞こえてきた声にはっと背後を振り向けば、以前より格段に進歩した構えでが弓を番えていた。
前方に真田幸村、後方に虎姫。
「っ! 怪我は……」
「来てはならぬ、幸村!」
その大声での一喝には、政宗たちだけでなく幸村も驚いたようだった。
「何者かが城下に侵入している――佐助は館の後始末に当たらせている故、幸村は城下の敵を討て!」
その命令とも言える強い言葉に、幸村は目を丸くした。
確かに、何者かが城下に入り込んだのは政宗も気付いていた……姿は現さないが殺気を隠そうともせず、虎視眈々とことらの隙を伺っている強い者特有の気配。
当然幸村も気付いているだろう。
だが、政宗との闘いを放棄してまでそちらに当たれと言われるとは、予想だにしていなかった筈だ。
「しかし、ここには伊達がっ……!」
「くどい!」
ぴしゃりと言い放った直後、の全身を炎が取り巻き、番えた矢に纏わり付く。
幸村がはっと息を呑んだ。
「独眼竜は私の獲物……幸村にはやらせぬ!」
この台詞に驚いたのは、政宗とて同じだ。
目を瞠ってを見つめ、その瞳に宿る闘気が本気であることを確かめると、軽く口笛を吹いた。
は気付いているのだろうか――それではまるで愛の告白だということに。
それとも政宗がおかしいのか――殺気でも何でも、ここまで強い感情を自分だけに向けられていることにゾクゾクするほどの歓びを感じるなんて。
「It's cool……イイねぇ、虎姫。粋な申し入れだ。掛かってきな、一対一のpartyといこうぜ!」
闘いの高揚だけでは無い熱に浮かされながら、政宗は地を蹴った。
同時に矢を放ったの攻撃を弾いて間合いを詰めるが、矢を覆っていた炎に生き物のように襲い掛かられて僅かな隙を生む。
それを逃がさずに今度は五本同時に飛んできた矢をかわし切れず僅かに頬を斬ったが、政宗は頓着せずに大きく足を踏み出した。
踏み込み様に斜め上に繰り出した斬撃を、が華奢な弓で受け止める。
「――良く止めた!! 随分腕を上げたじゃねぇか!」
「……当然のこと。私は虎の娘なのだから!」
拮抗した刀と弓はそのままに、もう片方の手で腰に差してあった小太刀を抜いて至近距離から斬りかかって来たの一振りを、政宗は懐から取り出した小刀で受け止めた。
「――あ」
の瞳が緩慢に見開かれる。
政宗が出したのは、あの守り刀だった。
それは、政宗が確かにの伝言を聞いたということの証――そして、それを聞いても尚、ここに来たということの証明。
「なぜ……なんで、ここに来た…!?」
押し殺した声で言われた言葉に、政宗も奥歯を噛み締めた。
「馬鹿なkittyを連れ戻す為に決まってんだろーが!!」
「っ……!!」
びくりと大きく震えたその体を抱きしめようとした瞬間、するりと力を流され、素早い動きで背後に回られたそこから攻撃が来る。
その小太刀の攻撃を今度は片手に持った三本の刀で止めると、泣きそうな顔に笑ってやった。
「素直じゃ無いねぇ、honey。もう簡単にこの腕には収まっちゃくれねぇってか? ……イイゼ、俺は諦めが悪ぃからな。何が何でもこのまま連れて帰……」
「……ひいてっ!」
政宗は胸倉を掴まれ、予期せぬその行動にあっさり体勢を崩した。
「今すぐ米沢に帰って……独眼竜!」
「……やだね」
涙目で間近から睨みつけてくるを、政宗も強く睨む。
「今この甲斐には上杉に浅井、豊臣まで来ている。こんな混乱した地に兵を進めるほど、伊達は愚かでは無いでしょう!?」
「ハッ、そんなこたぁ関係無い」
「関係無い……?」
訝しげに歪められた瞳に、政宗は思わず笑みを浮かべる。
何かと自ら背負い込む性分は相変わらずだが、敵だと断言した伊達のことまで無意識に考えているに笑みが漏れた。
「俺たちは伊達軍のを取り戻しに来た――ただそんだけだ」
「だから、は死んだと……」
「いいや、死んでねぇ。言ったろ、俺は諦めが悪ぃんだ――を取り戻す。邪魔すんなら容赦しないぜ、虎姫?」
刀を交えたが大きく目を見開いた瞬間、背後で幸村の呻き声が上がった。
「幸村っ!?」
こちらが見える範囲内で忍隊に城下探索の指示を与えて居た筈の幸村は、左肩を押さえて蹲っていた。
「幸村っ……!!」
「ぐぅ…油断するとは不覚……! 、こっちに来てはならぬ! 敵が……!」
「――もう遅いってーの!」
やけに場に不似合いな高い声が聞こえたと思った瞬間、聞き覚えのある声と展開に、政宗は大きく目を瞠った。
「テメェ、織田の犬っ……!!」
「犬じゃないやい! 蘭丸だい!」
しかし、高く飛び上がったその小柄な体が弓を構えている先を目にした瞬間、政宗は何も考えずに走り出していた。
「信長様の邪魔をしようなんて、お前目障りなんだよ! 死んじゃえっ!!」
「――っ!!」
体の下に抱き込んだ瞬間、の体が強張ったのは分かったが、政宗の方はその温もりに安堵していた。
――やっと、この腕に抱くことができた。
「っっ……!!」
次いで背中に予想通りの衝撃と傷みが突き刺さる……それでも、安堵は抜けなかった。
――この数ヶ月失くしていた、何よりも大事な温もりだ。
「っっ……や……いやっ……さむね……政宗さんっっっ……!!」
「……ようやく、呼んだな……」
HA、と笑って抱きしめたつもりだったが、体に力が入らなかった。
身を起こして震えた腕で自分を抱き締めるに、政宗は自然と口元を引き上げる。
後はもう、何の熱かも分からないままに意識が途切れた。
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