「私は、逃げません……逃げられない……」
苦しさに喘ぐようにそう呟いたは、何かが地に落ちる乾いた音に顔を上げた。
見ると、市の手に構えられていた薙刀が離れて転がっている。
の言葉が市自身の何かを刺激したのか、市の体は小刻みに震えているようだった。
市は……市も……、と口の中で独り言を転がしている。
流石に相手の様子がおかしいことに気付いたは、弓を下ろして問いかけた。
「市さん……?」
「市は……兄様から逃げてばかりいたわ……だって、兄様は市の全部を奪っていくから…だから…仕方ないもの……! ……貴女……貴女はどうして、逃げないと言いながら、好きな人からは逃げようとするの……!?」
「! それ…は………」
耐え続ける者の、血の滲むような叫びだった。
自分と似たものを抱えているに対して、その矛盾や不甲斐なさを責めるような。
思わず言い淀んだを、突然市は抱きしめた。
「市さん!?」
驚いただったが、市の周りの闇が少し薄まり、そして子供のように泣いているのに気付いてそのまま動くに動けなくなってしまう。
市はに向かって涙に塗れた真摯な眼差しを注ぐと、それをそのまま長政に向けた。
「長政様……は、悪ではありません……」
「……何?」
「の心はこんなに苦しんでいる……それに、は市と同じ……ただ好きな人の為に生きたいだけなの……例えそれが罪だとしても」
その言葉に、ははっとして市を見つめた。
生きることが罪だとまでは思わないが、ただ好きな人の為に生きたいというのは……の心に深い杭を打ち込んだ。
――それが、封印しなければならないの本心そのものだからこそ。
「愛を知っている人間は、悪では無い……そうでしょう、長政様……?」
「む………」
何だかんだと市に弱いらしい長政は、正論とも言うべき妻の言葉に一声唸った。
そしてじっとを見る。
「……貴殿、なぜここに来たのだ。信玄公や謙信公は、まだ遠い戦場で戦っている筈」
「それをアンタが言うのかい?」
「……佐助」
今までの命令で黙って見守っていた佐助がお返しとばかりにが受けたのと同じ言葉で皮肉を返したが、それを制しても長政を見つめ返した。
――ここが正念場だ。
自分の感情などに振り回されている場合では無い。
甲斐・越後・近江の平穏が、今この時にかかっているかもしれないのだ。
その重みに拳をぎゅっと握り締めると、ゆっくり深呼吸して口を開いた。
「私は浅井軍と交戦していた戦場で、ある男に会いました。竹中半兵衛――ここに居る筈の無い、豊臣の軍師です」
「! 半兵衛殿が甲斐へ!? 今は我が近江に居る筈だ!」
「!? 近江に!?」
と長政は、お互い驚いたように見つめあった。
長政の瞳は動揺に揺れていたが、思慮深さも感じられた。
義兄となった信長とも折り合いが悪いというし、直情過激すぎる言動を除けばかなりまともな人物なのかもしれない。
だからこそ、は聞いてみたくなった。
「浅井殿……あなたが甲斐に来たのは、あの男から私の存在を聞いたからでしょう。何と言われていたのかは知りませんが、豊臣の軍勢を借り、偽の戦を仕掛け、その内に相手の本拠を攻めて町まで焼こうとは……あまりに『正義』からは悖った行いのように思います」
それなのになぜ? そう尋ねたに、長政は微妙な表情を返した。
正義を掲げ、日の下を歩いているような彼には珍しい表情だ。
「――虎の姫よ、貴殿は知らぬと思うが、今や西は豊臣と織田で二分されているのだ」
「西……と言うと、中国四国…九州も…ですか?」
の問いに、長政は「是」と頷いた。
正確には、中国毛利・四国長曾我部・九州島津は三国同盟を結んで対抗しているものの、覇を競うように侵略の手を伸ばす織田・豊臣軍に制圧されるのも時間の問題なのだという。
もうそんな所にまで……というのが、の正直な感想だった。
特に豊臣は、数ヶ月前に小田原と駿河を手に入れたばかりでその基盤も固まっていないだろうに、更に西に乗り出し、北の甲斐・上杉にまで干渉している。
――「この僕の策がこれだけだなんて――、君ならまさか思わないだろう?」
あの半兵衛の言葉を聞いた時、真っ先に頭に浮かんだのは浅井夫妻のことだった。
豊臣と密かに繋がっているという浅井――開戦してから一度も姿を見ないのは奥の本陣に留まっているからなのかと思っていたが、あの半兵衛の妙に自信のある態度がそれを裏切っていた。
半兵衛は『僕の策』と言った。
が知っている半兵衛の策というのは、意表をついて敵の裏をかくような搦め手ばかりだ。
浅井にも豊臣にも利のある策……戦場に姿を見せない浅井……上杉領に向かっていた半兵衛……
それらを総合すると、浅井の大将率いる別働隊が信玄不在の本拠――甲府を攻めるという結論に達したのだった。
そうして全速力で甲府へと駆ける馬上で、姉川で目撃された所属不明の軍のことも思い出した。
煽って焚き付けた相手の隙をついてその領地まで奪うというのは、豊臣が今川を占領した時と全く同じだ。
豊臣は、浅井の領地まで呑み込むつもりだ――
そう気付いたからこそ、は浅井と『話をする』つもりで単身占領された館に乗り込んできた。
いくら敵国と言っても豊臣の手に落ちるのを黙って見過ごしたくはなかったし、それで浅井が領地に引き返すならたちもこれ以上戦わなくて済む。
大切な人や領民を失わずに済む。
人を斬らずに済む。
そう、結局は自分の為だったのかもしれない――戦から離れる為の口実のようなもの。
「西が攻め取られれば、次は前田や我が浅井の番……それももはや時間の問題なのだ」
長政は苦いものを噛み締めるように吐き捨てた。
は、半兵衛の計略を浅井に教えようとこの場にやって来たが、この口ぶりからすると……
「あの男が長政様の国を狙ってるのは知ってたわ……知ってて、甲斐に出陣したんだもの……」
驚いて見ると、市が耐えるように低い声で吐き捨てた。
「でも、兄様の手で地獄に変えられるくらいなら、豊臣に呑み込まれた方が、まだマシ…!」
「――近江の民が生き延びる術は、それしかないのだ」
崩れ落ちそうになる市の体を支えて、長政もそう重い言葉を重ねた。
周りの浅井軍の兵たちも「ひい様…!」と心配そうに身を乗り出し、長政を囲んで武器の矛先をこちらにしっかりと向けてくる。
民のことを想い国を明け渡す傍らで、自らの『正義』を掲げ『悪』を倒すために兵を連れて戦を仕掛ける――
ただの自己満足に過ぎず、奇麗事だと思うし、にはこの二人の言葉を理解することが出来ない。
それでも――
ぐったりしている市と、それを心配そうに抱きかかえている長政に、は漠然と思った。
自己満足だろうと奇麗事だろうと、それでも、この二人に統べられる民は幸せなのだろう――と。
長政は口では厳しいことを言いながらも、市のことを大切に気遣っている。
浅井の襲撃が一日空いたのも、市の足が癒えるのを待っていたのかもしれない。
――「愛を知っている人間は、悪では無い」
市の言葉はある意味真理だ。
……佐助が顔を顰めそうな言葉ではあるけれども。
漠然とそう思った時、不意にその佐助の背後に忍隊の配下が現れて携えてきた伝令を口上した。
「武田・上杉軍の勝利にございます。姫様がたはこちらにお留まりを。一足早く出立された幸村様の隊が間も無くこちらに到着いたします」
「あらら、旦那ってばよっぽど心配だったんだねー」
意味ありげにこちらを見て笑う佐助に、は複雑な心地で苦笑する。
心配してもらうのはありがたいことかもしれないが、それだけ信用されていないのだとしたら情けない。
それでも、信用云々を言う前に……幸村が来る前にやっておかなければならないことがあるのだが……
どうすれば良いのか判断しかねて沈黙したに、忍は言葉を続けた。
「それから、お館様から姫様への言伝をお預かりしております。『己が心のままに為せ』――と」
は息を詰めてその言葉を反覆した。
どうしてあの父はいつも、の欲しい言葉で包み込んでくれるのだろう。
今頃必死に馬を駆っているであろう幸村も、いつも何気なく見守ってくれている佐助も、の周りには『光』となるべく人たちが確かに居るのだ。
「――浅井殿、市さん。お聞きの通りです。このまま真田幸村率いる武田騎馬隊が来れば、戦いは避けられないでしょう」
「……」
「退いてください。私はあなた方を討ちたくは無い」
「でも…市たちは、もう近江には……」
言外にもう帰る場所は無いのだと、後戻りは出来ないのだと告げて、悲しげに見つめてくる市に、安心させるように微笑みかけた。
「竹中半兵衛は勝算の無い戦は仕掛けないでしょうが、あの男が甲斐を出たばかりだとしたらまだ可能性はあります。甲斐も近江も、地の利はこちらにあるのですから、今から追えば追い抜ける筈。先回りをして甲斐に兵力を割いて減った豊臣軍を迎撃すれば……」
「ま…待て、虎の姫。貴殿、一体何の話をしている?」
困惑している長政に、は至極真面目な表情で告げた。
「勿論、浅井殿が近江の国を『悪』の豊臣から守る術です」
「な…何を……」
悪という言葉に心動かされた様子の長政に、は言葉を続けた。
「いま近江が豊臣の手に落ちれば、尾張の織田を刺激し、それこそ西を二分するような戦になりかねません」
「……分かっている! だが、豊臣に抗ったとて、どちらにせよ織田は黙っていまい。私は近江を統べる者として、あの兄者だけは退けなければならぬのだ」
「だからこそです」
は父の言葉を頭に浮かべながら、一歩を踏み出した。
「これは武田の総意では無く、あくまで私個人の意見ですが――武田・上杉と同盟を結ぶのです。……あなた方が甲斐に戦を仕掛け、この甲府の町を襲い、町を焼いた事実は変わりません……それが遺恨となって心から信頼し合うことは出来ないかもしれない。……それでも、近江が落とされ、西が統一されれば、次の標的は我々です。そうなる前に手を携えることは双方にとって十分に意味がある筈です!」
浅井夫妻だけで無く、傍らの佐助も驚きに固まっている中で、はぐっと顔を上げた。
「誠意の証として、虎の姫でも武田の将でもない――ただのとして、私個人が、浅井にお味方します!」
「ちょっ、!?」
「佐助、父上に放蕩娘は家出したと伝えよ」
慌てる佐助にきっぱりと言い切ると、しばし絶句した後、佐助は深いため息をついた。
「はぁー……何を言っても無駄なのね。りょーかい。姫さんは『近江に家出した』ってちゃんと伝えますよ」
それで信玄には全て分かるだろうと言外に告げる佐助に微笑み返した時、唐突に長政が大きな笑い声を上げた。
「貴殿、気に入ったぞ! 稀に見るその正義の魂、我らと戦うに相応しい! 市、お前の言った通り、虎の姫は悪では無い!」
「長政様……!」
「浅井殿、それでは――」
長政は大きく一度頷いて、腰から抜き放った刀を頭上に高々と掲げた。
「理の兵(いくさ)たちよ! 我らが国を守るため! 不埒な悪を倒すため! 正義の戦にその身を投じるのだ!」
怒号のように鬨の声が上がる。
早速馬に跨った長政たちに従って馬上にあがったは、何か言われるより前に釘を指した。
「佐助、父上と幸村をお願いね」
「……はいはい。でもちゃんと安全を確認してからすぐに後を……」
「あ、それと取り敢えず館と城下に浅井の残党が居ないか一応の確認と、怪我した民の手当て、損害状況の報告、警備の強化もしっかりね」
「ちょっと、それは俺様の仕事じゃ……」
「それから、私の離れの軒下に住んでる猫に餌もやっておいて」
「だから……」
「よろしくね?」
馬の腹を蹴りざまにそう締めくくってにこりと微笑めば、佐助は盛大に顔を顰めた。
思わず笑ってしまいそうなその表情を最後に、は浅井軍に混じって城下に飛び出す。
これからたった一人で知らない土地に行き、あの半兵衛と戦わなければならないというのは正直心細かったが、甲斐でいつまでも叶わない想いを引きずって鬱々と悩んでいるよりはよほどマシだ。
武田の姫として働く為に――今は個人として力を尽くそう。
馬を駆りながらそう自分に言い聞かせて、甲府の城下の門に差し掛かった時だった。
目の前に土煙を上げて近づいてくる一団が目に入る。
もう幸村が到着してしまったのかと焦ったは、目に入った旗に思い切り目を見開いた。
風林火山でも、武田菱でも六文銭でも無く、色鮮やかな様々の大漁旗――
「ま…さか……」
やがてその先頭を走っていた人物の前立てがきらりと太陽を反射すると、は思わず手綱を強く引いて馬を止めた。
驚いた長政・市たちも馬を止め、の隣から迫り来る集団を見つめる。
互いの顔が判別できる程の距離に近づくと、相手もようやく馬を止めた。
「Oh……こりゃまたniceなtimingだったようだな」
久しぶりに聞くその低く心地良い声は、記憶よりも遥かに強くの心を揺さぶった。
胸が熱くなり、指先が震える。
「なんだ、お前たちは! 暴走しているとは……即ち、悪!」
「邪魔……しないで欲しいの……」
いきり立った長政と市に、相手はアァン?と眉を顰めて目の覚めるような白馬から降り立った。
青い陣羽織が風に翻り、黒い鎧と眼帯を引き立てる。
「てめぇが浅井か。人の獲物に横から手ぇ出したのはムカつくが、今はアンタと遊んでる暇は無ぇ。大人しくそっちの女を渡して貰おうか」
「――まさ……」
――政宗さん。
ようやく視線が合い、思わずそう呼びそうになった自分を、はすんでの所で押し留めた。
いくら個人として浅井に加勢に行くところだと言っても、が武田の姫であることに変わりは無い。
それにまだここは武田家直轄の城下町・甲府の町中なのだ。兵や民の目の前である。
「……私に何用か、独眼竜」
長政たちを制して一歩前に出、何とか静かにそう答えたに、政宗の表情がぴくりと動いたような気がした。
「……あぁ、大事な用があってな。一緒に来て貰うぜ――甲斐の虎姫」
チクリ、と心に棘が刺さったような痛みが走った。
懐かしい鋭い隻眼と見詰め合う内、その胸の痛みはじわじわと全身に毒を巡らせて行く。
――逢いたかった。
本人を目の前にして、たったそれだけの単純な本音が胸を焦がした。
逢って、その声で名前を呼んでもらう――たったそれだけのかつては当たり前だったことを、こんなに切望していたのかと思うと情けなくなった。
なぜ、甲斐の本拠である甲府に政宗や伊達軍が居るのか――『独眼竜』が『虎姫』に一体何の用があるのか――
考えることはたくさんあるのに、胸にこみ上げるのは切なさばかり。
しかし、その中でたった一つだけ確かなことがあった。
「……It's nonsense.」
「――You often said.(言ってくれるじゃねぇか)」
政宗の後ろに控える伊達軍から目を逸らすように英語で告げると、政宗はにやりと楽しげに笑った。
その笑みだけで胸がいっぱいになって、慌てて背中の弓を取って構える。
武田の姫であるの背後には武田家が守るべき町があり、目の前には武装した伊達軍が居る。
が取るべき行動は一つしかない。
一つだけ確かなこと――と政宗が敵同士だということだ。
「浅井殿、市さん――伊達軍はここで私が引き止めますから、あなたたちは一刻も早く近江へ向かってください」
「でも、……」
「早く! 我らの忍を案内に同行させますので」
極度に緊張しながら告げた途端、伊達軍の背後からもう一つの砂埃が上がり、馴れ親しんだ赤い気配が近づいてくる。
そして、背後から瞬時に場に満ちた純粋な殺気――
混乱しそうになる頭を必死に宥めながらも、目の前に政宗が居るという事実だけが、を只管追い詰めていた。
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