そこには、ぽっかりとした闇が凝っていた。

「ああ……やっぱり……貴女も市と同じなのね、……」

 今や戦場と化した庭で座り込み、くつりと喉を震わせたのは、死者の怨念や怨嗟といった『闇』をその身に纏った姫武将――市だった。
 その気圧されるような禍々しさにざわめく自軍の中で、は真っ直ぐに市を見つめた。

 空を覆う曇天は戦場から光を遮り、市の呼ぶ闇が辺りを侵食していく。
 頬を渡っていく風には、死の臭いが混じっていた。

(私は……)

 はゆっくりと目を伏せた。

 戦とは敵との戦いのみに非ず――父である信玄の教えである。
 死を最も間近に感じる極限の状態にあって自分の心に負けるようならば、戦場に出る資格は無いということだろう。

「市さん、浅井殿……」

 は静かに呼びかけて、再び顔を上げる。
 市の隣に雄雄しく立っている浅井長政は何も言わない。市は微笑みを深くした。

「みんな市のせいなの。……こんな戦が起こるのも、兄様を止められなかった市が悪いんだもの……兄様の妹として生まれてきたのが市だったからいけないの……そのせいで、たくさんの人が死んでいく……」

 市の足元の闇が深くなった。

 は、身を切られるような息苦しさを感じて拳を握り締める。

「私は…………」

 焦燥感に駆られるまま、苦しさから逃れるために口を開いた。

42.正義と悪

 甲斐から越後に通じる街道――その入口に無駄に大きな陣を張ったのは、その場所の守りを任された武田家武将・だった。
 大きな陣は、敵に対する牽制を狙った見栄えだけのものである。所謂はったりというものだ。

 その出来立ての大陣の目前に見知った男が現れたのは、戦端が開いてからいくらも経たない内だった。
 予想通りだったとは言え、はぐっと奥歯を噛み締めて相手を見つめる。

「お久しぶり――と言うべきかしら、竹中殿?」
「おやおや、これは誰かと思えば武田の姫君じゃないか。盛大な歓迎痛み入るね。そして、無事のご帰還、お慶び申し上げるよ」

 白々しい言葉に、言いようの無い嫌悪感がの背を這い上がる。
 豊臣軍師・竹中半兵衛――伊達軍の一員として二度見えたこの男は、飄々として貴人に対する礼を取った。

 かつて豊臣は、奥州への侵攻の為に武田と密約を結んでいた。
 甲斐の通行料代わりに豊臣が差し出したのは、武田末姫の所在――つまり、の情報である。
 二度も半兵衛と対峙したことを思えば相手に妙な関心を持たれるのは当然かもしれない。独眼竜の側にいる得体の知れない非力な女――時間を掛けて調べれば、不審な点や昔の記憶を失っていることを知るのもそう難しいことではなかっただろう。名前は知られていたとは言え、それらと武田末姫を結びつけるのは些か強引だから、もしかしたらそれこそ半兵衛でさえも本物の姫だなどとは思っていなかったのかもしれない。
 それにも関わらずこの男は、武田の末姫が伊達に捕らえられ幽閉されているなどという妄言を信玄たちに吹き込んだのだ。
 それによって伊達と武田の間で戦が起こり、死んでいく人々のことなど考えもせず……それどころか、双方の戦力を殺ぐ意図すらあったかもしれない。

 そういった事情を背景に平然と佇み、当事者であるに向かって生家に戻れたことを豊臣に感謝しろとばかりの白々しさを向けてくるとは、厚顔無恥もここまで来れば大したものである。

「竹中殿には是非とも丁重な『お礼』を差し上げたいと思っていました。今日はその機会を得られそうで嬉しく思います――甲斐へは何用で? また以前のような物騒な贈り物でもいただけるのかしら?」

 わざと『姫君』らしい言葉遣いで慇懃無礼に微笑めば、半兵衛もいつもの底冷えのする目で笑った。

「あまり冷たいことを言わないで欲しいな。豊臣と武田は誼を結んだ間柄じゃないか。豊臣と上杉も浅くは無い間柄……その武田と上杉が窮地に立たされていると聞いて、微力ながら加勢に来たんだよ」
「誼……?」

 ぴくりとは視線を上げた。
 以前にまつから聞いた話が浮かび上がってくる。

「それなら私も、風の噂で聞いた話があります。浅井に輿入れされたお市様と豊臣殿は織田家中にあられた頃から誼を交わされ、浅井・豊臣両家には表立ってはいないものの、確かな繋がりがある――と」

 半兵衛の表情がちらりと動いたのを確認して、は静かな口調で続けた。

「真田忍隊の報告によれば、浅井領・姉川付近で所属不明の軍を見かけたとのこと……私は、また伊達の時と同じく、漁夫の利を狙う不逞の輩がいるのかと思っていたのですが……竹中殿はどう思われますか?」

 言外にこの戦いへの干渉――武田・上杉・浅井をも攻略しようとしていることへの牽制を含ませると、半兵衛はしばしの沈黙の後に声を上げて笑い始めた。

「あははははは! やはり君は捨て置くには惜しい人材だよ、。君が虎の姫君でさえなければ是が非にでも豊臣で役立ててあげるところだ」
「死んでも御免蒙ります」

 が不快を隠さずに吐き捨てると、半兵衛は困ったように溜息をついた。
 右手に持った伸縮自在の凛刀を左の掌で弾いて弄びながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

「だろうね。――まあ、いい。今日は君に敬意を表して、豊臣は甲斐と越後から手を引いてあげるよ。だけど……」

 ぐい、と引かれた手にバランスを崩して、は半兵衛に倒れこむ形となった。
 何をするのだと離れようとした体を押さえつけられ、その耳元を言葉が掠める。

「この僕の策がこれだけだなんて――、君ならまさか思わないだろう?」

 その言葉に目を見開いたが体を固くするのと、体が自由になるのとは同時だった。

「はいはーい、そこまで。うちに大事な姫さんに気軽に触れて貰っちゃ困るよ、仮面の旦那」

 そう言ってと半兵衛の間に割って入った佐助は、早くも大手裏剣を抜いて敵意を剥き出しにしていた。
 軽い口調とは裏腹の怒気に後ろに居たさえ驚いた程だが、半兵衛は何も言わずに馬に跨って馬首を返す。
 ふわりと舞った弧を描いた銀髪を靡かせて、素早く馬の腹を蹴った。

「僕の考えを一番理解しているのは、君かもしれないよ、虎の姫君!」

 高らかに告げて走り去っていく半兵衛に、呆気に取られた佐助が毒づいた。

「……うわ…すんごい恥ずかしいくらい気障なんだけど、何なのアレ。追って息の根止めとく?」
「……行くわよ、佐助」

 だが、はそれどころでは無かった。
 半兵衛の背を睨みつけて物騒な台詞を吐く佐助の腕を引き、踵を返す。

「え? 行くってどこに……」
「いいから、急いで!! ――皆も! 陣はこのまま捨て置き、急ぎ出立する! ――甲府が危ない!」

 どよめく隊に叱咤を飛ばし、は率先して馬に飛び乗った。
 目指すは甲府――武田家本拠である躑躅ヶ崎館。 

 どうか間に合って、と万感の思いをこめて馬を駆った。








「――何者?」

 馬を疾走させるに影がぴったりと付いて来たのは、もうすぐ甲府の城下に着くという頃合だった。
 脇の木々を移動している佐助では無く、真田忍隊の者でも無いが、佐助が攻撃をしないということは敵では無いのだろう。

「軒猿にございます。我が頭から、虎の姫君の行く先と理由を伺って来るようにとの命にて参りました」

 軒猿とは、上杉家に仕える忍隊の名称である。その頭というからには、謙信の傍近くに仕えるかすがの事だろう。
 父である信玄には報告の伝令を飛ばしたが、上杉には伝わっていないらしい。

(それだけあちらも混戦してるってこと――)

 全軍で無いとは言え、武田と上杉の混成軍に対して浅井軍がそれだけの戦いを出来るとは思えない。
 あそこに居たのは、ほとんどが浅井の旗を掲げた豊臣軍で、まだ伏兵も温存していたということか。

「甲府が襲撃されると目される為、私は急いで守りに戻ります。浅井から越後への侵攻は一先ず無いが、豊臣の動向には気を付けられよと――かすが殿にはそう伝えてください」

 半兵衛の周到さに歯噛みしながらも軒猿の忍にそう告げた後、甲府の城下に入っては大きく目を見開いた。

 まさか――燃えている!?

 山の麓にある躑躅ヶ崎館の方は分からないが、町の各所から黒い煙が上がっている。
 そして城下を徘徊しているのは、町人では無く浅井の兵士とそれと戦う武田の留守居隊だった。

「佐助、出来るだけの手勢を集めて消火と城下の人たちの安全確保! そのあと留守居隊への加勢へ回らせて!」
「了解! は?」
「敵大将と話を付けに行く。――心配なら佐助も…」
「はいはい、言われなくとも絶対にお供しますよっと」

 固い表情で言って早速姿を消した佐助を確認して、は大きく息を吸った。

「――我は武田家武将・! 我らの町で勝手は許さぬ!」
「……姫様!?」
「おお、姫様じゃ…!!」

 馬の速度を緩める事無く館を目指しながら、名乗りを上げて自軍の兵を鼓舞していく。
 斬りかかって来る敵兵には激励の代わりに馬上から矢を浴びせた。

 勝手知ったる城下の筈なのに、敵に阻まれて思うように進めず、ようやく館に着いたのはその一時間後――
 急いで駆け付けたそこは、既に浅井軍に占拠されていた。
 元々攻められることは想定しておらず、城としての機能を持たない館である。
 城や砦の役割を果たさないならば、守るも攻めるも無い――内部を知り尽くしている方が有利だ。

「……退いて!」

 一声叫ぶと、正面を守っていた巨兵を炎の矢で退けて、門を強行突破する。
 門が頑丈では無いと知っていたとしても、櫓から狙い撃ちの的になってもおかしくない軽挙だったが、期待通りに全て佐助が防いでくれた。

 そうして勢いのままに駆け込んだ前庭に、敵大将である夫婦が待っていた。

「――市さん! 浅井殿!」
「ああ、……やっぱり貴女が来たのね……長政様を怒らせる前に、逃げて……」
「何を言っているのだ、市! 黙っていろ!」

 怯えたように項垂れる市の前に出た長政は、持っていた刀をズンと地に突き刺して声を上げた。

「我が名は、浅井長政! 正義の名の下に武田を削除するべく参上した! この館は既に我が手中にある! 貴殿も早々に降伏し、悪の心を入れ替えるならば命は助けてやろう!」

 まるで正義のヒーローのようにポーズを決めて、睥睨するかのようにこちらを睨む。
 もここに来るまでに上がった息を整えながら、真っ直ぐに目の前の二人を見つめた。

「……何を正義と言い、何を悪と言うのですか、浅井殿?」

 正義と悪――その線引き程曖昧なものは無いように思う。
 が知っている歴史にも、『勝てば官軍』という言葉がある。

「人が戦うとき、それぞれの『正義』があって戦う筈です。でも、それらの相反する『正義』は並び立つことはありません――」

 長政にそれがあるように、この甲斐の主である信玄にも彼の信念…正義がある。

「正義も悪も、強いて言うならそれは、後の世の人が決めることではないんですか?」

 何が正しくて、何が間違っているかなんて……そんな難しいこと、神でも仏でも無いただの人間に決める権利なんかあるのだろうか。
 そもそも、そんな風に絶対の理があるのなら、こんな殺し合いなんかしなくても良い筈だ。

「ええい、黙れ! それを貴様が言うのか、虎の姫よ!」
「え……?」
「武田と伊達の争いの種となり、武田と上杉の間の災いの芽となり、豊臣を敵に回して天下を争乱に巻き込もうとしている……諸悪の根源である貴様を削除する為、我らはやって来たのだ!!」

 は目を見開いた。

 ――これは、半兵衛の策略だ。
 豊臣に都合の良いように浅井に吹き込み、こうして操っているだけだ。
 ……そう自分に言い聞かせたが無駄だった。
 なぜならその言は大方間違っておらず、浅井の襲撃もが目当てなのだとしたら、それは本当に……

「………私の、せい……?」

 呆然と呟いたに向かって一歩踏み出したのは、長政では無く、その後ろに居たはずの市だった。

「待って、長政様! これ以上を責めないで! お願い、長政様!」
「市……?」
「市がを説得します。だから……長政様はそこで見ていて」

 きっぱりした物言いと大きな声は普段の彼女には無いものなのか、長政は驚いて市を見遣った。
 それ以上長政からの静止が無いことを確認すると、市は薙刀を持ってに向かって構える。

……貴女の闇を、市に教えて……?」
「っっっ……!?」

 言うが早いか、市が身を沈めて斬りかかって来た。
 挫いていた足も完治したのか、身も軽い。
 高く飛び上がって振り下ろされた連撃は思ったより速く重みもあって、は不意を突かれたこともあり、何とか弓でそれを捌いて流すのが精一杯だった。

 やがて何合か打ち合った頃に、市から滲み出た闇色の闘気がを侵食するかのように広がってきた。

「っ、市さん……!?」
「駄目よ、。ちゃんと市に教えて…」

 市の言葉に従うように、心に抗いがたい不安のようなものが垂れ込めた。
 相手の攻撃を受けながら防戦一方のの額から冷たい汗が吹き出る。

 父である信玄、家族のような幸村・佐助、武田家中の人々、武田が守るべき甲斐に住む領民……米沢で仲良くなった人々、伊達軍の皆、いつき、まつ、利家、疾風、小次郎、綱元、成実、小十郎、――政宗………

 ずきり、と心臓が音を立てて痛んだ。

 が愛する人々……守りたいと思う人々……それなのに、自身が戦を呼んでいるのだとしたら……
 のせいで、皆が死んでしまうとしたら……

「私が……殺す……?」
「………可哀相に、

 愕然と呟いたは、自分の手が止まっていることに気付いた。
 はっとして顔を上げると、憐れみの眼差しを向けてくる市が目の前に立っていて、自分たちの周りを闇が包み込んでいた。

「くっ……離し…て……!!」

 力を振り絞って弓を大きく振れば、吹き飛ばされた市が少し離れた場所にへたり込むように膝をついた。
 そして徐に肩を震わせる。

「ふふふ……くくく、あはははは!」

 凝縮した闇が彼女の妖艶な美貌を一層引き立てていた。
 うっとりとを見つめて微笑んだ市は、女であるですらどきりとしてしまうほど不思議な引力を持っている。

「ああ……やっぱり……貴女も市と同じなのね、……」

 冷や汗を拭って呼吸を整えたは、努めて冷静に市を見つめた。







「私は…………」

 実体の無い焦燥感は、の胸を食い破るようにして心拍を早める。
 市の纏う闇がそうさせるのか……市がの闇を読み取れるように、市の闇もに伝染する。

「私、は、」

 呼吸さえ圧迫する苦しさから逃れるためには、なりの『正義』で心を鎧のように覆ってしまうしかない。

「私は――逃げません」

 冷たい汗は体の熱も奪っていくようだった。

(そうだ、逃げたくない…よ……)

 武田として生きることも、戦場に立つことも、自身で決めたことなのだ。
 今更、未来に怯えて逃げ出せる筈が無い。
 そんなことが許される筈が、無い。

「逃げ…られない……」

 が生きる場所は、ここしか無いのだから。






070305
CLAP