一陣の突風が吹きぬけた。
乾いた土が巻き上げられて視界に舞う。
腹の底に響く陣太鼓が鳴り渡り、武田の誇る騎馬隊が土煙を上げて突撃を開始した。
一糸乱れぬ動きで始まった戦は、四角四面に整然と型にはまったイメージを抱かせる。
乾いた向かい風さえ、兵法の教本に出てきそうな戦場例を思わせた。
浅井対武田――両家とも長年土地を治めてきた領主の血統であり、当主の性質も真面目なもの同士だ。
畢竟、それらがぶつかる戦も定石を踏襲しそうだが、それを前提にしてどれだけ相手の裏をかけるかが、この戦いの要となる。
血気盛んな伊達では考えられなかったことだ――
「――少しは緊張してるかと思ったけど、意外に落ち着いてんね、」
傍らからの佐助の言葉に、はちらりと視線を返した。
「緊張はしてるけど、今はまだこうやって見てるだけだしね」
本来の主から離れての守りを言い渡された忍に、こうなった経緯を思って苦笑を返した。
浅井が襲撃をかけてきたのは、上杉謙信が躑躅ヶ崎館に滞在して二日目のことだった。
街道で偶然と出会った時には既に甲斐の領地に侵入していたことを考えると、随分遅かったとも言える。
そのおかげで武田は十分に戦支度を整えることが出来た。
兵法としては常道の陣形で布陣した浅井軍を迎え撃つため、武田も軍師山本勘助を中心とした知恵袋が集まり、陣立てが決まっていく。
これが武田としての初陣になるがその軍議で口を開く前に、信玄が告げた。
「、お主はここじゃ」
軍配で指された場所は、自軍からも浅井軍からも離れた小高い丘陵地帯だった。
一見何の意味も無さそうなその場所から周囲の地形を見渡して、はすっと目を細める。
甲斐から延びる街道の出口となるその場所は、越後の上杉領への入口でもある。だとすれば……
「……袋の口ですか」
「さよう」
山本勘助が凄みのある隻眼を不敵にきらめかせて頷いた。
「浅井の狙いは、甲斐と越後。ここに上杉殿が居られる今、甲斐よりも越後を先に攻めた方が得策というもの……とは言え、相手は正義を掲げて寡兵で挑んでくるような輩故、どのような行動に出るか予想もできませぬが……。何より、今は情報が少のうござる。数多の手を考え備えておかねば」
は普段勘助とあまり接する機会は無いが、荒々しい風貌に似合わず小回りの利く多才な人柄のようだった。尤も、そうでなくば実力重視の信玄に重用されることもないだろう。
「それ故、姫様には甲斐と越後を繋ぐこの『口』を守っていただく。重要なお役目ですぞ」
勘助のその言葉に、はただ静かに頷いて承諾した。
軍師として、風変わりな姫に向けられた言葉――恐らく、勘助や信玄の見解ではここが一番危険の薄い場所なのだろう。
それでも万一に備えて佐助まで付けているのだから、その周到さには苦笑するしかない。
これではかえって足手まといだが、ここで駄々をこねれば余計に父たちを煩わせることになる。
だからこそは、この小高い丘陵で待機し、静かに戦場を見つめていた。
これも一つの役目なのだ――このまま大人しくしておくべきだろう。
だが……
「佐助……」
は戦場を見つめたまま呼びかけた。
眼下では、騎馬隊を巧みに指揮した幸村が怒涛の快進撃を繰り広げている。
その後方の本陣には、信玄の他に謙信とかすがの姿もあった。
「私、このままここに居ていいのかな」
小さな声での問い掛けに、ぎくりとしたのは自身だった。
ただ、他の皆が戦っている中で、自分だけがここで傍観していて良いのかと――そういう意味で口にしたつもりだった。
けれどそれは、別の意味にも捉えられるもので……
このまま、武田(ここ)に居ていいのか――と。
佐助はしばらく黙った後、地べたに胡坐をかいて座った。
膝の上に肘を立てて、その手の上に顎を乗せる。
――ここ数ヶ月の間に知った、佐助が気を抜いている時の体勢だ。
鋭い佐助のことだ、今のの動揺を間違いなく見抜いただろう。
どう言い訳して取り消そうかと迷った間に、彼はおどけて溜息をついた。
「さー、この前俺に聞いたよね。忍やってんのが――人を殺すのが辛いかって」
「………うん」
あの時相手の本心の一端に触れてしまって後は、二人とも暗黙の了解で避けていた話だった。
当の佐助から持ち出されたものにシラを切っても仕方がないので、も短く頷く。
「時間掛かった割にやっと出た答えってのが、これまた自分でも呆れちゃうくらい単純でさー」
佐助は苦笑して、聞きたい?と前置くと、ピッとの目の前に人差し指を立てて告げた。
「人を殺すのは辛い――だけど、忍やってんのは辛くない」
「――――それは…」
「少なくとも、そうありたい、と俺様自身は思ってるわけ。そう思えることが、まだ堕ちてない証拠かなー…なんてね」
自嘲気味に笑った表情は翳っていたが、そんな佐助には驚かずにはいられなかった。
それは作り物でも仮面でも無い、紛れも無い佐助の顔と佐助の言葉だった。
「忍なんてさー、物心付いた頃から人殺す方法だの相手騙す方法だの、ドロドロの真っ黒なことばっか叩き込まれるのよ。まして諜報型でもない戦忍ともなれば人殺しが仕事みたいなもんだろ? 加えて俺様みたいに優秀な隊長ともなるとさ、今までもーそれこそ山のように殺しまくってるんだよな」
口調こそいつものそれだったが、そこに偽りの笑みなど浮かんでいなかった。
ただ無表情に淡々と語る。
「殺しすぎるとさ、途中で麻痺しそうになるんだ――例えば馬の前に飛び出した子どもを助けるよりも、馬に乗った武人助けた方が、後々楽だよな――とかさ」
忍でも無く、ましてや血生臭さとは無縁の時代で育ったには実感として理解できないことだった。
だが、命を屠ることに麻痺してしまいそうな自分……その自分そのものに怯える感覚は、少しだけ分かる。
も、先日任された領内の山賊討伐でたくさんの人間の命をこの手で奪った――
勿論そんなことは初めての経験だったが、覚醒し修練した力でそれを成すのはひどく簡単で――簡単だと思った自分に、怖くなった。
「殺しまくる日々に明け暮れてばっかなら、繊細な俺様なんてとっくに堕ちてただろうな。けど、幸か不幸か、そうシリアスにはさせてくれない賑やかな人が居るからね」
「――幸村ね」
普段の佐助と幸村が繰り広げる微笑ましい場面が脳裏に甦る。
戦場を駆ける赤い炎を目で追いながら言うと、佐助はなぜか意味ありげな視線を向けてきた。
「旦那だけじゃないんだけど。――まぁ、こういうのも救われてるって言うのかな……言い方なんて知んないけど、そう易々と堕ちてる暇なんか無いってのは事実なんだよね。――だから俺は、それを守りたい。その人たちに敵対するものとは戦うよ。不本意ながらお仕事抜きだとしてもね。だから……まぁ、戦う力のある忍でいることは、辛くない」
本人の言う通り、ひどく単純でシンプルな結論で結ばれた話に、は「そっか」とだけ呟いて目を伏せた。
いつも誰にも……心の拠り所である幸村に対してでさえ本心を隠している佐助が、にここまでの心内を明かしてくれたことが純粋に嬉しかった。
それと同時に、自分の闇を照らしてくれる『光』の為に戦いたいと言い切れる佐助が、ひどく眩しいと感じた。
「……はどうなの?」
聞かれた言葉に、そっと目を伏せて。
は一つ、大きく深呼吸した。
そして、結い上げていた髪の根元に巻きつけられた赤い飾り紐を一気に引き抜く。
米沢城下で弓兵隊長屋に引っ越した初めの夜、手伝ってくれた政宗から貰ったものだ。
甲斐に来てからも度々眺めていたし、どうしても髪から外す気になれなかった。
しかし、<虎の娘>である今のにとって『光』となるべき者は、敵大将などではなく、身近な家族・自軍の仲間であるべきだった。
「私も、戦うわ」
戦場に視線を落としたまま、は自分自身に誓うように呟いた。
幸村や信玄たちの働き、そして元来の兵力差もあって、戦況は圧倒的に自軍が有利である。
―― 一種、不自然な程に。
にはこの感覚に覚えがあった。
「行くわよ、佐助!」
佐助の後に背後に控えたの隊の者たちにも告げて、きつく手綱を握り締めた。
髪から外した飾り紐は、ぐいと懐に仕舞い込む。
謙信が言った『こころのやみ』に捕まる前に――佐助が言ったヤバイ場所へ堕ちる前に。
自分の心に幾重にも蓋をして、は強く馬の腹を蹴った。
今はただ、少しでも『ここ』に居ても良いという証が欲しかった。
070224