40.こころのやみ

 上杉、浅井、そして武田である自分――立場を異にしている三者が何の変哲も無い林の間道で顔を合わせたのは、全くの偶然だった。

 時は戦国――生きるか死ぬかの戦乱の世。
 敵同士がばったり顔を合わせるなどということが、果たしてどれだけの確率で起こるのだろう。

 そう考えると、偶然というより何かもっと大きな時代の流れのようなものを感じたが、武田と言っても信玄や幸村のような圧倒的な武を持たないには、例え目の前の二勢力がこのまま躑躅ヶ崎館のある府中を攻めると言い出しても止める力さえ無い。

(どうしよう……)

 この後に起こり得る様々なケースを考えて冷や汗をかいたは、まさに一触即発である浅井長政と上杉の忍に気を張りながら、ちらりと上杉謙信と思しき人物に視線をずらした。

 とても一国を背負っているとは思えない程線の細い人物だった。
 元居た時代の某歌劇団員を思わせるような……何と言うか、華やかで耽美な印象だ。
 自分の父親と比べるせいか、には戦人というよりも文化人のように見えた。

 その謙信は今、女かと見紛う美貌に何の感情も浮かべないまま、淡々とその場に佇んでいる。

 そうしている間にも三家が睨み合ったままのその場の緊張が高まり、長政が刀に手をかけ、くの一が腰を落とした。
 びりびりと伝わる闘気にあてられて、も思わず背の弓に手をかけ……

「――――!」

 浮かせた手を宙で止めて、ははっと背後を振り返った。

 後方からの微かな振動が地響きとなって足元に伝わる。
 馬の蹄特有の揺れ……近づいてくるそれは一つや二つではなく、大所帯であることは容易に知れた。

「――父上」

 慣れ親しんだ気配を読み取ってそう呟いた途端、今まで無表情であった謙信がぴくりと反応した。
 離れた場所で、長政も短く呻いて刀から手を放す。

「おのれ……悪に背を見せるようで気は進まないが、今は退く! 来い、市!!」
「あっ……待って、長政様……!」

 素早く判断した長政が背を向けると、市も自らの手を放して走り出した。
 一度だけを振り返って、不安そうな瞳を揺らしたまま長政の背を追っていく。

 二人が去って、近づいてくる武田騎馬隊の気配が大きくなって行く中、はもう一方に佇む人に問い掛けた。

「……あなた方は行かないんですか?」

 の問いに閉じていた目をすっと開けた謙信は、視線を信玄が来る方に向けながらどこか浮世離れした口調で言った。

「われわれと武田家はげんざいどうめいかんけいにあります。きょうはかいのたけだけしきとらにあうためにきました」
「父上に?」
「あないしてもらえますか? ――やみをかかえたとらのひめよ」

 は謙信の瞳の中に、氷のような静寂を見た。
 しかしそれは決して孤独なものでは無く、ただ穏やかな北国の海のようで……

 この人と父はどこか似ていると……ふとそんなことを思った。








「よう参ったな、謙信よ!」
「ひさかたぶりですね、たけだけしきとら」
「壮健そうで何よりじゃ! うぬを倒すのは、このわしじゃからのう」
「あなたさまこそ。わたくしとのしゆうをけっするまえにたおれることはゆるしませんよ」
「はっはっはっ、相変わらずじゃな! 流石は我が宿敵よ!」

 いつに無く上機嫌の父の傍らで控えていたは、二人のやり取りに驚きを感じていた。

 あの後――浅井長政と市が去って行った直後、精鋭を引き連れて現れた信玄は、それが前もっての約束であったかのように謙信に馬を差し出した。
 真田忍隊の探索網に浅井侵攻の報せがかかってすぐに、信玄自らを迎えるためにやってきたものらしいが、上杉との間に会談の予定などがあったわけではない。
 そんな中で、『勘』で上杉謙信が来ているのを確信していたというのだから、我が父ながら人間離れしていると思う。

 ともかくも、滞り無く躑躅ヶ崎館に謙信とその忍を迎え入れた武田家では、更に宴の準備までが整っていた。
 浅井が領内に侵入しているのに暢気と言えるかもしれないが、義を重んじる信玄としては同盟国の主を迎えるのに当然の歓待と心得ているようだった。
 さしあたっての脅威となりそうな浅井を警戒しながら迎撃の態勢を整え、その一方で明日の敵となり得る上杉を刺激せぬよう丁重に持て成す……自国の民を守る為の極めて重要な政と言えるだろう。
 かつては無縁だったそれは、今ではにとっても甲斐領主の娘として果たすべき義務だ。

「そういえばまだなのっておりませんでしたね。わたくしはえちごをおさめる上杉謙信。これなるは、わがつるぎ――名をかすがといいます」

 宴が始まってややして、ふと気付いたように謙信はに視線を向けた。
 いつの間にか謙信の背後に現れていたあのくの一にまで会釈をされて、も気を引き締める。
 最近何とか慣れてきた豪奢な着物を捌くと、背筋を伸ばしてその場に三つ指をついた。

「こちらこそ失礼致しました。わたくしは、武田信玄が娘、と申します」

 ここ数ヶ月で習った行儀作法がモノになっていることを願いながら、頭を下げた。
 本来なら、同盟国相手にここまで丁寧になることもないのかもしれないが、時期が時期である。それに、は本人の意思に関わりは無くとも、謙信に借りがあった。
 武田と上杉が長年の間争い続けてきた川中島の戦い――その最中に唐突に武田から一方的な同盟を申し入れたのは、一重に伊達に居たを救い出す為だったという。
 そんな特異な状況での停戦の申し入れなど、例え受けたとしてもどんな条件さえ付けられる立場であった上杉は、しかし理由を知って無条件で武田の要求を受け入れた。
 以前から信玄と謙信は友とも呼べるほどのライバル同士だと聞いていたが、今日実際に二人のやり取りを目の前で見て、納得した。

 ライバルや敵味方といったものを超越した深い友情――それで二人は結ばれている。

 謙信は、ただ単に友である信玄の娘の為に、戦の最中で同盟を受け入れたのだ。

「僭越ながら、武田との同盟を受けてくださいましたこと、深くお礼申し上げます」
「何を――元はと言えばお前が……っ」
「やめなさい、つるぎ」
「しかし、謙信様っ……!」
「ひかえよといっているのです」
「………はい」

 かすがという忍がに対して激昂したのを制し、謙信は再び信玄に視線を向けた。

「せんこく、このかすががとらのひめに刃をむけたこと、ゆるしてください。つるぎの責はわたくしにあります」
「ほぅ、このくの一がに? なるほど……してどうであった

 不意に話を振られ、は言葉に詰まった。
 父の容赦ない視線に項垂れて観念する。

「初撃はかわしましたが、馬をやられました。かすが殿は佐助に負けずとも劣らぬ戦忍とお見受けします」
「ふむ、佐助と同等か……惜しいことをしたのぅ……お主が例え掠り傷でも負っておれば、出陣の許しを取り消すことも出来たものを」
「父上!」
「はっはっはっ」

 と信玄のやり取りに、謙信もかすがも虚を突かれたようだった。

「……とらのひめは戦にでるのですか?」

 はこほんと咳払いして居住まいを正す。

「はい、先日より隊を一つ任されております。未熟者なれど、僅かでも父と武田の力になれればと思い――……」
「――とらのひめよ」

 言葉を遮るように、謙信の静かな声が響いた。

「いくさばにたつのはやめておきなさい」
「は……?」
「そのようにこころにやみをかかえたままでは、いきのこることなどできませんよ。――そなたのこころには、まよいがある」
「っ――!」

 は思わず息を詰めた。
 後ろで信玄の溜息が聞こえる。
 父と謙信――二人の深い瞳の前で、は顔を上げることが出来なかった。









 ――タンッ! タタタンッ!

 四本の弓が正確に同じ場所を射抜いて前の矢を割ったまま止まったのを確認して、はゆっくりと弓を下ろした。

 誂えたばかりの弓とは相性抜群のようだ。
 連射の為の速引きにも適している。

 思えば、弓も随分上達したものだとしみじみ思った。
 伊達で最初に得物を弓にしようと決めた当時はひどいものだった。
 元居た時代の弓より遥かに弦が固く重いこの世界の弓――あの頃はなぜこんなに扱いにくいのかと悪戦苦闘するばかりだったが、それはが本質を理解していなかったからだ。
 あの世界の弓は、競技や遊興の為のもの。
 しかしこちらの弓は、生きた的を殺すための『武器』なのだ。

 その根本的な違いに気付いたのは、情けなくも武田に来てからである。
 力に目覚めて、血の滲むような鍛錬に毎日明け暮れて、そうして初めての狩りで鹿を仕留めた時、これが人殺しの道具なのだと改めて思い知った。

 自分の得物の本質さえ理解していなかった――以前たまに弓の指南をしてくれていた『彼』も、さぞ呆れていたに違いない。

(あの人が今の私を見たら……どう思うんだろう)

 ――「いくさばにたつのはやめておきなさい」

 脳裏に蘇った謙信の言葉に、はもう一度弓を構えた。
 もう馴れ親しんだ体の内に眠る炎を探り、全身に漲らせて矢に集中する。
 虎をイメージしようとしたところに頭を竜がよぎり、放った矢はいかにも中途半端な獣姿の炎を取って飛んだ。

 ――ザンッ!

 それでも前の矢を押しのけるように的に刺さり、的ごと炎上させる。

 元居た世界で普通の学生として暮らしていた時には、自分が炎の属性を使って攻撃している姿なんて想像もつかなかった。
 伊達に居た頃だってそうだ。

「大切な人を守る力……か」

 属性の力を得るには、武の強さよりも心の強さの方が必要なのだと――特に女は、想う人を守りたいと強く願う心の強さが大きく作用するのだと。
 そうまつから聞いたのは、米沢城下の弓兵隊長屋だった。

 ――「そのようにこころにやみをかかえたままでは、いきのこることなどできませんよ」

 心の闇――正直、自分でもよく分からなかった。
 だが、米沢に居た頃は漠然としていた不安のような靄が、ここ最近大きくなっているのは事実だ。
 あの頃と今で、違っているもの……

「――こんな日にまで鍛錬だなんて、相変わらず真面目だねぇ姫様は」

 唐突に茶化した声がかかり、は溜息をついて声の聞こえた木の上に向かって素手で無造作に矢を投げた。

「おー、怖。ったら今日もダイタン」
「こんな所で油売ってていいの、佐助?」
「だって、俺ってば嫌われてるからさー、居づらくって」
「嫌われてるって、誰に?」

 音も無く着地した佐助から投げた矢を受け取りながら、は尋ねた。
 この不真面目を装っている食えない忍がの鍛錬を邪魔したり愚痴を零してくるのは日常茶飯事だったが、『嫌われている』というネタは初めてだ。

「ほら、上杉についてたやたらイイ女の忍が居たでしょ?」
「イイ女って……かすが殿?」
「そ。同郷でご縁もあるみたいなんだけど、なぜか嫌われてんだよねー」
「同郷って……同じ里でも仕える先が違ったりするものなの?」

 素朴な疑問を、縁側に座りながらぶつけてみる。
 佐助は考える素振りで唸った後、小さく肩を竦めた。

「大抵は仕える家っつーか、横の繋がりとかは決まってるんだけど、アイツの場合はちょっと特殊でさー。最初は暗殺しに行ったんだよ、軍神のダンナを」

 『暗殺』という言葉には息を詰め、佐助もそれに気づいたはずだが、話は淡々と続けられた。

「ところがどっこい、殺す筈の相手に一目惚れして、あっさり郷を裏切っちゃったってわけ」
「一目惚れ……」

 は謙信とかすがが合流した場面を思い出した。
 前田夫妻とはまた違った二人だけの独特の世界――あれが、かすがを動かしたものなのだろう。
 忍の掟は厳しいと聞くが、恋の為に今までの全てを投げ打ったかすが――
 ――ただ、愛する人の為に。

「愛だの恋だの、笑っちゃうよね」
「……え?」

 物思いに沈んでいたところの唐突な言葉に、は反射的に隣を振り仰ぐ。 

「そんなものに縋ったって、何一つ変わりゃしないのに」

 抑揚も無く言われた言葉に、ひやりと肌が粟立った。
 一瞬、隣に居るのが見知らぬ人間のように思えて瞬きする。

「佐助……?」

 決して笑っていない冷たく無感動な瞳の深淵――は思い出した。
 初めて米沢城で会った時も、この忍はこんな瞳をしていたのだ。
 その正体の掴めない戦慄を、怖いと思った。

(……だけど、ここは米沢じゃない)

 は自分に言い聞かせた。
 ここはの国である甲斐だ。
 そして、佐助は甲斐の抱える忍であり、は国主の娘である。
 何よりも、この数ヶ月で佐助の人となりはよく分かっている筈だ。

「――佐助は、忍をやってることが辛いの?」

 慎重に言葉を選んだつもりだったが、間抜けな質問になった。
 佐助の前ではこういうことが多い気がする。
 一筋縄ではいかないと警戒している分、考えすぎて空回りしてしまう。
 案の定、佐助はまたすぐにいつもの笑みを取り繕って苦笑した。

「変なことを聞くねぇ、は。安月給で忍使いも荒いし、俺としちゃ辛いことばっかなんだけど」

 せめてもうちょっと給料上げてくれたらなー、あ、から旦那に言っといてくんない?
 そんな言葉を聞き流して、は語調を変えずに重ねて問うた。

「じゃあ、戦うことが辛い?」
「…そんなこと言っても、俺様ってば戦忍だし」
「人を殺すことが辛い?」
「……楽しかったら、ヤバイでしょ」
「佐助は、ヤバイの?」

 聞いた直後、佐助が息を詰めたのが分かった。

 はこうやって佐助の心と――自分の心と向き合うことで、何となくおぼろげながらに理解し始めていた。
 謙信が言った「こころのやみ」がどういうものかということを。

「――――時々ね」

 小さな……彼らしくない本当に小さな声だけを残して、佐助の姿はふっと掻き消えた。
 ははらりと舞った黒い羽を摘みあげて、そっと日の光に翳してみる。

 暗闇に射した一筋の鮮烈な閃光――――

 奥州の国境が竹中半兵衛の企てによって奇襲を受けた夜、壊れそうなの心を救ったのは、にとって唯一無二の存在だった。
 だが、は自ら彼の手を放した。
 そして今、戦場に出ることで、その掛け替えの無い人と敵対しようとしている。

 は、ふと楽しげに語らう父と謙信の姿を思い出して、その時感じたのが『驚き』だけでは無かった事を痛感した。
 はこの二人が羨ましかったのだ。
 お互いに認め合い、全てを受け入れた上で最高の敵として対峙できるこの二人が。

 には、決して真似のできない理想の関係だった。
 一人で立つこともままならない人間が、他の人間を理解することも受け入れることも出来るわけが無い。

 光を手放した闇――

 それは一体どうなるのだろうかと……
 まるで自分とは無関係の他人事のように。

 その愚かさを、嘲笑ったのだった。






070203
CLAP