36.empty

 まさか、これ程までとは――

 それが、『独眼竜の右目』と称される片倉小十郎の正直な気持ちだった。

 真田幸村率いる武田軍の襲撃が米沢を襲って早十日――武田軍は真っ直ぐに城に雪崩れ込み、あっという間に退いていったので、城も街もさほどの被害は無く、日常の生活に戻っている。
 ――表面上は。

 以前までと違うのは、この米沢のどこにも、とある娘が居ないということだけだった。

……」

 小十郎は溜息と共にその名を零す。


 あの時――武田の奇襲を迎撃するために単身政宗が向かったことを知った小十郎は、取る物も取りあえず慌ててその後を追った。
 そして、ようやく城の大門まで辿り着いた小十郎が見たのは、一人呆然と佇む主の姿だった。

 後から聞いた黒脛巾の報告に驚いたのは、自分だけではあるまい。
 が、あの武田信玄の娘だと――――最初に聞いた時は、何の冗談かと思った。
 だが、今まで見たことも無い主の様子がそれが真実だと物語っていて……。

 と親しかった者は、そんな馬鹿なと思い、詳しいことを知りたいと思いつつも、彼ら以上にと親しかった政宗が動かない姿に口を噤むしかなかった。

 政宗は、一切の感情を排したように、日々淡々と政務を行っていた。
 少なくとも、小十郎や重臣たちの前ではそうだ。

 だが、影で秘密裏に黒脛巾を総動員していたことも、打てるだけの手を模索していたのも知っている。
 何より、幼い頃から傍に在り続けた小十郎には、あの冷静さが己の激情を押さえ込む為の仮面であることに気付いていた。

(あの政宗様がな……)

 実の母に疎まれ続け、いつしか女性に対する愛情も執着も持てなくなった哀れな少年――
 その分、自分のスタイルを確固として築き、戦や政での命のやり取りに生き甲斐を見出していった。
 戦場で血が騒ぎ、心躍るのは、小十郎を初めとした伊達軍全体に共通することだろうが、政宗のそれは、一種異常なまでの力の入れようだった。

 それが、今はどうだ――

 突然戦場に現れた、無力なだけのたった一人の娘が、あっという間に政宗を変えてしまった。
 いや、政宗だけで無く、伊達の――米沢の――あの娘の周りに在った者たちの心を変容させてしまった。

 それは、小十郎とて例外では無い。

 失って初めて気付くとは、よく言ったものだ。
 まさか、これ程までにという存在が心に根を張っているとは、思いもよらなかった。

 小十郎はを好いている――
 一人の人間として。そしてもしかすると、一人の女としても。
 けれど、小十郎の優先すべき第一は、昔も今もこれからも、決して変わることは無い。

 政宗の為。
 伊達の為。

 伊達の治める奥州は今、東海以外の三方を敵に囲まれている。
 いつ攻め込まれてもおかしくない緊迫した状況だ。
 そしてその一つは、が居る武田なのだ。

 政宗が滞り無く日々を過ごしているのは表面上だけのこと。
 このままで良い訳が無い。

 だから、小十郎が言わなければならない。
 自分自身が、そして政宗が、どれだけという存在を好ましく思っていようとも、その感情などで伊達を滅ぼす訳にはいかないのだから――









 ――「政宗さんっ……!」

 最後に自分に向けられたその涙声を振り払うように、政宗は強い酒をぐいと煽った。

 が自分の傍らから消えて十日―― 一向に眠気の来ない夜を、政宗は毎夜浴びるほど酒を飲んで過ごしていた。

 眠らない夜がこんなに長いのだと痛感したのは、子どもの頃以来だった。
 あの頃とはまた違った喪失感を持て余して、あの頃は飲めなかった酒と煙草に手を伸ばす。

 そんな無為に長い夜を続けていたのだから、考える時間は十二分にあった。
 それでも、未だに自分の心を御しきれないでいる。

「……何の用だ、小十郎」

 少し前から部屋の外に黙って控えていた腹心の男に、政宗は静かに問い掛けた。
 そろそろ来る頃かと思っていたが、言われることが分かっているだけに煩わしい。
 このまま気付かない振りをしていても無駄なのだと溜息をつき、諦めるように入室を許した。

 いつもより倍ほど堅い表情をして入ってきた小十郎は、夜も更けているというのに、夜着を着崩した政宗とは対照的にきっちりと羽織まで着込んでいる。

「お眠りにならないのですか?」

 堅苦しく紡がれた質問に、政宗は片眉を吊り上げた。
 傅役である小十郎は、政宗が忘れたいような情け無い過去まで知り尽くしている。
 母の愛情に飢えて眠れぬ夜を泣き暮らしていたことまで知っている小十郎が、それを問うのか――

 政宗は意地でも認めるものかと、平静を装って鼻で笑い飛ばす。

「Han、どこもかしこも不穏すぎて、オチオチ寝てもいられねぇだろーが」

 しかし、それを誤魔化しだと分かっているだろうに、小十郎は真面目に頷いた。

「その通りです。では、武田を攻められるのですな?」
「――――What?」

 予想の範囲外の言葉に、政宗の反応は僅かに遅れた。
 武田という言葉に殊更に反応を見せないようにしたせいでもある。
 小十郎は淡々と言葉を続けた。

「先日、真田幸村にこの米沢にまで攻め込まれたは、間者による手引きがあったからでしょう。よもや虎の娘自らが間者として潜り込んで来るとは思いもよりませなんだが、我らを謀り続け、政宗様を裏切った罪は万死に値する。落とし前を付けるのが道理では無いのですか」

 政宗は、ようやく小十郎の言わんとしていることを理解して、手元の酒を煽った。

「アイツが……が、武田の間者だと?」

 自分でも驚くほど声が低くなったが、勘気が滲んだその言葉にも今更怯むような片腕では無い。

「私はこの目で見てはいませんが、報告を聞く限りでは、そうとしか考えられないでしょう。調べさせた所、確かに信玄公にはという名の娘が居るようですし、何より炎を纏った攻撃をしたとか……そのような力をずっと隠していたことこそが、間諜であった証です」

 小十郎の言葉を聞きながら、政宗はくるりと自分の手元の杯を揺らした。
 確かに、最近のはおかしかった。
 喧嘩のようなものをして、互いに会わない時間が長かったのが原因かと思っていたが、今思えば、始終何かに怯えるような……何かを諦めるような辛そうな瞳をしていた。
 そして、度々発していた不可解な赤い光――あれは、炎の属性というよりも、もっと別の次元のもののようだった……だからこそ、政宗も戸惑っていたのだ。

 が何かを隠していたのは知っている。
 だがそれは、武田の娘ということでは無い筈だ。

「武田の姫は、十年前に賊に攫われて行方知れずになってる」
「……も、十年前より以前の記憶が無いと言っておりましたな……しかし、まさかそれを鵜呑みになさる訳ではありますまい?」
「鵜呑みも何も、武田の姫がそれ以来行方知れずだったのは本当なんだぜ? そんで、真田の野郎は、俺がその姫を攫って囲っていたとか難癖付けて攻め込んで来たんだ――だったら、その空白の十年、姫君はどこにいたってんだ?」

 異国から、義父と共に、商いの為に、北を目指して、そうしてあの戦場を通りかかった『ただの通りすがり』だと言っていた――だが、政宗と会う直前に、目の前で義理の父母を事故で亡くしたと言った。
 それだけでも、言っている内容が矛盾している。
 だが、現実から目を背けて忘れていた自分が浅ましく醜いと……自分が嫌いだと言って泣き崩れたあの慟哭が、嘘だったなどとは到底思えない。
 同じく絶望という深遠を知っている政宗だからこそ、分かる類のものだった。

「あの娘ならば、策の為に演技の一つや二つは造作もありますまい。元から、間者として働く為に家中で存在を秘匿してきたのやも――」
「Ha! Nonsense! の一番近くに居たのはこの俺だ。あの馬鹿は、異国から来たにしたって不自然なくらい常識を知らなかったし、武芸も並の兵以下だった。この独眼竜の眼力を疑うってのか?」
「それでは――……」
「アイツは確かに器用だが、肝心なとこではすぐに顔に出るような奴だ。自分が武田の娘で、炎の属性を扱えるってことに――ありゃ、土壇場になって初めて知ったんだろ。まるで鳩が豆鉄砲食らったような顔してたぜ?」

 本当は、政宗もあの瞬間……が炎の矢を放ち、会った事も無い筈の幸村の名を呼んだ瞬間、今までずっと騙されてきたのかと――また大切な者に裏切られるのかと、のことを疑った。
 急に掌を返される絶望は、幼い頃に味わいつくして、トラウマになっているのだろう。

 だが、ただ無言で大きく目を見開いて立ち尽くしていたは、一心に政宗だけを見つめていて……その瞳がどうしようもない不安の淵から助けを求めているように揺れていたから……

 ――「悪いね、龍の旦那。そういうわけで、これにて退散っと!」
 ――「政宗さんっ……!」

 の方から助けを求めて伸ばされた手だった。
 何があろうとも、それだけは離さないと思っていた手だった。
 とっさに伸ばした自分の腕が、武田の忍に抱えられた彼女に届かなかった悔しさは、筆舌に尽くし難い。

 すぐに追いかけようとしたが、向こうは忍……白斗で追いかけても、領内に逃げ込まれるまでに追いつくのは不可能だろう。
 残った理性の欠片でそう判断すると、傍に居た黒脛巾を呼び、総力をもってしてを取り戻せと命じた。
 感情的に、連れ帰るまでは戻って来るな、と怒鳴り散らした気もする。
 その結果、何の準備も整わぬまま敵の懐に乗り込むハメになった黒脛巾組は、他国にまで謳われる真田忍隊の手中でその大半の命を失った。
 残ったのは、頭領や疾風など、ほんの一握りの精鋭だけだ。

「……では、政宗様は、は本当に何も知らなかったと言われるのか?」
「くどいぜ、小十郎。確かにアイツは大したタマだが、んな大それたことが出来るほど捻くれちゃいねぇ」

 しばらくじっと厳しい視線で見つめてきた小十郎が、ふっとその目を和らげた。

「政宗様がそう仰るなら、この小十郎もそれを信じましょう。聞く所によれば、真田の攻撃から政宗様を庇ったようですからな」

 最後になってそれを持ち出すかと、政宗は顔を歪めて舌打ちした。
 小十郎も相変わらず人が悪い。
 わざわざ、政宗に結論を公言させる為だけに、こうしてやって来たのだろう。
 小十郎とて、が間者だったなどとは欠片も思っていない癖に。

「それでは、武田討つべしとのご老人方の気炎には、私が上手く話を逸らしておきましょう」
「! ……Thank you.頼んだぜ」
「お任せを。……しかし、政宗様。あの律儀なのこと、こちらが気を揉むより前に、あちらから事情を説明しにやって来るのでは?」
「――いや、それは無ぇ」

 断言して、政宗は視線を伏せた。
 政宗もその可能性を考えないでは無かったが、が律義者であるが故に、それは無いだろうと思えた。
 幼い頃の記憶を失くしていた――本当の両親を見つけることが目標だと言っていた。ある種、政宗自身と同じく、肉親の愛情というものに飢えていたのだ。
 しかし、信玄公は行方知れずの末姫を溺愛していたと聞く。
 ようやく得た愛情を注いでくれる肉親の……まして姫という自分の身分を蔑ろにして軽率なことをするなどとは、聡いあの娘に限っては有り得ない。

は、そんなに馬鹿じゃねぇ」
「……そうですか」

 そうして退出する間際、小十郎は思い出したかのように付け加えた。

「それにしても、政宗様がを疑っておられないと知って安堵いたしました。は、政宗様のことを好いていたようなので」

 それでは――そう言って今度こそ退出した小十郎に、政宗は短く舌打ちした。

「Shit……小十郎の奴……」

 なぜ、それを今言うのか。

 武田は政宗にとって敵以外の何ものでも無い。
 その武田の姫というとも、今日明日にでも敵同士として向かい合うかもしれないという状況にあって……

 屈託無い笑みや、ひたむきに前を見据える強い瞳、時折悲しげに曇る表情、政宗に駆け寄ってくる軽い足取り、
 不意打ちのように口付けた唇の熱さや、抱きしめた体の柔らかさ――……

 そんなものをまざまざと思い返して、政宗は赤い顔を隠すように杯の酒を飲み干した。

「――クソ……、オイ、疾風っ!」
「――は」

 音も無く背後に現れた忍は、を追って武田に赴いた時の傷を抱えていたが、本人たっての希望で政宗の護衛に付いていた。
 と疾風は、教育係を終えた後も友人という関係を結んでいたという。
 他には見せない執着をにだけ剥き出しにする風変わりな忍に、男として不快を抱かない筈は無かったが――
 今はそのお陰で、疾風の考えていることが、手に取るように分かった。

「お前、今度は一人で乗り込むつもりだっただろ」
「…………はい」

 そこで嘘や誤魔化しを言えないのが、美点なのか弱点なのかは分からないが、政宗はくつりと笑った。

「どうせ行くなら、何が何でもあの馬鹿を踏ん縛って連れて来い。……それが無理なら、これを渡せ」

 懐から無造作に取り出した懐紙に、筆で短い文字を書き付けると、掠れるのも構わずに折り畳んで手渡した。

「別に見ても構わねーぜ? アイツ以外にゃ分かんねーだろうしな」

 それが異国語であることを悟って、疾風はその場に頭を垂れた。

「承知しました。必ずや、の手元に渡るように致します」
「……頼んだぜ」
「は」

 短いやり取りの中に覚悟を滲ませて、疾風はすぐにその場を発った。

 よっぽど自らが行きたいのを我慢して、政宗は再び一人になった自室から月を見上げる。

 筆まめで洒落者を自負していた自分が、女への文でただの書付よりも乱雑な書き殴りを贈るなど――少し前なら考えられなかったことだ。
 本気になればなる程、余裕も見栄も無くなるものだと、政宗は初めて知った。

 隣にが居ないというだけで、こんなにも違う――

(この月の下に、アイツも居る……)

 ――と初めて会った夜も、月が出ていた。

……覚えてろよ」

 苦く呟いて、政宗はいつもより数倍マズく感じる酒を煽る。
 月明かりが、僅かに霞んだ気がした。






070108
CLAP