月が、綺麗だった。
闇の中にあって煌々と揺ぎ無い美しさを放っているその姿は、昔から変わらず人を惹きつけて来たものだ。
その誇り高い美しさは、一人の男を思い出させる。
初めて会った時も、彼は月を背にしていた。
は、鋭い強烈な眼光の前で、彼を竜のようだと思ったのだ。
寝静まった躑躅ヶ崎館の自室の縁側に腰掛け、は一人、女中に頼んで用意してもらった酒をちろりちろりと舐めるように飲んでいた。
それもまた、自分の苦手な強く辛い酒で、こうして月見酒をしていれば尚更、彼のことを思い出す。
「………馬鹿だなぁ、私って」
言葉と共に落ちた自嘲の笑みは、とても苦かった。
父である信玄と、幸村、佐助に今までのことを話し、自分の失った過去に触れたその日の夜――
信玄は、盛大な宴を開いた。
快復したも、煌びやかな着物を着て信玄の横に座った。
宴の名目は、伊達に囚われていた末姫の帰還祝いと、先の戦いに参加した兵への労いだった。
奥州の宴のように乱雑ではなかったが、武田の宴会も大いに賑やかなものだった。
そして、武将から宴に参加している最下の隊長格の者まで、皆がの前に来ては、口々に「よくぞご無事で」「よくぞお戻りになられました」などと言って喜び、中には泣き出す者まで居た。
そこでようやく、は自分の立場というものを自覚したのだ。
宴の間は、にこにこと何の憂いも無く笑っていることこそが自分の役目だと思ったので、努めて考えないようにしていたが、自室に下がって似合わない豪奢な着物を脱ぐと、冷静な思考が戻ってきた。
ここ最近いろいろなことがありすぎてゆっくり考える暇も無かったが、そうしてようやく落ち着いてみて、自分の馬鹿さ加減に嫌気が差したのである。
外の空気を吸うために障子を開けると、縁側から月が見えた。
女中に強い酒を頼んで、一人で縁側に腰掛けて………………ぼんやりと頭の中を整理し始めてから、既に二時間ほどが過ぎていた。
もうほとんどの者は就寝している時刻――宴の余韻を残したまま、館は夜の静寂に包まれている。
「……同じ、月かな……」
は呟いてから、再び自嘲した。
彼――政宗が居る奥州は、遠いとは言っても甲斐とは国境を接したお隣だ。
月の見え方に違いがある訳は無い。
むしろ、考えるべきは、政宗が今頃何をしているか……の筈だったが、それは何となく『月見酒』で間違いないような気がした。
だからこうして、相伴のようにも強い酒を飲もうと思ったのだ。
それにしても、そろそろ冷え込んできたな……そう思った頃、不意に視線を感じては顔を上げた。
そしてそれは、よく知っている気配だった。
「――幸村殿……?」
呼びかけると、建物の影から罰の悪そうな幸村がゆっくりと姿を現した。
「……見つかってしまいましたか。…いや、姫ほどの武人なら、当然でございましたな」
幸村の言葉に、は苦笑した。
自分は武人などと呼べるものでは無いが、幸村が米沢に来た時、自分でも驚くような攻撃をしかけた。
今思えば、あれが以前まつから聞いた属性というものなのだろう。
まつが利家の危機に――濃姫が織田信長の危機に覚醒したという力。
皮肉なことに、の場合は、想いの叶わない政宗を助けようとした火事場の何とかだったのだけど。
確かにあれ以来、何かと感覚が鋭くなってしまったようだ。
体の内にある力も、以前とは質が違うというか……比べ物にならないほど強くなった気がする。
なるほど、それで幸村の気配にも気付いたのか――今更のように自分で納得し、は幸村を見上げた。
「そんな所に立ってないで、こっちへどうぞ。あ、幸村殿も飲みますか?」
幸村はゆっくりとかぶりを振り、数歩近づいただけで立ち止まった。
「このような時間に姫の部屋に参るなど出来ませぬ。それよりも、某のことはどうぞ幸村とお呼びくだされ。敬語なども要りませぬ」
いつもとは雰囲気の違う幸村に、は静かに視線を返した。
そう言えば、今日の宴でも、彼は何やらずっと難しい顔をしていた。
「――それじゃあ、私のこともって呼んで。周りに人が居ない時は、敬語も無し」
「しかし……!」
「昔もそうだったでしょう? 私は覚えてないけど、幸村は昔と同じようにしてくれていいんだよ」
わざと明るく言っただったが、幸村は難しい顔できっぱりと言った。
「は、だ。だが、無理に『姫』になる必要はござらん…!」
は目を見開いた。
どこまでも真っ直ぐで純粋な視線が、強くを射抜く。
そして唐突に、その場にがばりと跪いた。
「夜分に申し訳ございませぬ! しかしこの幸村、恐れながら姫に言上したい儀があり、参上仕った次第……!」
「………何…?」
「昼間、お館様にお願いされた米沢へ赴かれる件、何卒、お考え直しくだされ…!」
更に大きくは目を瞠った。
驚きに固まったの前で、幸村は力強く言葉を紡ぐ。
「先ほども申したように、姫が――いや、が幼き頃の記憶を持たないことは某も分かっているつもりでござる。無理に思い出す必要も、以前と同じである必要もあるまいと思う。だが、それでも! が、武田の姫であることは動かしようの無い事実…! そして、誤解であったとは言え、武田は伊達に『姫』を取り戻す為に戦を仕掛けたのだ――それも動かぬ事実なのでござる!」
熱くなって立ち上がった幸村を、も真っ直ぐに見つめ返した。
「お館様は、の気持ちを汲まれ、全ての危険を承知でお許しになられた。しかしそれでは――……」
「――それでは、あの戦に参加してくれたみんなに示しがつかないし、同盟を結んでいる国からも痛くない腹を探られかねない。それに、伊達にとっては武田は敵――私を連れて行ってくれる佐助たちや、私にも危険が及ぶかもしれない」
幸村の言葉を継ぐように続けたに、幸村がぽかんと口を開けた。
は苦笑して立ち上がり、幸村の前まで行くと、宙で握り締められた拳をぎゅっと包んだ。
「ごめんなさい、幸村。恥ずかしいけど、今日の宴に出てみて、それでやっと、そのことに気付いたの。父上に会えて、幸村たちと楽しい時間を過ごして、ちょっと平和ボケしてたみたい」
武田の現状は、伊達に居た頃に聞きかじった程度のことしか知らなかったが、少なくとも豊臣・上杉とは何らかの密約がある筈だった。
その上で、幸村が言ったように、武田が伊達に襲撃を仕掛け、国境を侵し、本拠・米沢城に討ち入ったことは紛れも無い事実なのである。
それも、名目は、他でも無いを助け出すため――
例えそれが誤りだったとしても、今更「間違ってました」と言える訳が無い。
あの戦いで、両軍共に死傷者だって出たのだろうから。
それを、今更のこのことが米沢に出向いては、死んでいった武田の兵に示しが付かず、伊達の側からしたらとんだ濡れ衣の元凶――の顔など見たくも無いだろう。最悪、今頃は武田の間者だったのだという話になっているかもしれない。
例え、どんなに隠密に行動しても、どこの国も忍を抱えている昨今、どこから漏れるか分からない。
武田の姫が米沢に赴いたなどと同盟国に知られたら、武田に二心有りとの疑惑さえ抱かれかねなかった。
内と外――両方に火種を撒くことになるのだ。
は、自分がいかに軽率なことを望んでいるのか、ようやく理解したのである。
武田と伊達は、敵国なのだ――
そして、自分は武田の姫で、政宗は伊達の当主だ。
自分の思惑に関係なく縛られるなんてこと、少し前までは大嫌いだったのに、これはそういった好き嫌いともかけ離れた次元の問題だった。
(そう……政宗さんと私は、敵なんだ――)
自分に言い聞かせるように、は瞳を閉じた。
立っている場所が違うのだ。
もう、同じ場所に立つことも……無い。
「――幸村にも、余計な心配させちゃったよね。あ、もしかして、それで今日難しい顔してた? 本当にごめんなさい――でも、幸村が父上や武田の為にそこまで考えて、私を叱ってくれて、物凄く嬉しい。――ありがとう」
にこりと微笑みかけると、幸村が驚いたように目を瞬いた。
次いでタイミング良く幸村の背後に現れた気配に、声を掛ける。
「佐助も、本当にごめんなさい――無駄な仕事させちゃったよね。父上には明日私から言うから」
「……いいえ、どういたしまして。分かってくれたなら、良かったよ」
後ろからひょいと現れた佐助は、幸村の横まで来て苦笑した。
それが作り物の笑みでないことに安心して、はもう一度謝罪する。
佐助は、「今度特別手当くださいよ」などと軽口を言い、大きく伸びをした。
「んー…しっかし、正直どうしたもんかと思ってたけど、まさか旦那が動くとは……大体旦那、こんな夜更けに何て大胆な……アレ? 旦那?」
佐助の言葉にも視線を向ければ、幸村はワナワナと震えていた。
手を握ったままのにも震えが伝わって、どうしたのかと顔を覗きこむ。
「幸村……?」
呼びかけた瞬間、猛烈な勢いで腕を振り払われた。
勢いでたたらを踏んだは、佐助に支えられて転倒を免れる。
「はっ…………」
「は?」
「……あーあ……」
「破廉恥でござるーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
館中に響き渡る大声で叫んだ幸村は、耳を押さえたと佐助を置き去りにして、叫んだままどこかへ走り去った。
去って行った方角から、置き土産のようにエコーが聞こえて来る。
続いて、何事かと館中が起き出して来る気配がした。
「…………………何なの、一体」
「……旦那もあれさえ無きゃあねー……折角高ポイント稼いでも、これじゃあマイナスだっての」
いまだ聞こえて来るエコーに、頭痛がしてきそうな頭を押さえて、はくるりと佐助に背を向けた。
「それじゃあ、佐助、おやすみ」
「え? 、弁解しなくていいの?」
もうすぐ誰かしら駆けつけてくると思うけど? そう言う佐助に、一言だけ返した。
「関係無いってことにした方が良さそうなんだもん」
「………相変わらず、素晴らしい状況判断で」
またぞろ、師匠などと言い出されない内に、は部屋に入った。
聞こえて来る幸村の声にふと口元を綻ばせ、そして静かに視線を落とす。
背中から障子ごしに射す月明かりに決別するように、瞼を閉ざした。
口の中に残る強い酒が、泣きたくなるほど苦かった。
061218