32.父娘

 はらはらと、吹雪のように舞う桃色の花弁を、は無心で追いかけていた。

 麗らかな春の日……何の憂いも無い青い空と、夢のように美しい桜木。

 きゃあきゃあと、はしゃいだ声を上げているのは紛れも無い自分だ。
 目線が低い、視線が狭い――ああ、いま自分は子どもなのだ。



 低く太い声が、優しさを滲ませてを呼ぶ。
 その声に顔を上げた視界に、大きく威厳に溢れた人と、美しい着物を着た女性が映った。

『――! ――!』

 は、世界で一番愛しい二人を呼び、喜びに胸をいっぱいにしながら駆けた。
 抱きついて、抱き返されて………その温もりの、なんと幸せなことだろう。

 そこは、確固たるの『家』――
 一度は失くした、肉親の絆――

 記憶には無いその光景がこんなにも懐かしいのは、それが現実にあった出来事だからなのだろう。
 桜吹雪の舞う、が一番好きだったその庭は、かつての部屋の目の前にあった。


「――――…」
?」

 目を開けると、知らない天井と、自分を心配そうに覗き込む大きな人が居た。

「気分はどうじゃ? どこか辛い所はないか?」

 ゆっくりと静かな声音に心配の色を滲ませて……そう問い掛けてくるその人に、の目頭は自然と熱くなった。

(これは、夢の続き……?)

「まだしばらく寝ておれ、……」

 を呼ぶ、その声音に、こんなにも懐かしさが込み上げる。
 夢で自分が彼を呼んだ言葉は……

「父…う…え……」

 呼ばれたその人は、一瞬驚いたように動きを止めたものの、すぐにうむ、と力強く頷いた。
 もっとこの人を見たい――
 そう思って首を傾けたは、彼の背後に、夢で見た庭を見つけた。
 大きな桜の木も、あの時のまま……

「……きれいな…桜吹雪………」

 の言葉に反応するかのように、今まで蕾ひとつ無かった冬支度の桜が急に開花し、そしてはらはらと花を散らせた。

「なんと……!」

 驚くその人の傍らで、悪戯が成功した子どものように楽しい心地で笑って、は再び眠りに落ちた。
 美しく温かい夢に、守られながら――








 そこから更に丸一日を眠って過ごしたは、次に目を覚ましてその館の主と対面した時に、ようやく現状を理解した。

「――武田信玄じゃ」
「………です」

 対峙して座って、無言でしばし見つめあった後に徐に胸を反って言った信玄に対して、も呆然と自分の名前を告げた。
 傍から見れば、かなり奇妙な会話だろう。

「ここ……は………」
「――甲斐、躑躅ヶ崎館のお主の部屋よ。……お主の家ぞ」

 家――
 信玄は、ようやくぎこちの無い形式張った姿勢を崩して、その大きな手をの頭に乗せた。

「――大きゅうなったな、

 もう十年になるか。
 そう言われて、は胸が詰まった。
 十年――が義理の両親に引き取られ、共に暮らした時間である。
 だが、その義理の両親はもういない。

「辛いことも、苦しいこともあったであろう」

 何度も守り袋の貝を見ては、本当の親のことを考えてみた。
 自分を捨てた人というのは、どんな人なのかと。

「そなたにとっても、わしにとっても、この十年は長かった……だが、ようやくこうして再びまみえる事が叶った」

 本当の両親に逢いたいと思う反面、怖かったというのが本音だ。
 もし、お前の顔などもう二度と見たくないと言われたら――?
 憎しみで捨てたのだとしたら、二度と会いたくないと思っているかもしれない。

「生きていてくれただけでもこれ以上無い僥倖じゃというに、まさかこうしてもう一度そなたに触れられようとは……」

 信玄の大きな手が、の頬を壊れ物を扱うかのように撫でた。
 その手から伝わる温もりが、十年の間にの胸に積もった不安を徐々に溶かしていく。
 涙ばかりが溢れて、何も言葉にならなかった。

「よう帰って参った――我が娘、よ」
「っっ……父上っ…!」

 は声を上げて泣いて、信玄の胸に思い切り抱きついた。
 子どものように泣きじゃくるのは恥ずかしいという羞恥心も頭を掠めたが、父親の温もりの前ではそれは霧散する。

 しばらく泣いて、ようやくそれが落ち着いてくると、はその温もりを手放すまいとしてぎゅっと腕に力を込めた。
 すると信玄もその抱擁の力を増してきて、徐々に強くなっていくそれに、感傷どころではなくなってきた。
 圧死するかと思われるような抱擁だったが、離してほしくないという矛盾もあって、結局も対抗するかのように腕にあらん限りの力を加えた。

「ぬっ!? ぐっ…何の……っ!」
「うぅ……っ…父…う…え……!」

 二人とも苦しみながら手を放さなかった為に、途中からは何が何だか分からない勝負になっていたが、そろそろの体が悲鳴を上げ始めた所に突然呆れたような声が降ってきた。

「はいはい、そこまでー。一体何をやってんですか、お二人とも」
「むっ、……佐助か」
「! あの時の笑顔が怖い忍!」

 朱花の体を突如後ろに引っ張って信玄から引き剥がしたのは、米沢城に侵入していた迷彩柄の忍だった。
 の言葉に、彼はがくっと脱力する。

「笑顔が怖いって……姫さんの第一印象どんななのさ。俺にはちゃんとした名前が……」
「知ってます。猿飛佐助さんでしょ?」

 わざと名前を呼ばなかったのは、ほんの意趣返しのつもりだった。
 今も圧死から救ってくれたとは言え、父娘の感動の再会を邪魔してくれたし、何と言っても米沢で……………

「――ともかく、よ。互いに尽きぬ話はあれど、そなたはまだ万全では無い。今日はまだゆるりと休んで……」
「……もう行ってしまわれるのですか?」

 言うと信玄は驚いたように目を瞬いた。
 子どもじみたことを言ってしまったと後悔しているに向かって、豪快な笑い声を上げる。

「いや、そなたが会いたくなればいつでも飛んで来よう。明日も朝一番に顔を見に来ようぞ。―――そなたの母も、よくそんな顔でそんな事を言うておった。わしもいつも今のように返してな。……も、母に似て美しゅうなったものよ……」

 父に誉められるというのは何だか面映かったが、それよりもが気にかかったのは――……

 ぴくりと反応して見上げてきた娘の言わんとしていることが分かったのか、信玄はしばしの沈黙の後、静かに瞑目した。

「母は、五年前に先立った。……最期まで、そなたに会えぬことを嘆いておった」
「……そう……ですか………」

 いつの間にか姿を消していた佐助の存在を確かめる余裕もなく、は再び信玄に抱きついた。
 今度は縋るように力を込めるのでは無く、着物の端を握って……
 声を殺して、ひっそりと泣いた。

 叶う再会もあれば、叶わぬ再会もある。

 ふと意識に上りかけた隻眼の面影を振り払って、今はただ、ようやく戻ってきた『家』の温もりを感じていた。






061205
CLAP