永遠に続くようにも思える闇を前にして、は足を竦ませた。
 余りの心細さに心が傾いで、視界が歪む。

 今更のように折れそうな心は、闇の中で押し潰されそうになっていた。

「――――……政宗…さん……っ」

 嗚咽は涙となってはじけ飛ぶ。

 闇の中、
 ひとりきりで、

 ただひたすらに、光を求めていた。

26.暗路の星

 戦場は、大乱戦となっていた。
 怒号や銃声、剣戟は止むことなく辺りを包み込み、盛大に焚かれた篝火だけが頼りの門前を少ない兵力で必死に守る。

 本来なら伝令が仕事のも、指揮系統など役に立たないこの戦場では意味が無かった。
 かと言って射程が長距離の弓も闇の中ではほとんど役に立たなかったが、用意周到に攻められて国境の防衛が破られようとしている今、のようにほとんど戦えない人間でも居ないよりはマシだろう。
 顔見知りから借りた慣れない刀を手に戦場を走り回って、倒れている味方の手当てをする――。
 勿論、一人で動き回るのは余りにも無謀なのですぐ傍で疾風が守ってくれているが、黒脛巾も敵方の忍も共に戦場に紛れて戦っている為、を守りながらでも敵を減らしていっている疾風は立派な戦力だった。

 混沌とした戦場を駆けながら……は余りの凄惨さに顔を歪める。

(これが……戦――……)

 戦場に立つのは、初めてこの世界に来た時と、先日の前田戦に続いて三度目だった。
 だが、今までよりも遥かに苦しい……。

 一度目は、はただ紛れ込んだだけの異邦人だった。
 二度目は、伝令隊の一員として初陣――しかし、すぐ傍に政宗が居たし、一人で駆けていた時も伊達が優勢だった為に味方の死というものをほとんど見ていない。
 しかし、今回は違う……。
 伝令も弓隊も関係なく…ただの一兵として戦場に在り、そして劣勢である暗闇の戦場では見知った仲間たちが次々と傷付き、命を落としていくのだ。

 この国境防衛ラインを突破されれば、後ろにあるのは頑強とは言えないかつて伊達に下った領地ばかりで、すぐに本拠地の米沢まで攻め込まれてしまうだろう。
 それを阻止する為に、みんな命がけで戦っているのだ――

「これが戦……これが、この世界なのね……」

 は思わずぽつりと呟いた。
 今になってようやく実感した自分が情け無い。
 政宗に覚悟があると言いながら、ちっとも本物の覚悟なんて出来ていなかった。
 仲間の死にさえ足を止めるは、いまだ敵を射たことも斬ったことも無い。

 ぎゅっと腰に差していた短刀を握った。
 それは、初陣の時に政宗に貰った守り刀――あれから随分時間が経った気がするのに、実際にはまだ一ヶ月も経っていない。

 ほんの一瞬、がぼんやりと意識を逸らした時だった。

「――! 後ろだ!!」

 戦場では一瞬の隙が死へと繋がる――

 ――「どんなことをしてでも生き延びろ」

 脳裏に政宗の言葉が甦り、はとっさに手にあった短刀を抜いた。

「ぐあぁぁぁっ!!」

 反射的に背後に斬り付けたそれは、鈍い手ごたえを伝え、相手の絶叫と共に血飛沫が上がった。
 見開いたの視界に、鮮血が降りかかる――

「っ――!!」

 相手の鎧を付けていない顔面を切り裂いたその一撃は、しかし浅かったのか一撃で死に至らしめることは出来なかったようで、豊臣軍と思しきその男は顔を押さえながらその場をのた打ち回った。
 頭が真っ白になって一歩後ずさったの目の前で、疾風が無言のまま首を落としてようやく苦悶の叫びが止む。

「――大丈夫か」
「――――」

 疾風の言葉にもとっさに返事が出来なかった。
 返り血を浴びた体を見下ろす。
 噎せ返るような血の臭いには慣れたつもりだったが、温かい血を浴びる感覚は想像以上に命を奪った実感をリアルに伝えた。

っ!」

 呆然と立ち竦むの元に、馬に乗った成実が駆けつけて来た。
 いつものように「ちゃん」と呼ぶ余裕も無いらしい切迫したその様子に、は見下ろしていた自分の手をぎゅっと握り締めた。
 しっかりしろと自分を戒めて顔を上げる。
 取り落とした短刀の鞘を拾ってくれた疾風に礼を言い、少し震えてしまう手を叱咤してそれを元通り腰に差した。

「成実さん……どう…ですか? 政宗さんはいつ頃――増援はいつ来るんですか?」

 このままの兵力で守れないことは明らかだった。
 米沢の兵がもしもの時の為に動かせない今、小田原から政宗の率いる精鋭たちが戻るのを待つしか無い。
 しかし成実は盛大に顔を顰めた。

「駄目だ! どんなに待っても、政宗は来ねぇ!!」
「え……?」
「竹中半兵衛だ!」

 の脳裏に、こちらを見下して冷然と笑うあの瞳が甦る。
 利家とまつと戦っている筈のあの男は、今も砦の外壁の上に見え隠れしているが――

「まさか……!」
「ああ……あいつ、こっちが放った伝令全部止めてやがった!」

 国境奇襲の報を受けて出された伝令は、夜番として詰めていた伝令隊――つまり、の同僚たちだ。
 それが止められていたということは……彼らの生存が絶望的だということ。
 そして、この場で戦う全ての兵たちの命も同様の道を辿るということだ。

「そんな……!」
「クソ! 全くいけ好かない野郎だぜ!」

 悔しそうに吐き捨てた成実を見つめて、はぎゅっと短刀を握った。
 一度強く目を閉じて、成実を見上げる。

「――私が行きます!」
「え?」
「私が行って、命に代えても政宗さんたちを連れて来ます!」

 小田原までは早馬を飛ばして半日――往復で一日で戻って来られれば、まだ道はある。
 真剣に見つめるが本気だということを知った成実は、しばらく考えた後に大きく頷いた。

「分かった―― 一昼夜は堪えてみせる! だから頼む、政宗を連れてきてくれ!」

 がしりとの肩を掴んで、成実は背後の馬を示した。

「こいつは相当な駿馬なんだが、気性が荒くてほとんど人を乗せたがらねぇ。けど、政宗のお墨付きのなら大丈夫だろ! こいつで政宗を引っ括ってきてくれ!」
「すごく良い馬ですね……任せてください!」

 は即答して、その場でその馬に飛び乗った。
 嫌がって暴れる馬の首を撫でて宥める。

「お願い……私に力を貸して」

 何とか大人しくなった馬の手綱を持って馬首を返し、少しの時も惜しんでは南へと駆け出した。
 幾百と言う命が死闘を繰り広げる、凄惨な戦場を背にして……
 自分が出来ることをするべきだという、今度こそ本物でなければならない覚悟を抱いて。







 闇の中を馬と一体になってひた走る。
 戦場を無事に抜けた辺りで、付いて来ていた疾風には成実の元に戻るようにと頼んだので、今は一人だけだった。

(暗いのは、嫌い――)

 空には満点の星空があるが、元の時代に都会では見られなかったその夜空も、今のには何の慰めにもならなかった。
 今が見つめていられるのは、向かう先の前方のみ――そしてそこには、延々と続く闇が広がっているばかりなのだから。

 幼い頃――義理の両親に拾われた時、は闇を異常に恐れる子どもだった。
 成長するにつれて、周りには迷惑をかけたくないという思いから夜に一人で眠ることも当たり前になったが、それが出来たのは自分が完全に一人きりではないと知っていたからだ。
 同じ家の中に――そして、こちらの世界に来てからも、少し離れていても近所には自分の見知った人達の存在が確かにあった。
 それらは、恐れる要素にはなり得なかった。

 だが、いまは、完全なる孤独と闇の中にいる。
 闇は、の心の底に押し込められた様々な感情を呼び起こす。

 ――この何もかもがの常識では測れない世界への不安。
 ――死と隣り合わせの戦場に身を置いている不安。
 ――姿が消えかけたという自分の存在についての不安。

 そして、政宗と離れるという…不安……いや、哀しみ――?

「っ……私は、何なの!?……どうしてここに来たの……どうしてここに居るの……どうして――政宗さんと会ったの……!?」

 ずっと、考えないようにしてきたことだった。

 もしもここへ来なければ。
 もしも政宗と会わなければ。

 そうすれば、こんなに苦しい気持ちを味わうことも無かっただろうか。
 分からないことを思い詰めても、過去の仮定を考えてみても、どれも意味の無いことばかりだ……それよりも前を向かなければならないと、ずっと自分自身に言い聞かせてここまで来た。
 けれど、それももう――……

 最早遥か後方になった戦場では、今も成実たちが命を掛けて戦っている。
 は、何があっても走り続けて政宗の元まで行かなければならない。

「政宗さん――政宗…さん――!」

 胸の苦しみを耐えるようにその名を繰り返し呟いた。

 が為さなければならない役目……伝令の為に、政宗の元へ駆けている。
 ――勿論、そうだ。
 だが、それだけではない。
 それでも、怖い。

 恐怖と混乱が、の精神を掻き乱した。

 政宗に会えば、この不安や哀しみを消し去ることが出来る――理屈では無く、それは予感だった。
 政宗ならば、この闇から必ずを引き上げてくれる……政宗にしか、出来ないのだと。
 それなのに、もう一度会うのがこんなに怖い。

 ――「
 自分を呼ぶ、あの揺るがない声と笑顔。

 ――「
 白刃を向けてきた、憎悪と殺気の篭った眼。

 会いたくて堪らない。
 けれど、あの瞳が嫌悪を持って向けられるのには耐えられない。

 心は会いたいと叫び、その心を守る為に恐怖が体を支配する。


「政宗さん……!」

 闇が侵食してくる心が悲鳴を上げるように、涙がぼろぼろと零れた。

 軋んで折れそうな心を支えるように、たった一人の名前だけを呼んで走り続けた。



 やがて、前方に灯りが見え始め、剣戟や銃声が聞こえた。
 小田原はまだ随分先の筈だ――がむしゃらに走って距離感は確かではなかったが、それだけは確かだった。

 かつての伊達と北条の国境――それを少し越えた辺りだろうか。
 こんな所でどこの軍が戦っているというのか……
 そんなことを考える前に、の視線は強力な引力を感じて一点に吸い寄せられた。

 こんな遠目で……それも夜の闇の中、分かる訳が無い。
 だがの目には、その三日月の兜も、青い陣羽織も……右目の眼帯も確かに見えた。

 頭の中は、空っぽだった。
 ただ瞳に映ったその存在が消えないように、一心に『彼』だけを見つめて戦場の中に突っ込む。

 銃弾が頬を掠めた。
 矢が足の肉を抉っていった。

 体が熱い……心が熱い……

 闇の中、の闇を照らす光が近づいてくる。

「――――政宗さんっ……!!!!」
「!! ――!!??」

 振り返って驚きに目を見開いた政宗が、の目には眩しく映った。
 反射のように伸ばされた腕に、最速で駆けている馬上から躊躇い無く飛び込む。

(ああ、そうか……)

 崖から落ちた時にも、伸ばされた政宗の腕。
 眩しく感じたその訳は――

 政宗という存在が、の心の闇を照らしてくれる。
 傍に居るだけで安心できる、この感覚は……

(私、政宗さんのことが好きなんだ……)

 いつかまつが言った通り、それは紛れも無く『恋』と呼べる感情――

「政宗さん……」

 身を挺してを受け止めてくれた政宗に抱かれながら、は嘘のように不安が……心に巣食っていた闇が消えていくのを感じていた。

 国境が襲撃を受けている旨を告げて目を閉じる。

(これで、もう大丈夫――)

 その確信を胸に、は意識を手放した。

 延々と続く暗路を、煌々と照らす眩い星――

 それを手放したくないという想いと、自分には眩しすぎるという想いと……
 矛盾した二つの想いを抱えたまま――

 今はただ、一時の安息を求めて包みこむ温もりに身を任せた。









061015
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