爽やかなスズメのさえずりに、は目を覚ました。
室内はまだ薄暗く、早朝特有の冷えた空気が漂っている。
今は何時頃だろうとぼんやり考えたが、それを放棄するように再び目を閉じた。
体を包む温もりが心地よくて、もう少しまどろんでいたかった。
やがて、とたとたと規則正しい足音が近づき、部屋の前で止まった。
そして、落ち着いた声が掛けられる。
「政宗様、御起床のお時間です。……珍しく寝過ごしておられるのですか…?」
「う……ン……?」
違和感を感じて、はぼんやりと目を開けた。
――政宗様?
そして、背中の温もりがもぞもぞと動いたことで、意識が一気に覚醒した。
はっとして起こそうとした体は、腰の辺りにがっちりと回された腕でびくとも動かず、首を巡らすと自分を抱き枕にしている人物の色素の薄い髪が目に入る。
(そう言えば、昨日の夜……!!)
ようやくその状況の意味に思い当たったは、一気に頭が沸騰した。
「政宗様…? 失礼いたしますぞ……?」
政宗を起こしに来たらしい小十郎の台詞に、冗談じゃないと何とか脱出を試みる。
こんな所を人に見られるなんて、恥ずかしすぎて死んでしまう…!
「――失礼いたしま……」
「っっっ~~~~~!!」
いよいよ襖が開けられるという段になっても悲鳴を上げるなどという可愛らしい選択肢は思い浮かびもせず、は火事場の馬鹿力宜しく、腰に回された腕を剥がすと、思い切り政宗の体を投げ飛ばしたのだった。
「政宗を投げ飛ばしたそうだべな?」
朝一番に、いつきにまでそう言われたは、本気で落ち込んでいた。
いつきは先日の前田戦では留守居役であった為、それが久しぶりに交わした会話だった。
「いつきちゃん……一体誰から聞いたの?」
「疾風だべ」
予想外の……しかし数人から聞いたのと同じ名前に、は深々と溜息をついた。
早朝――恥ずかしさの余り思わず政宗を投げ飛ばしてしまったは、当然のことながら被害者からこっぴどく悪口雑言を受けた。
思えば、昨夜はがほとんど一方的に迷惑を掛けた形だったのだ。
実情はともかく、宴席で酔い潰れたのを介抱してもらい、部屋に泊めてもらった――
その相手を投げ飛ばし、襖に損害まで与えたは、カンカンに怒った政宗から罰として草むしりを言い渡され、朝の出勤時間ギリギリまでせっせと真面目に働いていた。
しかし――だ。
よくよく考えて見れば、無理やり酒を飲まされた挙句、仮にも年頃の娘を抱き枕にして眠ったのは、他ならぬ政宗だ。
昨夜はあれよあれよと流されてしまったが、どう考えても不当である。
いくら身分の別はあれ、乙女心としては投げ飛ばすくらい当たり前だと言いたい気分だ。
朝の時点でそこまで頭が回れば良かったのだが、は生憎寝起きは良い方ではなく……怒る政宗の迫力に押されて謝り倒し、素直に草むしりまでやってしまった――その事実に、落ち込んでいたのだった。
そして、泣きっ面に蜂とばかりに更なる追撃をかけてくれたのは、疾風である。
どうやらを心配して夜通し政宗の部屋の近くに潜んでいてくれたらしい疾風は(昨夜の政宗との会話は聞かれていないようなのが唯一の救いだ)、が政宗を投げ飛ばしたところから小十郎と共に一部始終を目撃していたのだが、「誰にも言わないで欲しい」というニュアンスを含めて言った「私のことは内緒にしてください」という言葉を曲解したらしかった。
政宗が障子に激突した音は数人に聞かれてしまっていた為、としては、自分がそこに居たという事実から伏せていて欲しいと思っての言葉だったのだが、下手に気を回すということを覚えた疾風には通じなかったらしい。
忍としての技だけは優秀な疾風は、昨日が酔い潰れたのを知っている面々が心配して噂話をしている所に突如現れては、
「様は今朝、起き抜けの殿を投げ飛ばすほどお元気でしたが、このことは内密に願いたい」と言って回ったのだという。
草むしりが終わって落ち込んでいる所に、爆笑した成実からそのことを聞かされ、は本気で眩暈がした。
疾風としては、昨夜のを知っている人物に、秘密にするように先手を打ったつもりなのだろうが、『朝』『政宗を投げ飛ばした』、などと言えば、政宗の部屋に泊まったことを自ら暴露したようなものだ。
「あーあ……、ついにちゃんも殿の毒牙に……」
「かかってませんっ!」
成実の言葉を全力で否定しはしたが、そう思われても仕方の無い状況である。
小十郎でさえ、疑惑の残る顔をしていた。
を心配しての行動だった為に、疾風のことも怒るに怒れず、間違った解釈を説くだけで終わり、としては消化不良だった。
そして、この一件は別な所へも波及した。
「殿! 独眼竜殿に無体なことをされて返り討ちにしたというのは真でございますか!?」
仕事後の城からの帰り道……三の丸沿いの坂道を下っているところに後ろから大声でそう話しかけられ、振り返ったは思わずこけた。
「ま…まつ様っ…!?」
驚きに顔を青くして悲鳴を上げ、シィー!!と必死にゼスチャーを送る。
それでようやく声が大きすぎることに気付いたのか、まつははっと口元を押さえた。
辺りには幸い人影は無かったが、どこに誰の耳があるかもしれない……おかしな噂が立ったら大変だ。
「も…申し訳ございませぬ、わたくしとしたことが……」
「いえ……黒脛巾の疾風からお聞きになったのですか?」
「ええ、確かにその者です! 朝方、殿とわたくしの前に現れて教えてくれたのですが、今日は一日手が放せず……一刻も早く殿に真相をお聞きせねばと、雑事を終わらせて大急ぎで参ったのです!」
今から家に向かう所だったのだと、拳を握り締めて力説するまつに、は乾いた笑みを返した。
前田家当主とその奥方の所にまで……疾風は本当に働き者である。
「私なんかのことに煩わせてしまって、申し訳ありません……こんな所で立ち話も何ですから、宜しければウチに寄っていかれませんか? あばら家で申し訳ないのですが……」
「まあ! 宜しいのですか!? 嬉しゅうございますわ! 実は、我が殿も後から参ると申していたのです!」
前田利家と言えば、現代の知識での枕詞は『加賀百万石』……今ここにいる利家がどれくらいの所領を持っていたのかなど詳しいことは分からないが、とにかく雲の上の人であることに変わりは無い――『伊達政宗』を投げ飛ばしておいて今更だが。
そんな殿様夫妻と言葉を交わすだけでも凄いことなのに、自分の家に来る……
逆に、物凄く失礼なことなのではないかという気がして来たが、こうなってはもはや後の祭りである。
は本日何度目かの頭痛を堪えながらまつを案内し、長屋の一角にある我が家へと到着した。
二間しか無い内の奥の座敷に通して、お茶と茶菓子を差し出す。
「結構なお手前で。――お茶請けも大変美味しゅうございますわ。奥州には、このような笹団子があるのですか?」
「あ、いえ」
もお茶を飲んでようやく人心地つき、自然と弛む頬で微笑んだ。
「実はそれは、先日の賤ヶ岳からの帰路に見つけまして……勝手な行動は厳禁だと言われていたのですが、あまりに美味しそうだったので、こっそり買ってきてしまいました」
「まあ、それでは相伴に預かれて、わたくしは幸運だったのですね」
「そうです。食べたからには、まつ様も同罪ですよ?」
二人で顔を見合わせてくすくす笑う。
その笹団子は、元を正せば、白斗で運んでもらったお礼にと政宗に買ってきたものだったが、久しぶりの我が家ではろくな食料も無く、選択の余地は無かった。
まつにも喜んで貰えたようだし、むしろ、これがあって本当に良かったと思う。
「ふふふ、殿は楽しい方ですのね。わたくしは近くに気安く話せる友もおりませぬので……こういった時間は久方ぶりですわ」
寂しそうに笑うまつの表情は、どこか見覚えがあった。
まつ自身は友達の多そうなタイプだと思うが、一国一城の主の奥方ともなると、周りは臣下ばかりだ。会話の一つも気軽にという訳にはいかないのだろう。
そういう部分は、政宗と似ている……
思ったは、湯飲みを握りなおすと、まつににこりと笑みを向けた。
「とお呼びください」
「え?」
「以前から思っていたんですが、私はまつ様に"殿"を付けていただけるような者ではありませんし、それに……私のことを『気安く話せる相手』と思ってくださるなら、尚更です」
まつが目を瞠ったのを見て、「御気分を害されたなら申し訳ありません」と慌てて言ったに、まつは――大きな目をキラキラと輝かせて、の手をしっかと握った。
「わたくし! 感動いたしましたわ、殿――いいえ、! ならば、わたくしのことも"様"など付けて他人行儀になされぬよう。そうですわ、本日ただいまより、わたくしの友となってくれまするか!?」
考える間も無く、怒涛の勢いに押されてはコクコクと頷いたが、嬉しそうに喜んでいるまつの様子に、すぐに苦笑した。
まつの方が幾分年上で、ずっと落ち着いているのだが、こういう仕草は本当に可愛らしい。
「友と呼んでくださるなんて、私こそ光栄です。それではお言葉に甘えて、公の場以外では、まつさん…とお呼びしても?」
「さんも要りませぬが、の好きなように呼んでくれれば良いのです。喋り方も普段どおりで構いませぬ」
「……ありがとうございます。実は、普段からそんなにきちんとした言葉遣いじゃないので、たまに舌を噛みそうで……」
ころころと愛らしい声で笑ったまつは、何かを思い出したのか突然、そう言えば、と言って表情を引き締めた。
「疾風という忍が言ってたことは真なのですか!?」
「あ…えーっと……」
怒涛のテンション――話題の切り替えについていけず、はパチパチと瞬いた。
「差し出がましいことかもしれませぬが、友として、のことが心配なのです! 独眼竜殿とは親しいと思っていたのですが、まさか無理やり……」
「いえ! そうじゃないんです!」
慌てて否定したのはいいものの、自分のことを『友』と言ってくれるまつに、どこまで話せるだろうかと思案した。
話すなら、が政宗とどのように懇意なのか話さなければならないが、それは伊達軍でも政宗に近しい者しか知らないことだ。知られても、政宗には然程迷惑はかからないだろうが、自身の身の危険があるかもしれない。
とてまだ死にたく無いので、おいそれと他国の人間に話せることではないのだが……。
しかし、今朝に政宗と少し話した時、政宗自身が利家とまつのことを信用できると話していた。
も、まつは十分に信用に足る人物だと思う。
結局、誤解を解きたいのもあり、は昨夜のことから当たり障りの無い部分を話し始めた。
「――そうだったのですか……最悪のことは無かったのなら、少し安心しました」
聞き終えたまつは、そう言ってほっと安堵の息をついた。
そして、悪戯っぽく微笑む。
「それにしても、あの独眼竜殿に真っ向から立ち向かえるとは、流石は我が友です」
「いえ、そんな……怒られないのをいいことに、したいようにして甘えているだけです。でも、今回は政宗さんが悪いと思いませんか?」
「それは当然ですわ! 嫁入り前の女子に何と不埒な……犬猫ではあるまいし、抱いて寝るなど言語道断! 何でしたら、まつがこの薙刀で……」
「いいいえいえ! 大丈夫です! 自分で文句言いますから、お気持ちだけで!」
何やらぞくりとする殺気を感じて、は慌てて押し戻した。
まつの手には、いつの間にかどこからか出した長い薙刀が握られている。
その先から、緑の光が立ち上っている気がして、ぱちぱちと目を瞬いた。
「あのー……まつさん、一つ教えていただきたいんですが、この国では、みんなまつさんみたいに武器から光とか出せるんでしょうか?」
「光……?」
「先日の戦でも、利家様は炎を、政宗さんは雷を出していたんですが……」
「ああ、それは個々の属性にございますね」
「属性…?」
「そう言えば、は異国から来たと言っていましたね。の国には、こういった自然の属性を使う者は居なかったのですか?」
「はい……見たことが無かったので、驚いちゃって」
正直なの言葉に微笑むと、まつは優美な動作で立ち上がり、奥から裏庭へと出た。
薙刀を構えると、武器とまつを包むように緑色の光が立ち上る。
それは、闘気といったものを形に現したようだった。
「わたくしは"風"を使います。我が殿は"炎"、独眼竜殿は"雷"でございますね。普通、これらの属性を生かした固有の技などを組み合わせて合戦に備えます」
「………それって、やっぱり誰にでも出来るという訳ではない…ですよね。まつさんみたいに、昔から鍛錬してきた強い人じゃないと駄目ですか…?」
は躊躇しつつも、思い切って聞いてみた。
元居た世界では、そんな魔法みたいな力を使う人間など見たことも無いし、完全にの常識の範囲外だったが、郷に入っては郷に従え――使える力ならば、あるに越したことは無い。
「……は、強くなりたいのですか?」
「はい。――私、政宗さんに天下を取る為に力を貸せって言われてその手を取ったのに、全然役に立てないどころか、物凄く足手まといで………せめて、伝令の役目を一人で果たせるくらいにはなりたいんです…!」
――「どんなことをしてでも生き延びろ」
――「っ! 無事か!?」
「……は、独眼竜殿のことを好いているのですね…?」
「え……?」
脳裏に甦った政宗の顔と、まつの言葉が重なって、は呆然と顔を上げた。
「隠さずとも良いではありませんか。わたくしには分かります! それは恋する女子の顔ですわ!」
「恋……?」
口に出した途端、ぼっと顔が熱くなった。
まさか、そんな、だって相手はあの伊達政宗で……
「そんな…とんでもないです! それだけは駄目です!」
一息に言いきった自分の言葉に、は目を見開いた。
言葉の強さに驚いたのか、まつも驚いたように沈黙し、しかしやがてふわりと微笑む。
「事情は分かりませぬが、今はこんな時代……己の気持ちを誤魔化していては、いつか後悔することになるやもしれませぬ」
「時代……」
「……先程の質問ですが、属性の力を得るには、武の強さよりも心の強さの方が必要なのだと、わたくしは思います。わたくしが初めて力を発揮したのは、犬千代様と戦場に出た初陣の折――怪我を負った犬千代様をお守りしようと必死で、気が付けばそれまでとは比べ物にならない程の力を得ていました。以前に帰蝶様――織田信長公のご正室の濃姫様にもお話をお聞きしたところ、やはり夫君の為に戦って力が目覚めたと。ですから、特に女子においては、想う方を守りたいと強く願う心の強さが大切なのだと――そう、思いまするわ」
その力強い真っ直ぐな眼差しは、の目にとても眩しく映った。
大切な人を想い、その傍で守り続けていられるというのは、どれほど幸せなことなのだろう。
「まつさんは、利家様を心から大切に想ってらっしゃるんですね」
「犬千代様を想う心だけは、誰にも負けませぬ!」
突然大声を出して高らかに宣言したまつに、は面食らいながらも声を上げて笑った。
「良かったら、まつさんと利家様の馴れ初めを聞かせていただけませんか?」
「まあ、恥ずかしゅうございますが、聞いてくださいますか? わたくしと殿は元々従兄妹の間柄で、故あって幼い頃から同じ家で育ちまして……」
もう一度家の中へと促しながら、早速話し始めたまつに、これは長くなりそうだと苦笑した。
疲れてはいるし、やらなければならないことも溜まっているが、たまにはこういうのも良い。
余計なことを考えないように、その夜は、まつと後からやって来た利家も交えて、ほとんど一晩語り明かしたのだった。
061002