規則的な川の音が心地良く、木漏れ日が温かい――そんな穏やかな河原。
ようやく手を止めたは、場所に不釣合いな深い溜息をついた。
白馬に乗った王子様――ならぬ、竜だと思ったほどの危険男を連れてきた白馬(あくまで馬がメイン)に出会ってから一時間も経っていないだろう……
いくら自分を殺そうとした相手とは言え放っておけなかったは、とりあえず男の手当てをすることにした。
男が着ていたもう役目を果たしそうに無いボロボロの羽織を失敬して、いくつかの布に裂き、それで傷口を丁寧に拭うと、残りの布を繋ぎ合わせて即席の包帯を作り、止血の要領で傷口に巻く。
ついでに顔などについた汚れも拭って木陰に寝かせると、後はすることが無かった。
大量の血のせいで大怪我をしているのかと最初は心配したが、どうやらそのほとんどは返り血だったらしく、傷自体は既に血も止まっていたし、外傷だけ見れば命に関わるものでは無さそうだった。
ボロボロの羽織からも分かるように、怪我というよりも掠り傷や打撲が多く、尋常でないほど壮絶な戦いを潜り抜けて来たのだと想像できた。
意識はまだ戻らないものの、規則的な呼吸から、疲労困憊して倒れたという方が正しいのではないかと思う。
尤も、応急処置以外の医療の心得など持ち合わせていないので、確かなことは何も分からないのだが。
「はぁ……一体どうしてこんなことに……」
努めて軽い口調で愚痴ってみたものの、現状は全く変わらない。
明るい場所で改めて見ると異様に整った容貌をしている男を眺めながら、は昨夜のことを思い出していた。
「……その意気だけは誉めてやるぜ」
そう言った後、男は無表情に刀を振り上げた。
「だが、ここでTHE ENDだ。悪く思うなよ」
振り下ろされるそれを、ただぼんやりと見つめる――生憎、はそんな潔さは持ち合わせていなかった。
手の下の砂を握り締めると、勢い良く相手にそれをぶちまける。
「ちっ……Shit!」
生まれた一瞬の隙に逃げ出したものの、すぐに追いつかれると、その時は思っていた。
しかし、出来るだけ速く逃げたとは言え、一向に追ってくる気配が無い。
その後、何やら元来た方角が喧騒に包まれたことから、自分を追ってくるどころでは無くなったのだと結論付けて安堵したのだった。
目が覚めたら、また自分を殺そうとするだろうか……
は男を見つめて、胸元の守り袋を握り締めた。
ここで死ぬ訳にはいかない。
何もかも分からないことだらけだが、は何としても家に帰らなければならないのだから――
特に何かを意図した訳ではなかった。
手当てし始めて初めて男が隻眼だと気付いたのだが、それで昨夜片目が光ったと思った理由が解明された。
それが単に嬉しかったのか、
本当に何気なく、男の眼帯に触れようとした…その時だった。
その手が強く握られて止められ、男の閉ざされていた隻眼が開く。
「触るな!」
突然合わさった視線の強さに、は息を呑んだ。
しかし、すぐに自分の方に非があったと気付いて謝罪する。
「ごめんなさい!」
男が少し目を瞠った。
初めて視線の強さが揺らいだ相手を目の前にして、はようやく落ち着きを取り戻す。
「別に危害を加えようとしたんじゃないんです」
「…テメェ、昨日の……」
まじまじと視線を向けてきた男も、のことを思い出したようだった。
しかし自分の体に巻かれてある布に気付いて、鋭い視線を向けてくる。
「これは一体何の真似だ?」
「――私は敵じゃありませんから」
「……What…?」
そもそもの間違いを正そうと口にした言葉は、男の怪訝そうな声に遮られた。
「敵じゃない? HA…そんなfool、誰が信じるってんだ? 戦の真っ只中でこの俺に気配を気付かせること無く本陣真裏に現れといて、それで敵じゃねぇだなんて、信じるのはよっぽどのお人好しくらいだぜ?」
Is brains safe?(頭は大丈夫か?)と、馬鹿にしきった表情で自分の頭を指差して見せる男に、はカチンと来て、思わず反論した――相手に対抗したかったのか、勢い任せの拙い英語で。
「My brains arrives and is normal! I am not your enemy!(頭は至って正常よ! 私は敵じゃ無いんだってば!)」
男が面食らったように驚きを露にしたことに、もようやく我に帰ってたじろいだ。
しかし、口を開きかけた男が急に咳き込んだことにより、その問答は中断される。
口元を押さえた男の手に血が付着したのを見つけて、今度はが青褪めた。
「貴方、血が…っ!」
「Shit……あばらが何本かイッちまってるみたいだな……Hey girl、やるなら今がchanceだぜ?」
「……しつこいですよ? 昨日殺そうとしてくれたお礼に一発殴るくらいなら『やる』のもいいかもしれないですけどね」
傷に響かないようにそっと背中をさすりながらも睨みつけてやれば、男は口元に初めて笑みらしきものを浮かべた。
「――HaHa、上等だ! アンタ……そうだな、名は? 敵じゃ無いってんなら、一体どこの人間だ? 甲斐か? 上杉か?」
「私の名前は……、です。甲斐? 上杉?……ただの通りすがりの一般人ですよ」
……と繰り返す男を見ながら、は軽く混乱した。
とっさに苗字が思い出せなかったのだ。
目覚めた時、眠る前のことも思い出せなかったが、あれは寝ぼけているだけかと思っていた。それなのに、もうバッチリ目が覚めた今になっても思い出せないのはなぜだろう。それどころか、両親の名前すら出てこない……顔も家の中も普段の会話だって鮮明に覚えているのに、なぜか肝心なことがところどころが不明瞭だった。
眉を顰めたまま自分の服装を見下ろすと、道着に紺の袴が目に入った。中学から部活でやっている弓道の、これが練習着だ。
ということは、眠る前、自分は部活をしていたのだろうか。なぜ練習着のまま眠ってしまったのか。
恐らくはこの恰好のお陰で、変に怪しまれることが無かったのだろうが、同時に敵兵に間違えられたのも事実で……
「! 何……!?」
思考を中断させて、は呟いた。
ゆっくり考え込んでいる場合ではなかったと反省する。
近くで大人しくしていた白馬が急に嘶き出したのを合図に、男も顔を上げて辺りを窺った。
「剣戟? ……成実の奴、まだ終わって無かったのか。マズイな」
馬の声で誰かに気付かれるかもしれないと思い、は白馬に駆け寄って宥めた。
「大丈夫よ、落ち着いて――そう、いい子ね」
「――白斗が懐くとはな。ますますおもしろい」
が振り返ると、男が傷口を押さえながら歩いてくるところだった。
顔色が悪いくせに、口元は笑っている。強がりなのは一目瞭然だ。
「白斗……それがこの子の名前ですか? とっても素晴らしい馬ですね。この子があなたを助けてくれと連れてきたから、手当てしたんです。良くお礼を言っておいてくださいね」
「Oh,really? 自分から寄ってくなんて、信じらんねぇな」
冗談めかしに言いながらも手綱を取ったその手を、は思わず掴んでいた。
「どこに行く気ですか?」
「I return. 戻るだけだ。手当ての礼に、アンタも今回は見逃してやるよ。厄介事に巻き込まれねぇ内にとっとと国に帰るんだな」
「……私のことはともかく、そんな怪我で馬に乗れる訳ありませんよ」
「Oh~心配してくれんのか、kitty? だが、しょうがねぇ。どうやら俺が戻らないってんで相当浮き足立ってるみたいなんでな」
「……どうしても、ですか? それは、勝つ為に? 勝って、出世を…手柄を取る為に?」
それは命を賭してまですることなのか……少し咎める響きを宿して見遣れば、男は鋭い眼差しを向けてきた。
は一瞬恐怖を感じたが、それを正面から睨み返した。さっきのやり取りで、男が第一印象ほど危ない人間では無いと警戒心が薄れていたせいかもしれない。
「A-ha…参ったね。……手柄? nansence! そんなもんはどうでもいい。ただ、この辺りは主だった街道だ。日が高くなれば、直に何も知らない民も通る。このままじゃ巻き込んじまうだろーが、アンタみたいな『通りすがり』をよ」
揶揄された言葉よりも、その内容には驚いた。
一見いい加減に見えるのに、手柄よりも一般市民の安全を優先させるとは……それは恐らく、身分制度が厳しかったこの時代ではひどく稀有な考えだ。
は自然と高揚する自分を感じた。
男の言葉じゃないけれど、上等だと思った。おもしろい、と。
「それは――あなたが行けば、どうにかなるんですか?」
「ああ。何もこれ以上戦ろうってんじゃない。俺が姿を見せて二~三指示を出せばそれで済む」
「そう……だったら、私が行きます」
その時の男の顔は、その後も中々お目にかかれないほど間が抜けていた。
よっぽど予想外だったのか、ぽかんと開いた口が塞がらないらしい。
「その代わり、白斗貸してくださいね。よろしく、白斗」
呆けている男から手綱を奪い、身軽にその背に跨る。
白斗は少しばかり身震いして足踏みしたが、特に抵抗は見せなかった。
「待て…Wait! 一体どういうつもりだ?」
慌てた男の咎めるような視線の中には、様々な感情があることが読み取れた。
不信、不審、純粋な疑問、そして戸惑い。
それに少しの悲しさを覚えながらも、は納得してしまえる自分も感じていた。
敵じゃないとは言い張っているが、明らかに怪しすぎる女……そんな人間に、大事な役目を任せられる筈が無い。まして、自尊心の高そうなこの男には尚のことだろう。
「……貴方、偉い人なんですよね? それに、急いだ方がいいんでしょう? 無理して馬に乗っても下手すれば折れたあばらで内臓を傷つけてそれこそTHE ENDかもしれませんし、かと言って、徒歩で戦場を戦わずして抜けるっていうのも、無理なんじゃないですか? ――貴方が時間までに目的地まで辿り着ける見込みは果てしなく低い。その勝算と、得体の知れない私……どちらを選びますか?」
こちらを睨みつけてきた男の視線を、は再び真っ向から見つめ返した。
こんな小娘に生意気なことを言われたとして刀を抜くようならば、所詮その程度の男だったということだ。このまま白斗の腹を蹴って、全力で逃げる。
だが、身分が高いならば男が死んで困る人は大勢居るだろうし、民を犠牲にしない為に急がなければならないという思いが本物ならば、短気は起こさないだろうと思った。
果たして男は、忌々しそうに頭の後ろを掻いた。
やがて深い溜息をついて再び視線を寄越す。
「この俺を試したつもりか? HA! 本当にイイ根性してやがる」
くつりと喉で笑った男に、も安堵して苦笑した。
しかし、すぐに男の目が真剣なものになる。
「まだ戦は続いてる。俺の代わりに本陣まで行くには、そん中を通らなきゃなんねーんだぜ?」
「……はい」
「、武器も隠し持ってねーようだが、どうした? 丸腰で戦えるのか?」
「武器なんて最初から持ってないけど、あったとしても無理ですね……でも大丈夫。力いっぱい逃げますから」
どうやら運だけはいいみたいですし? やや引き攣り気味にがそう言えば、男は再度の溜息と共に、何かを差し出した。
「――これは…」
「持ってけ。護身用だ。何も無いよりゃマシだろ」
それは、男自身が腰に差していた刀だった。
こんなもの持っていても満足に扱えない…そう言おうとしたが、先手を打たれて封じられる。
更に、それじゃ貴方が困るんじゃ…と言いかけて、男の腰には刀が六本も刺さっていたのを思い出して苦笑した。
大刀と脇差し一本ずつというのが普通だと思うのだが、何だって六本も…? と疑問に思ったことは今は口にしないことにした。
「それじゃあ、有り難くお借りします」
「ああ、ちゃんとテメェ自ら返しに来いよ」
「――はい」
そのぶっきらぼうな言葉の意味を察して、は笑みを浮かべた。
そして、男が着けていた眼帯を無造作に投げ渡される。
「それを見せて持ち主からの伝言だって言や、伝わる。伝える内容は三つ。――俺は生きてる。魔王の犬はトンズラした。北条の首だけ取ってとっとと終わらせろ。ああ、とにかくhurry!ぐずぐずすんな!って伝えといてくれ」
手に収まった眼帯と、右目を手で押さえている男を交互に見やって、は深く頷いた。
伝言の内容はほとんど何のことか分からなかったが、これだけ伝えれば分かるという信頼関係は並大抵では無いと思う。本陣にはこの男が信じている人間がいるのだろう。
「了解しました。えっと……何処の何方にお伝えすれば?」
「ああ、伊達軍の……そうだな、片倉小十郎って男に伝えてくれ。ガタイがデカくて、頑固が鎧着てる様な堅物だ。左利きだから右に刀を吊ってる」
腰の右下辺りを指差して言った男の言葉に頷いて、は、はたと思い至った。
「あー…すみません。今更なんですが、そう言えば、貴方のお名前を聞いてませんでした」
「……知ってるんじゃなかったのか?」
「いいえ――お会いしたのは、初めてですよね?」
「…確か、俺を見て竜って呼ばなかったか」
「ただ竜みたいだなって思っただけなんですけど……本当に竜さんって言うんですか?」
「……NO。俺は、だ……いや、政宗だ」
政宗さんですね、と繰り返して、手綱を引いた。
政宗から聞いた方角に馬首を巡らせて、馬上から彼を見る。
「それじゃあ、行きます。無事辿り着けたら、ここにもすぐに誰かを呼んできますから」
「ああ。……、気をつけろよ。白斗に任せときゃ大丈夫だとは思うが、無茶はすんな」
貰えると思っていなかった気遣いの言葉に、はにっこりと破顔して白斗の腹を蹴った。
胸元の守り袋を握り締める。
絶対に死ぬ訳には行かない。
それなのに、自ら危険な場所へ行くのは矛盾しているだろうか。
けれど、この衝動は理屈では無かった。
ただ、政宗の貴重な考えを手助けしたいだけ――
死ぬつもりは、更々無い。
「何が何でも、押し通る…!」
誓いのように呟いて、前方に見えてきた戦場を見据えた。
白斗の腹を蹴って、スピードを上げる。
白い名馬はそれに応え、戦場などものともせずに駆け抜けた。
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