――誰か、助けて――
根の国まで続くような昏い闇の底……永遠に抜け出せないその地獄に捕らえられているような恐怖と苦しさ。
生家である躑躅ヶ崎館から攫われ、途中で命からがら逃げ出して、光ひとつ無い暗闇の山中。
地蔵の元でたった一人で蹲る幼いがその時出来たことと言えば、誰でも良いからと助けを願うことくらいだった。
自分を追い探す複数の足音が迫ってくるどうしようもない絶体絶命の状況。
しかし、それを破ったのは、もっと底冷えする絶望だった。
肌を突き刺すような闇の気配を感じたと思った瞬間、低い悲鳴が幾つか上がり、すぐに濃い血の臭いが辺りに充満する。
「おやおや、これはこれは……」
こちらを見つけて上から覗き込んできたのは確かに人語を話す人間であったのに、その獲物を見つけた時のように光る獰猛な目は飢えた獣を思わせた。
微かな星明りに、その男が持った血に濡れた鎌がキラリと光る。
は、とうとう根の国から死神が迎えに来たのだと信じて疑わなかった。
肺に病を抱えた体で幼くして攫われたは、攫った賊からは逃れたものの、逃走中に遭遇した男に捕まった。
死神と見紛ったその男は、尾張・織田家に仕える明智光秀と名乗った。
そうして連れて行かれたのは、当時織田家の本拠地であった清洲城。
城内で軟禁されること数日――病弱な体は発熱してしまった為、ほとんど眠っていて意識は無かったのだが――その後、罪人のように引き立てられて織田信長と対面させられた。
"闇"だ――
初めて見た瞬間に、そう思った。
自ら第六天魔王を名乗り、周囲から恐れられているというのも頷ける。
それほど圧倒的な存在感でもって闇そのものを従え、絶対的な王としてそこに君臨していた。
ギロリと視線を向けられただけで、幼い体は簡単に竦み上がる。
それでも泣き出さないのは、甲斐の虎の娘としての、の矜持だった。
「光秀、虎の子――否、仔猫なぞ拾って来て、如何するつもりぞ?」
「ふふふ…そうですね……確かに仔猫です。今はまだ……ね」
愉悦を伴った狂気の目を向けられ、は後ずさりそうになる体を何とか押しとどめた。
「こういうのはいかがでしょう、信長公。信玄公は末の娘を大層可愛がっていると聞きます。ここは一つ、質に取って交渉の材料にしてみては」
「甲斐の虎が、そのような些事で動くと?」
些事と言われ、はびくりと震えたが、光秀の言葉に更に目を瞠った。
「実は私の独断ですが、もう既に甲斐には使者を送り、その返事も来ております」
「……光秀ぇ、何が言いたい」
「これは失礼。領土の一部差し出しやその他諸々のこちらの要求に対する信玄公の答えは――"否"」
限界まで目を見開いたまま固まったの反応を楽しむように、光秀は殊更ゆっくりと言葉を続けた。
「更に使者にこうも言ったそうですよ。……「そのような娘は知らぬ」、とね」
今度こそ、の思考は完全に停止した。
あの優しい父が? 本当に?
「つまり、この病に冒された薄幸な姫君は、実の父にも捨てられたのです。嗚呼、なんと哀れなのでしょう!」
芝居がかって病的な愉悦を含ませる光秀には、何も感じなかった。
ただ優しい父と母の顔だけが交互にぐるぐると回る。
そこからは記憶というよりも、意識が朦朧としていてあまり物を考えられる状態では無かった。
父に捨てられるということは、当時のにとってそれほどのショックだったのだ。
ずっと、偉大な父の娘でありながら病弱に生まれついた自分を情けなく思っていた。
家臣の子であり同じ年頃の弁丸の健康さがどれだけ羨ましかったか知れない。
幾ら優しい父とは言え、いつまでも病弱なままでは失望されるかもしれない。いつか呆れて見限られるかもしれない……大名家に役立たずはいらないと捨てられるかもしれない。
光秀の口から齎された言葉は、その恐怖をいとも簡単に現実のものにしてしまった。
自分の全てを、世界の全部から否定されたような絶望感。
そして、そんなに、魔王は手を差し出したのだ。
「打ち捨てられ、朽ち行くだけの骸となるか」
「…………」
「ならば、我が涅槃の闇にたゆたい、第六天の底で眠りにつくが良い」
「……そうすれば、もうこんなに哀しくないですか…?」
「是非も無し」
は、抗えなかった。
「ふふふふふ……あの時の貴女の絶望、絶品でしたよ」
はっと現実に戻ったは、渾身の力を振り絞って後ろに飛び退く。
「大丈夫でござるか、!」
荒い息を吐きながら、駆け寄ってきた幸村に何とか頷くだけの返事を返す。
視線は、より一層光秀を睨め付けた。
巨大な大坂城天守閣の最上階――明智光秀と刃を交えてすぐ、奇妙な闇に取り込まれ、嫌が応にも過去の記憶を暴かれた。
忘れていたかった記憶も、絶望も、生々しいほどに何もかも。
「相…変わらず……人間離れした妙な特技を持ってるのね……」
「お褒めに預かり光栄ですよ、。ああ、ちなみに貴女が夢の中に居る間、後ろのお二人にも私からご説明して差し上げておきましたから」
が目を瞠るのと政宗が大きなため息をつくのは同時だった。
「虎のおっさんがを……ね」
「あなたなら虎の気持ちが分かるのでは無いですか、独眼竜?」
「そりゃ同じような立場としては分かんねぇわけでもねーが……納得は出来ねぇな。生憎、"親"ってもんにはこっちもいろいろ思うとこがあってね」
「お館様がそんなっ……何かの間違いでござる!!」
「ふふふ……全て真実ですよ。残酷で儚い現実……そう、愛など所詮幻想です。そうでしょう、?」
「そう…ね……」
幼いあの時にだって分かっていた。
父はを本心から見捨てた訳では無く、国主として仕方の無い選択だったのだと。
それでも絶望という闇に飲まれてしまったのは、の弱さであり、そして……父を家族を心底愛していたからに他ならない。
「儚くて、泡沫の夢幻でも……だからこそ尊い」
言って、は光秀を見た。
もう過去の闇に捕らわれて恐れることはしない。
傍らに大切な人がいてくれる限り、はどんなに儚い絆でも信じ抜くことが出来る!
「明智光秀……あなたは、その意味を知らないのね。何をそこまで頑なに否定するの?」
光秀が軽く目を瞠る。
それは初めて見る表情だった。
かつて闇を纏った死神にしか見えなかった相手が、今は同じ人間に見える。
その時、ふと部屋の気配に僅かな変化が生じ、目の前に迷彩服の忍が跪いた。
「――見つけたのね?」
苦い表情を隠そうとしない佐助は、ひどく疲れた様子で是と答えた。
「悔しいけど、疾風の旦那がね。後で褒めたげなよ、生ける伝説が今じゃおっかない忠犬だ」
「そ…そうね、後でね。……場所と状況は?」
「地下の隠れ牢に。警備が厳重すぎてうかつに近づけないんで、容体は何とも」
父・信玄がこの城に捕らえられているかもしれないと……可能性はあれど、それはほぼの勘だった。
だが、実際に見つけたのだから、何としても救い出してみせる。
その為には――
佐助ともう一人に向かって口を開く前に、呼びかけようと思っていた相手が先に声を上げた。
「それがしも行こう」
幸村の真剣な瞳に、は一瞬目を瞠ったが、無言で頷いた。
佐助と疾風の二人がいても尚、「厳重」と言わしめる警備だ。
しかも捕らえられているのが信玄となれば、誰よりも信玄のことを知っている幸村が適任だった。
一流の忍である佐助と連携して身軽に移動出来、尚且つ誰にも劣らないだけの武力も持っている幸村がこの場で最も適している役目は――遊撃。
状況に応じて攻めにも守りにも切り替え出来る柔軟さこそが、必要とされ、求められているのだ、と。
幼い感情だけで突っ走るのでなく、自分の力と役割を把握して迅速に動く――少し会わない間にこんなにも頼もしく成長していた幸村に、今は心からの信頼を寄せて任せるしかない。
「おやおや」
嘲笑の響きも露わな声に視線を戻すと、光秀が肩を震わせていた。
「くく……ふふふふ! 本当に助けるつもりですか、? 賊に攫われた幼く病弱な娘を見捨てるような、憎い憎い父親を!」
「憎いなんて……思ってないわ!」
は語尾と共に属性の炎を乗せた矢を放ち、牽制の役割を果たすように光秀との間に炎の壁を作る。
そうして、幸村と佐助に叫んだ。
「行って! お願い、父上を助け出して!」
「――承知! お館様はそれがしらに任せよ!」
頼もしい言葉と共に駆けて行った後姿を見送って、は一度大きく深呼吸した。
「Are you OK?」
「――Sure.」
その場に残ったのは、と政宗の二人。
過去のことや父のことも含めて、敢えていつもの口調で大丈夫かと聞いてくる彼に、強がりでも勿論と返す以外の選択肢はには無い。
燃え盛る炎の壁がやや弱くなった瞬間、まるでブーメランのように飛来した鎌を転がって避けて、体制を整える前に光秀が飛び込んできた。
気味が悪いほど柔軟に体を捻り、二本の鎌を自在に操って怒涛の連撃を仕掛けてくる。
それを政宗と二人かがりで何とか捌き、反撃に転じようとしたところで、目の前に掲げられた竜の爪で止められた。
「悪いが、こいつは俺が貰う」
言われた意味を一瞬計りかね、は反射的に首を横に振った。
「……駄目です。私がやらなきゃ意味無いんです」
政宗がカチンとした事は分かったが、とてこればかりは譲れない。
過去の闇の鍵を握る一人がこの明智光秀なのだ。
自分の手でケリを付けて初めて、も何かを乗り越えられる気がする。
「震えてた奴は引っ込んでな」
「ふるっ……何のことを言ってるのか、分かりません。政宗様の勘違いでは?」
「なっ……テメェ……!」
またもや売り言葉に買い言葉で睨みあっている所に、「解せませんねぇ……」という地を這うような声が割って入った。
「獲物を取り合った事はありますが、取り合われたのは初めてですよ。私としてはどちらからでも、お二人同時でも、美味しくいただいて差し上げますが、あなた方は何故……」
何かに戸惑っている――?
あの死神のような男がまさかとは思うものの、そうとしか取れないような発言でその場にとどまっている光秀に、しかし政宗は単純明快に言い切った。
「Nonsense! こいつが大事な女だからに決まってんだろ!」
思わず赤面するようなことをさらりと言うのだからタチが悪い。
言葉に詰まったは、しかし「大事……?」とだけ呟いて黙ってしまった光秀に眉を顰めた。
人間の根幹ともいうべき、誰もが当然のように持っているだろう感情――
「あなたは、他人を大事だって思ったことさえ無いの…?」
「……そんなくだらないもの、私には必要ありませんよ……!」
そう叫んで、突然奇声を上げて斬りかかって来た光秀を何とか薙刀を盾にして防ぐ。
「!」
政宗が叫んだのと同時、階下から新たな気配が飛び込んできた。
「光秀、お前何やってんだよー!」
「人質でも何でも使っておしまいなさいな」
前者は現れるなりぷんぷんと怒りで飛び跳ねている森蘭丸、後者はやや苛立ち気味に指示を出した濃姫だ。
この二人が現れたということは、足止めしていた石田三成と大谷吉継は……
光秀と斬り結んだ体勢のまま一瞬気を取られたは、死角から繰り出された逆の鎌の攻撃に気付くのが遅れた。
何とか体を捻ってかわしたものの、僅かに薙刀を持つ手の甲を切り裂かれてしまい、体ごと弾き飛ばされる。
しかし次の瞬間、光秀の気配が変化したと思った時には、その腹部に白刃が生えていた。
「let in peace...成仏しな」
隙を突いて繰り出された政宗の鋭い突きが、正確に光秀を貫いたのだ。
自分の体に埋まった政宗の刀を自ら引き抜いた光秀は、傷口と口元から血を流して致命傷のように見えたが、くつくつと笑い出し、狂気じみた哄笑を上げた。
「残念ですねぇ、貴女が苦しみ、のたうち回る死に顔には間に合いそうにありませんよ――」
「……?」
「体に回るにはもう少し時間がかかりますが、致死量ですよ。――私の刃に塗られた毒はね」
それこそ、そっと毒を仕込むように言葉を落とした光秀に、は反射的に自分の手の甲を押さえて相手を睨みつけた。
それの何に満足したのか、光秀は笑い声を上げた。
「ふふふふふははははは! 嗚呼……痛い……ご馳走を食べられなかったのは残念ですが、私の方が早そうだ……ねぇ、」
そのまま尚も笑いながら後退して……そして、見えなくなった。
ふらつく体は欄干を越え、後ろから無防備に落下していった。
「こんな奴等に負けちゃうなんて、結局使えない奴だったじゃないですかー!濃姫様ー!」
「……マズイわね。この上、伊達と武田の精鋭も来るとしたら……」
その時、ふと外に目をやった濃姫は、城の西側になるそこに煙が立ち上っているのを見てさっと顔色を強ばらせた。
はそれを認めてゆっくりと口を開く。
「そちらに居る筈の我が父を人質などにと考えているなら無駄ですよ、濃姫殿。今頃は、成長した若虎と当世最強の忍二人が救い出していますから」
片眉を優美に上げた濃姫は、けれど言葉を呑み込むようにため息をつき、傍らの蘭丸に告げた。
「退くわよ、蘭丸君。――信玄公も奪われて光秀も死んだ今、ここに留まるのは危ないわ。今日は、虎姫の命だけでも満足しないとね」
「えーっ!……城取れないのはむかつきますけど、邪魔女がいなくなるなら、ま、いいか」
「Hey, 魔王のwife、逃げる算段は結構だが、その前にあの変態鎌野郎の解毒剤置いていきな」
濃姫と蘭丸の会話に割って入った政宗は、光秀を貫いた一刀を突き付けて言った。
しかし濃姫はほほほと笑って、そんなもの知らないわとだけ返す。
「それじゃあ、名残惜しいけどこれでおしまいね。さようなら、永遠にね」
タイミング良く飛来した織田の忍たちに回収された二人は、あっという間に離れていった。
「Shit!」
舌打ちして刀を仕舞った政宗が、大股で歩いて来てを抱き留めた。
そこで初めて、は自分の体が痺れて立てなくなったのだと悟った。
これが毒の影響なのか、次第に意識が薄れる。
「だい……じょうぶですから……心配…しないでくださ……」
「何が大丈夫だ! いいからそれ以上喋んな! すぐに医者を連れてきてやる!」
怖いくらい真剣な政宗の剣幕に、は微笑んだ。
光秀にはこんな風に自分を心配してくれる人もいなかったのかと考えて、最期に見せた哀しそうな顔が哀れに思えた。
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CLAP