「敵襲――!!」
そんな声が意識の端に遠く聞こえ、はゆるゆると瞼を上げた。
霞がかって見えるそこは庭か何かのように開けた場所で、武装した男たちが慌てた様子で行き交っている。
「おや、起こしてしまったかね?」
傍らから聞こえた声に、反射的に手の甲の傷を自ら刺激した。
痛みで霧がかった思考が晴れていき、ようやく自分の感覚が戻ってくる。
「敵…襲……」
喘ぐように呟くと、相変わらず鉄の鳥籠の横に陣取った松永久秀は、ああと小馬鹿にしたように応じた。
「取るに足らない狒々が迷い込んだのだよ。取るに足らなくなった…と言った方がより正確かもしれないがね」
狒々……猿……と考えて、当てはまる人物にはっとした。
しかし、ここはしばらく様子を見るべきだと思い直して、まだ意識が覚醒しきっていない風を装って無反応を貫く。
「暇つぶし程度の役には立つだろうと思ったのだがね。私の大事な鳥の眠りを妨げるとあらば、歓迎出来ない」
「…………水……を」
理解出来ていないように敢えて人間としての欲求を口にすれば、松永はくつりと喉を鳴らした。
「これは失敬。食事もすぐに用意させよう。飢え、乾き、如何にも人が欲する原始的なもので結構。君はそうして何も考えず、昔日の黒禍に戻りたまえ」
はははと高らかに響く笑い声を聞きながら、はきつく目を閉じる。
今は体力面も精神面も、少しでも『自分』を保つことが最優先だった。
意識を保つために自らの掌にも爪を立てて……ただひたすら、そう遠くない内に訪れるその時を逃さない為にも。
「くそっ、……っらぁ! 次から次へとキリがないねぇ!」
長刀を振り回しながら、慶次はそう愚痴をこぼした。
「嫌ならすぐに帰りたまえ。僕一人でも十分に事足りる」
あまりの敵の多さに辟易してため息をつけば、すかさず毒を返されて、慶次は思わず苦笑した。
「嫌とかそういうんじゃねーさ。お前だって珍しく苛立ってるだろ、半兵衛」
「当然だ」
会話しながらも、二人とも手は一時も休めない。
視線の先には、既に破壊された扉と倒れている敵兵。それは誰かが突破した後だというのを如実に物語っていた。
そしてその痕跡からも、突破したのは彼らの探し人に違いない。
豊臣秀吉――大坂に拠点を置き、近畿と西国に手を広げ、一大勢力を築いていた大大名。
そして今では、搦め手によって城を落とされ、単身落ち延びたただの男。
豊臣に潜入していた毛利の忍――望月六平太から豊臣失脚の報告を受けた後、元就たちはすぐさま対応を決めた。
まずは、豊臣に攻められ、勝機の薄かった長曾我部軍。
ごく少数だけを国境に残して、早々に毛利へと身を寄せていた本隊が長曾我部元親率いる富岳であった。
しかし豊臣が落ちたとなれば、これ以上の機は無い。
すぐに国へ戻って奪われた地を取り戻すべきだ。
そして豊臣の侵攻を国境で押さえていた毛利軍もまた、削られていた国力を立て直す好機だった。
国境線を強固にし、治安を回復する必要がある。
豊臣に国を追われた浅井は、残念ながら近江を既に魔王の支配下に置かれてしまっている為にこの機に乗じての帰国は叶わず。
結果、長曾我部と毛利は、それぞれが国へと取って返すことに、浅井は一旦長曾我部軍に同道するとし、伊達の使者である原田左馬之助は同盟の為に毛利に残るということになった。
そんな中で、我が儘は言えないと分かっていながら、それでも堺まで送って欲しい旨を頼もうとした慶次に、彼らは当然のように進路を堺に向け、言ったのである。
を頼む――と。
「ほら、退いた退いたー! しつこい男はもてねーよ!」
「なぁ、半兵衛!」傍らの男にそう声を掛けると、「君が良い例だろう」と毒舌が返った。
難波近海で小舟を借りて富岳を降り、単身堺に入った慶次は、急いで馬を用立て大和を目指した。
昼夜を惜しまず駆け続けて、ようやく細い後ろ姿に追いついたのは、松永が占拠しているらしい奈良大仏殿の入口。
一緒に行くと宣言した慶次に、彼――竹中半兵衛は断固拒否したが、どうあっても慶次が引かないということを悟ると、もう関わっている暇はないと判断したらしい。
半兵衛も慶次も目的は同じなのだから、結局道行きも同じなのだ。
「へっ、けどこうしてるとさ、昔を思い出すよなぁ、半兵衛!」
「……一体どれだけ大昔の話かは知らないが、僕は君と手を組んだ覚えはないよ、慶次君」
「つれないこと言うなよ。突っ走る秀吉を、半兵衛と俺が追いかけてさ……」
「……君は一番に突っ込んでいく方だっただろう。……そうとも、止めるのはいつもこの僕の役目だ!」
語尾と共に半兵衛の持つ関節剣がうなり、立ち塞がる敵をなぎ払う。
奸計によって城を奪われた秀吉が、単身この場所へやってきた目的――
それを、旧友である慶次と半兵衛だけは分かっていた。
「松永久秀……あいつに会ってから、秀吉はおかしくなったんだ」
「乱世の奸雄たるあの男に、言葉は通じない。秀吉がどう思おうと危険すぎる。……それは君もだよ、慶次君」
足は止めないまま、今更ながらに帰れと言う半兵衛に、慶次は笑った。
「半兵衛だって同じだろ」
「僕は違う。秀吉の補佐をすることが僕の役目だ。何より、今回のことは完全に僕の責任だ……あの男を侮りすぎていたのは僕の失策なのだから…! だが君は――伊達配下の武将である前田慶次は、豊臣の為に命を掛ける義理など無い筈だ」
「義理……ねぇ」
また新たに立ち塞がった敵の一団と剣を交えながら前方を見遣ると、上方で紫色の靄が立ち上っているのが見え、大きな爆発音が轟いた。
もう秀吉はとっくに松永の元に辿り着いているに違いない。
低く舌打ちした慶次は、声を落として背中合わせの半兵衛に告げた。
「義理は無いが理由ならある。俺の大事な女(ヒト)も、松永に捕まってるもんでね」
「……それが武田の虎姫なら、僕も情報を得ている。確かに彼女もここにいるのは間違いないだろう」
大坂城が落とされて後……その以前から松永久秀の動向に気を配ってきたであろう半兵衛が言うのだから間違い無いだろう。
慶次はギリリと拳を握りしめると、半兵衛、と呼びかけた。
「前みたいに秀吉と三人で……そんな呑気なことを言うつもりはもう無いし、俺たちは敵同士だ。けど俺は……」
俺はさ、と前置いて言葉を途切らせ、大事な女と言った娘の言葉を反芻する。
――「大切な人を傷つける辛さ――それを知ってる人同士が戦うなんて、見るに耐えないって言ってるの!」
思い出す度に笑ってしまうくらいの甘さ……けれど、気持ちがよい程の単純な答え。
「俺は、お前も秀吉も、友達だと思ってる。お前達がどう思おうと、俺がそう言うんだからそれでいいんだ」
「……押しつけられるのは迷惑だ」
「ははっ、違いねぇ。だけどこちとら、昔から人の迷惑なんか考えないのが性分でね」
まぁ、半分は恋しい虎姫に唆されたんだけどさ――最後にそう茶化して付け足すと、半兵衛は深いため息をついて、今日初めての不敵な笑みを見せた。
「……全く、始末に負えないよ、君たちは」
「今は褒め言葉と受けとっとくよ!」
最後の敵をなぎ払い、慶次と半兵衛は共に門を抜けていった。
友との絆を取り戻すため――そして新しい絆を守り、繋ぐ為に。
「……めて、止めてッ!」
思わず口から突いて出た言葉は、我ながら悲鳴じみていた。
松永久秀が僅かに驚いたように振り返ったが、それにしまったと思う余裕は無い。
自我と意識を保っているのを隠していた演技など続けられないほどに……はもう見ているだけで限界だった。
「止めて! もう勝負は付いてるでしょう!」
「ほぅ……ようやく口を開いたと思えば狒々の命乞いかね? だが残念ながら私が聞きたいのはそんな善言では無い」
「ぐっ……ぅぐぅぅ!」
捕らえられたの檻の前では、今まさに秀吉が松永に散々に痛めつけられていた。
配置した兵たちを突破して、覇王とまで呼ばれた豊臣秀吉がたった一人でこの本陣に殴り込んできたのがほんの少し前。
問答は無用とばかりにまっすぐに松永に殴りかかり、松永も応戦して僅かの攻防の後、政宗の時のように仕掛けられていた爆弾が爆発し、しかも新たな香まで辺りに充満してあれほど力を持った秀吉さえも無力化してしまった。
そして、爆発のダメージが香によって増幅されて最早動けない秀吉を足蹴にし、松永はまたも羽虫のように相手の掌を刀で突き刺し地面に縫い付けて、見るに堪えない一方的な展開になったのだ。
秀吉の頭を片足で踏みつけながら、松永は心底おかしそうに哄笑する。
「ふはははは! いやはや、全くおかしい。――だが、愉快ではないな」
「何…を……」
「龍に牙を抜かれたとは承知していたが、よもやこれほどとは。正義面で敵の命乞いをするなど、かつての気高い君が見たら何と言うか」
失望したと言わんばかりに首を振る松永に食ってかかろうとしたまさにその時、本陣の幕の外で剣戟が聞こえ、直後に二人の男が息を切らせて駆け込んできた。
「秀吉! ――!!」
「慶次さ…ん!? 竹中半…兵衛……!?」
目を瞠って二人を凝視し、まだ目眩の残る体で鉄格子を握れば、繋がれた鎖がじゃらりと音を立てた。
その音にはっと我に返り、二人に向かって叫ぶ。
「この香と足下に…気を付…て! まだ、爆弾…が仕掛けられている筈よ…!」
の言葉に二人がとっさに飛び退った直後、足下で爆発が起こり、二人は何とか難を逃れる。
「くっ……秀吉! おい、秀吉! ……ちくしょう……! もうちょっと待ってなよ!」
「……秀吉の礼、たっぷりその身に刻んであげるよ、松永君!」
服の端を割いて口の周りに巻いた慶次と半兵衛は、それぞれの得物を掲げて松永へと斬りかかった。
「私一人を相手に若者が二人がかりとは……いやはや、弱者と言うのは哀しいな」
「言ってろよ、松永! 俺のダチと大事な人にしたことのツケはきっちり払ってもらう!」
頭に血が上っているとは言え、これで二対一……しかし、足下に仕込まれた爆弾がある限り、形成はいつでも逆転出来る。
二人の攻撃を受け流して押されながらも余裕を崩さない松永を見て、はふらつく頭を振って自らの頬を張った。
まだ最初の香も完全に切れていないが、ここに充満している毒香に対する解毒薬は水と共に与えられている。
左手の傷も、ひとまず出血が止まっている……弓を握れない訳では無い。
何も出来ない訳では……ない!
「――慶次さん! そこの弓をちょうだい!」
が叫ぶと、体ごと弾かれて膝を付いていた慶次は足下に転がっていた敵兵の弓と矢をこちらに向けて放り投げた。
それを檻の間から手を伸ばして受け取り、慶次と半兵衛に向かって叫ぶ。
「豊臣秀吉を連れて本陣の外に出て!!」
一瞬顔を見合わせた二人は、けれどすぐに行動を起こした。
半兵衛が間合いを取ったまま関節剣で松永の動きを封じ、その隙に慶次が秀吉を担いで下がる。
半兵衛も幕の外まで退避したのを見届けると、は引き絞っていた弓矢に意識を集中させた。
自分の深い場所にある紅蓮の炎……そして禍々しい闇の炎。
憎しみ……絶望……魔王の背中。
ビクリと躊躇した刹那、松永がこちらに向けて剣を上げたのが視界に入り、は我に返って弓矢を放った。
紅蓮の炎を纏った矢は大きな鷹の姿を象り、本陣の地面を舐めるように飛び回る。
その炎が隈無く這い回った端から、埋められた爆弾が次々に誘爆して行った。
これで不意打ちの罠は無くなった。
ほっと僅かに表情を緩めたの耳に、楽しげな松永の声が突き刺さる。
「くっ……流石は私の黒禍……だが、私が一番に仕掛けた場所に気付かぬ君でも無かろうに」
人の絶望や死に美学を見出すような松永久秀が真っ先に仕掛ける場所……
……あるいは自分自身?
あるいは……
はっとして自分の足下を見た瞬間、は一か八かで叫んでいた。
「――疾風!!」
意識が混濁している時に、ちらりと聞いた『風魔』という名……あのの友が潜入している可能性に賭けたのだ。
果たして、すぐにいつもの慣れ親しんだ気配は近くに現れた。
しかしそれを感じ取った刹那、もう一つの気配と聞こえた声に、の思考は今度こそ停止した。
「Wait for a moment. ――こういう時はKnightの名を呼ぶもんだ」
「まさっ……」
名を呼ぶ間も無く、疾風によって斬られた鳥籠の檻と鎖から解放されたは、彼が連れて来たもう一人によって抱えられてその場から離れ、直後炎に引火して檻の真下に仕掛けられていた爆弾が爆発した。
「ふぅ、That was close!<危機一髪>……Are you OK, honey?」
「ッッ……ハ…ニーじゃ、ありませんって。……政宗様」
いつもの青い陣羽織は無い。
それでもあまりに焦がれた彼らしい太い笑みを間近で見て、はそう答えるのがやっとだった。
しかし政宗は、そんなを笑い飛ばして一度きつく抱擁すると、そっと傍らの疾風に預けた。
「HA! 上等ォ! それについてはちっと待ってな、先にあっちのじじいを退治してからゆっくりだ」
そして自信に溢れた笑みで六爪を抜き放ち、松永に突きつけた。
「奥州筆頭、伊達政宗――推して参る!」
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