雨が、降っていた。
 冷たい雨だった。

 等しく全てを洗い流してくれる雨は、嫌いでは無い。
 ただ、体を濡らして体温を奪って行く雨が、今はひどく煩わしく思えた。

 両手を濡らす真っ赤な鮮血……人の命を奪った証が、雨によって洗い流されていく。
 それと同時に、この今にも燃え尽きそうな病に侵された体からシンシンと残された力を奪って行くのだ。

 だから、今は雨が憎い。
 罪深い所業を重ねて地獄に堕ちるべきだと自らに言い聞かせているにも関わらず、こうして本当は死にたくないと思っていることを暴き立ててしまうのだから。

「――捨て置けい」

 同じく雨に打たれ続ける敵に花でも手向けるべきかと足を動かそうとした刹那、背後から重々しい声が投げられ、は抗わず身を引いた。
 翻る外套を追って、たった今自分が屠った屍に背を向ける。

 ――第六天魔王。
 この目の前にいる男は、血の通った人間では無い。
 深い…深遠の闇を従える、絶対的な力の持ち主。
 病魔に侵され、父に捨てられ、もう生きる意味も無くなったの、残り僅かの命を握る主。

 何も考えずに済む深淵の闇に、深く深く……沈めてくれる人。

 ただその背中に従い、這い上がれないほどに血に塗れれば良い――
 それだけの為に動いていた体は、しかし不意に足先から崩れ落ちた。

「――立たぬなら、置いてゆくだけぞ」

 そう声を掛けられても、糸が切れた人形のような脆弱な体は指一本動かない。

 雨の降り続ける土の上に倒れたまま、ふと虫の息で瞼を上げれば、そこは寂れた廃寺のようだった。
 無人とは言え、寺とは何とお誂え向きな場所だろうかと思う。
 一生を終えるのに、これほど相応しい場所はあるまい。

「父う…え………」

 何の因果か、父は信心深い人だった。
 もうは本来の天命よりも十分生きた……偶然とは言え寺で終われるのなら、許してくれるだろう。

 そのまま閉ざそうとした瞳はしかし次の瞬間別のものを捉え、反射的に体が動いていた。
 飛来した手裏剣を属性の炎で弾き、脇に転がっていた薙刀を掴む勢いのまま真上に振り抜く。

 確かな手応えと断末魔の声と共に上から降り注ぐ血しぶき。

「いや、見事見事」

 パンパンと空虚な拍手と朗々とした声が響き、はのろのろと視線を動かした。
 どうやらこの声の主が先程の忍をけしかけた張本人であるらしい。

「何の真似ぞ、弾正」

 ぞっとする魔王の詰問にも弾正と呼ばれた男は悠々と答える。

「何、第六天魔王の配下である同胞(はらから)に挨拶に来ただけのこと。確かと言ったかね?」

 名を呼ばれても答える義理など無い。
 それどころか、折角静かに訪れそうになった寺での最期を邪魔してくれたのだ。
 今にも倒れそうな体を抱いて黙ったまま立ち上がり、手の得物を男に向けた。

「……ふ、童ながら中々良い目をする」

 笑った刹那、雨に紛れて男の姿が一瞬視界から消えた。
 そして直後、背後から得物を持つ手を捕まえられる。

 魔王とはまた違った闇の気配……闇の炎。
 燃える炎の属性を持っていながら暗い闇へと堕ちていると、同じ色。

 まさに同族嫌悪だろう。
 気が付いたら、はその手を大きく振り払っていた。

「私に触るな」

 しかし振り払われた男の方は、気を害すどころか愉悦を隠しもせずに笑う。

「く…ははは。実に良い。私は君が気に入ったよ、。虎の娘ならば血統も申し分ない」

 自分のことを言われているのだと理解はしていたが、何も感じなかった。
 目の前の男のようにこの身に武田の血が流れているというだけで特別視する人間は昔から何人も見て来たのだ。
 しかし、次の言葉には僅かに虚を突かれた。

「流石は我が主君、目が高い。ところでこの娘を私に譲ってはくれまいか」

 譲る――譲渡する。
 は魔王の所有物になった覚えは無く、ひどく的を外れた言い方に聞こえた。

「代わりに私の愛する茶器を献上しよう。私はこの小さな黒禍が気に入ったのだよ、何よりも血の雨が似合う稀有な姫君がね」
「――ふん。是非も無し。余に歯向かう者に塵芥の価値も無しぞ」

 背筋の凍る覇気が魔王から弾正という男へ発せられる。
 しかし男は怯むでも無く微かに落胆の息をついて、軽く両手を上げた。

「いやはや、怖い怖い。ここは主君に忠を見せ、引くとしよう。……されど、人は欲しがるが性――それは世の真理」

112.弾正

「人は欲しがるが性――それは不変たる世の真理だよ」

 朦朧とした意識の中に、朗々たる声が響く。
 昔に聞いた言葉と重なるようにして、それはの中へと入り込んだ。

 かつてと同じようにその言葉に揺り動かされて、ゆるゆると瞼を上げる。
 視界には鉄格子の向こうにかつての同輩――松永弾正久秀が映り、ひどく甘い匂いが頭を占めていた。

「おや、目覚めたかね、姫君。籠の鳥になった気分はいかがかな?」
「……――」

 尋ねられた言葉は、普段なら眉を顰めるものでしか無いのに、は返事が出来なかった。
 霧が立ち込めるように思考が霞み、松永の言葉も目の前の光景もろくに像を結ばない。
 全てがひどく朧気で、別の世界のことのようだった。

 そんなを気に留めず、松永は尚も語る。
 
「あれほど堅固な城を築こうとも、人の性さえ揺り動かせば、こうしていとも容易く転がり落ちる。虚しいな……いや、とても愛しい感情だ」

 そうは思わないかね?という問いかけは、では無く松永の背後に控えた三人……その背後へ向けられたもののようだった。
 しかし、影に溶け込むようにして跪いていた男――闇色の衣装と深い兜に身を包んだ忍は一言も発しない。
 松永はそれを満足そうに受け入れた。

「ふっ、これは失敬、愚問だったようだ。伝説の忍――自らを安売りしない影の王に人の世の虚しさを語るなど、愚か以外の何物でもない」
「……………」
「一度は伊達に膝を折った風魔の亡霊。卿が何を思い、何を望んで私の元に来たのか、白状すると私は全く興味が無い。ただ卿の圧倒的な能力は是非とも欲しいところでね」
「……………」

 聞いているのかどうかすら疑わしいほどに何も答えない忍――黒い脛当てを外した風魔小太郎は、ただ黙って跪いていた。
 それをどう思ったのか、松永は思い立ったようにを振り返り、視線を固定させたまま背後の三人に問う。

「ああ、そうだ。そう言えば、独眼竜を見失ったと言っていたな。私の姫君にもう一度聞かせてやってくれたまえ」

「――転落した辺りを探したが骸も見当たらない」
「川に流されたとして駿河の山中も探してはいるが、未だ報告は上がって来ていないな」
「あの辺りは織田領。今は武田の軍も駐留していて面倒だ」

 詳細を理解出来た訳ではないが、独眼竜――その一言に、ぴくりとの体が震えた。
 実際は靄のかかった思考の端にちかりと何かが光ったように感じただけだ。
 けれど口は、自然とその名を刻む。

「……政宗…さん……」

「フ…フハハハ! 愛、希望、実に麗しいな……全く虫唾が走る」

 高らかに笑って言った松永は、鉄格子の間から剣を鞘ごと突き入れ、の包帯が巻かれた手の甲を圧迫した。

「ぅアっ……!」

 反射的に痛みに呻いたの視界に映ったのは、包帯に赤い血の染みが広がって行く光景。
 痛みのおかげで像を結び始めた思考で、松永に串刺しにされた傷が再び開いたのだと理解する。

「松永……久秀………!」
「ハハ、今ので香が切れたかね? 何はともあれ、君の口から私自身の名が出るのは好ましい。特別に設えたその鳥籠の居心地はどうだ?」

 言われて見やれば、まるで竹で編まれたような釣鐘型の鉄格子がの周りを覆っていた。まさに『鳥籠』と言えるそれは悪趣味としか言いようがない。

「最…低……ね」
「ふむ。君さえ協力的ならそこから出すことも厭わないのだが、ね。感覚が麻痺する南蛮の香を味わいながら、無意識化で独眼竜を呼ぶとあれば、協力的とは言い難い」

 そう言えばと、先程霞みがかった思考の中で聞いていた話を朧気に思い出す。
 独眼竜が生死不明――
 の中にぐらりと崩れそうになる絶望が蘇って来たが、手を握りしめて痛みを増すことで追いやった。

「………政宗さんは…絶対…生きてる……貴方は…竜の逆鱗に触れた……!」

 爆発で吹き飛ばされた蒼い残像をも打ち消すように、は松永を睨む眼光に力を込めた。
 直後に右目たる小十郎が追ったのだ――命を落とす筈が無い。

 そして、政宗と違って柱に括りつけられたまま崖下へ落とされた伊達軍の兵たち……仲間があんな仕打ちを受けて、伊達が黙っている筈は無い。
 遠からず、彼らはここへやって来る――そしてきっと、も助け出してくれる。

「怖い怖い。だが、その苛烈な瞳を見れるのなら悪くはない。君や独眼竜が私の命を欲するのなら、力ずくで奪えば良い――それが世の真理」
「真理――そうかもしれない。でも、私は…政宗さんは貴方と同じじゃない……いいえ、貴方もその片鱗に気付いたから魔王に歯向かったのじゃないの…?――弾正久秀」

 少し前までなら、黙って助けられるのを待つなんて性に合わない――自分で認められないことだったのに、今ではこんなに政宗の手を待っていることが当たり前に思える。
 それは対等な立場で助け合える……相手を信じているということ。
 逆に言えば信じていない相手と手を携えることなど不可能なのだ……かつての松永と織田のように。

「君にその名で呼ばれるのは久しいな。しかし君の言うことは誤りであると言わざるを得ない。越後も九州も容易く手に入った。大坂城も謀反を起こさせ戦わずして落ちた。日の本の歴史を振り返っても、人の飽くなき欲は全てを凌駕すると物語っている。今回の豊臣についても、それが繰り返し証明されただけのことだ」

 ふわりと、松永が手にした新たな香炉から紫煙が立ち上り、朗々とした声がの意識を押さえつけるように響く。

「さあ、もうしばし休息したまえ。君の為の舞台が出来あがるまでまだ間がある」

 煙が広がるのと比例して霞みがかって行く思考の中で、は最後に松永を睨みつけた。

「私はもう……闇には堕ちない」

 それは、自分自身への誓い。
 にとっての光――政宗や大切な人たちの手を決して離さないという覚悟。

 きっと無事でここに来る――政宗も、小十郎も、そして恐らく松永と因縁があるというあの人たちも。
 そう強く信じられる自分に安堵して、闇には堕ちないという強い意志を抱いたまま、押し出されるように瞳を閉じた。





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