――「

 呼びかけてくれる深く落ち着いた声音。
 記憶の中の父は、大きくて優しくて、大好きな自慢の父だった。
 いつも手を広げて待っていてくれる、そんな懐の大きな人――。

 幼い頃はそのたくましい肩に抱きあげられるのが、成長してからは大きな手に少し乱暴に撫でられるのが、何よりも好きだった。

 けれどそんな父は、大国を統べる戦国大名だ。
 その娘であるも、この戦乱の中を綺麗事や無血では渡って行けないことは理解しているし、父がいつ命を落とすかもしれないということも分ってはいた……いや、分っているつもりだった。

 ――「この…馬鹿者が!!」

 手紙は送っていたが、実際に会ったのはそうして叩かれたのが最後だった。
 普段、には声も荒げない信玄が手まで上げて本気で怒った……甲斐での未熟な自分。

 ずっと、自分の愚かすぎる行いの償いに帰らなければと思っていた。
 けれど、どうしていつまでも父があの優しい両手を広げて待っていてくれると思ったのだろう。

103.霧中

「――くだらぬ戯言にまどわされてはなりません、とらのひめよ」

 脳裏に甦る父との思い出……そして触手を伸ばしてくる闇に抗っていたを現実に引き戻したのは、軍神のその一言だった。

「あ……謙信公……」

 辛うじて息をついて、ゆるゆると謙信を見つめる。
 父の好敵手である彼の威厳と静かさを湛えた瞳は、無言でを諭しているようだった。

 ――「甲斐の虎は我々が捕らえましたよ」
 明智光秀が発した何の確証も無い一言。
 動じるなんて愚かだと頭では分かっていても、実際は平静などではいられなかった。

 傍らの陣羽織を掴んだまま怯えるを見遣った光秀は、そうやっていたぶるのが何よりの娯楽とでも言うようにくつくつと笑う。

「おやおや、戯言とはつれないですね、軍神。父親を心配する娘――何とも美しい光景ではありませんか」

 視線をから外さないまま言った光秀に、謙信は、彼にしては珍しく大きく柳眉を顰めた。

「わたくしはありのままをいっただけ……まことではない繰り言をざれごとといわずなんという?」
「ですから、真だと申し上げているのですよ。――貴女なら信じてくれるでしょう、?」

 怜悧な刃物を――獲物を前にした猛獣を思わせる視線。それを向けられて、背中にひやりと冷たいものが走る。

(……何か、言わなきゃ……)

 真っ白になった頭で、切羽詰まった焦燥だけが身を焼くように駆け巡った。
 しかし意思に反して、体は欠片も動かなかった。
 条件反射のように、冷眼の視線に縫い止められる。

 その眼差しに、頭の中で甦る光景――

 ――「おや、泣き叫んで抵抗しないのですか? 興醒めですよ。動けないのならこのまま……」

 遠い過去の追憶が痺れるように脳裏に甦った。
 闇の中に自ら堕ちていく感覚――……
 動けないまま血の気が引いたのその指先が、不意に固いものに包まれたのはその時だった。

「あ……」

 光が昏い鎖を一瞬にして断ち切る。
 自分を繋ぎ止める強い引力――

 握られた手から辿るように視線を上げれば、傍らの政宗といき合った。

 ――皮の手袋に包まれた刀を握る無骨な手。
 手袋越しで温もりさえ感じなかったが、握られた力はますます強くなって闇に対抗する熱をくれる。

「政宗様……」

 無言のまま、安心させるかのように口の端が上げられる。
 それがどれほどに力を与えてくれるか、きっとこの人は分っていないだろう。

 それに先ほどの三好の時のように前に出ないのは、相手がにとってある意味特別だと見抜いたからか――その気遣いと励ましに押されて、は一つ深呼吸した。

 過去の自分と、現在の自分は違う。
 いまがするべきなのは、武田の娘として……そしてこの独眼竜と共に戦う者として、両家の敵である明智と相対することだ。

「――明智殿」

 政宗の手をそっと解いて、は自ら一歩前に出た。
 ここで一人で立てなければ、闇を克服することなど出来ないと思った。

 臆さないように腹部に力を入れ、努めて静かに言葉を発する。

「敵の言葉を鵜呑みにする程、私も馬鹿ではありません。これ以上は我が父・信玄に対する侮辱と取ります」

 精一杯の覇気を乗せ、薙刀の切っ先を相手に向ける。
 そのの言葉に、光秀はついと目を細めた。

「……おもしろくありませんね。私は絶望に怯え、闇に堕ちてのたうち回る……そんなあの頃のような貴女が見たいのに」

 毒蛇のような視線を向けられて、は後ずさりそうになる自分の足を叱咤した。

 後ろには、政宗が居る。
 彼の傍に在りたいと願うなら、逃げてはいけない。
 そんなことは、自分自身が許せない。

「変態の趣味に付き合う義理はありません」

 真っ向から視線を受け止めたに、光秀は顔を歪めた。

「残念ですよ、。いつの間にそんなつまらない目をするようになったのですか」

 その目線は、舐めるようにの上を移動し、傍らに立つ人に移された。

「ああ……そうか。変わったのでは無く、変えられたのですね? そこの独眼竜に」

 光秀がぞっとするような笑みを浮かべた瞬間、彼の背後から三つの影が躍り出て政宗へと斬りかかった。
 同じ軌道を取ったそれらは、一見すると一人にしか見えない。
 そうしておいて、最初に攻撃を仕掛けた者の背後から死角に回りこんで翻弄するのが、彼らの――三好三人衆の連携だ。
 個々ならば然程脅威では無い彼らの強みはこの連携にある。

「政宗様っ!」

 急な攻撃を受けても、流石の政宗はそれらを全て捌いたが、勢いに押されて後方へ押しやられた。
 その政宗に気を取られた刹那、狂気とも呼べる殺気が近づき、はとっさに薙刀で受けとめる。

「仕方ありません。貴女を変えた忌々しい光、私が消してさしあげましょう」
「な……にを……」
「甲斐の虎のようにね」
「っっ!! そんなことっ…!」

 互いの得物を挟んで間近で向かい合った光秀に、この時のは恐怖よりも怒りを感じた。
 父をその手で捕らえたと言い、政宗にも害を為すと言った目の前の敵に――

「そんなこと、絶対にさせないっ…!!」

 怒りのままに振るった薙刀は紅蓮の炎を撒き散らして光秀に襲い掛かる。
 悲鳴とも歓喜とも言い難い狂ったような声を上げてそれを避けた光秀は、不気味に笑った。

「おやおや、弾正殿もきっと同じ意見だと思うのですけどねぇ。尤も、彼は破壊美論者ですが」

 唐突に出された松永久秀の名にも、は攻撃の手を緩めなかった。
 数合斬り合い、炎の属性を飛ばす。

「おっと、危ない。良いのですか、。私を殺せば、大切な父君の居場所が分からなくなりますよ?」
「!! …だったら、力ずくで聞くまでっ!」
「おぉ、怖い怖い。だったら、貴女のその闇で私を喰らってごらんなさい」

 冷静になれば、それはあからさまな挑発だった。
 普段なら相手にもしない安っぽい手だ。
 だがは、容易くそれに乗せられ、踵を返した光秀を追っていた。

「いけません、とらのひめ!」

 後ろで焦ったように叫ぶ謙信の声も、何処か他所の世界のように聞こえた。

 手に持った大振りの鎌で進路を切り開き、伊達の馬を奪って走り出した光秀を、も近くで拝借した馬の腹を蹴って追いかける。

 戦場の只中を駆け、遠のいていく風景と風を感じながら、時を遡っているような錯覚に陥る。
 前を走るのは、闇を従えた大きな覇気――それについていくことを迷わなかった、幼き日の無力な自分。

 何も考えるなと、自分の声が聞こえた気がした。
 黒々とした靄に思考が塗りつぶされていく――……

(……駄目だ……このままじゃ……私は……あの時みたいに…………)

 昔、慶次に拾われ、貝を貰って……ようやく人の感情を取り戻せたと思った……。
 そしてこの戦国に戻ってきて、再び闇の中に居たを救ってくれたのは。

 ――「っ! こっちに来いっ!!」

 迷い無く、揺ぎ無く、伸ばされた腕。
 引っ張り上げてくれる眩しい光。

「っ!! 私は……っ」

 はっとして我に返ったは、いつの間にか戦場を抜け、越後との境にまで来ていたことに気付いた。
 そして後ろから聞こえてきた力強い蹄と、愛しい声。

!! てめぇ、止まりやがれ!!」

 正気に戻ったと、白斗に乗って爆走している政宗の距離が縮まるのはあっという間だった。

っ!」

 その、馬上から伸ばされた手に。
 目も眩むほどの愛しさが募る。

 全ては無意識だった。
 何も考えず、は自分の手綱を離し、馬体を挟んでいた足から力を抜いていた。

「ばっ……何やって……っ!」

 慌てたように叫んで白斗から飛び降りた政宗と、落ちながら彼に向かって手を伸ばした
 その手が触れ合う前に、闇色の衝撃波が両者の間に走りぬけた。

 体が反射的に受身を取って、二人はそれぞれにその攻撃をかわす。
 地面への落下の際に強かに体を打ちつけて呼吸を圧迫されたの上に、愉悦を含んだその声は落とされた。

「残念ですね、もう少しだったというのに」

 苦しさの中でもがくように顔を上げたは、馬上から楽しげに笑う光秀を捕らえた。
 目が合った彼は、狂った笑みを深める。

「まあいいでしょう。お楽しみは後に取っておくとしましょう。貴女は必ず動くでしょうからね……かつて自分を捨てた愛しくて、憎い憎い父親を救うためにね」

 ――憎い…父……?

 眉を顰めたは、久しぶりの頭痛に襲われる。
 それを置き去りにするように響き渡った笑い声と狂気に溢れた気配は、すぐに遠ざかっていった。

……オイ、しっかりしろ!」

 意識だけはその後姿を追いかけながら、傍らで呼びかけてくれる人の腕に掴まって、はそのまま意識を手放した。
 霧が立ち込めたかのような思考の中を、必死でもがき沈んでいくように。





090604
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