怖いほど青く澄んだ海――それは、あまりにも深く澄み渡り、底など見えないことを知っている。
底は見えない。先も見えない。帰るべき場所も――無い。
欠けた何かを探す旅。
求めるものはまだ見付からない……
赤楽7年――慶東国景王・陽子の治世も安定し始め、その平安は国の端々にまで届こうとしている。
慶国首都であるここ堯天では、その復興ぶりが一層顕著だった。
「や、!」
「――はい!」
大規模な緑柱の館――遊郭で、その名を呼ばれた少女は振り返った。
随分と端正な顔立ちの少女で、頭に巻かれた民族風の織物が特徴的だった。
だがこの時、その愛らしい両頬はなぜかモゴモゴと大きく膨らんでいた。
仕事の合間に一服つこうと、ちょうど客に貰った饅頭を頬張った所だったのだ。呼び声の主に聞こえるように大声で返事しなければならないのに、始末が悪い。
「むぐっ……はい、旦那様!」
饅頭を喉に押し込めながら、頭の布を直して身なりを整える……器用な早業をこなし、は主人の前に駆けつけた。
堯天一の遊郭として名高いここ、愁黄郭には数十人の遊女が身を置いており、器量も一流処ばかりだ。
は遊女ではなく、彼女らの世話をする下女として一月前から住み込みで働いていた。
「いいか、先ほど大層立派な趨虞を連れたお大尽がみえられた。姐さんたちは皆まだ準備の最中だから、お前がお茶を持っていくんだ」
「ええ~っと……趨虞? お大尽? 姐さんは準備中……つまり私は何をすればいいんですか?」
かろうじて聞き取れた単語だけを繰り返すに、主人は深い溜息をついた。
「全く、海客の言葉は皆目分からん……いいか、お茶だ! 奥の部屋! あそこにお茶を持って行って御もてなししろ!」
大仰な身振り手振りで説明し、慌しく去っていった主人を見送り、も歩き出した。
お茶……奥の部屋……御もてなし……先ほどの単語を忘れぬ内に繰り返しながら、言い付けを実行する為に調理場へ向かう。
言葉が通じなくても妙にへこたれない海客の少女は、誰もいないのをいいことに、菓子を2~3懐に頂戴して奥の部屋へと急いだ。
「失礼いたします」
最低限身に付けさせられた接待の言葉を口にしながら、はその部屋へと足を踏み入れた。
こんな仕事は今までにもあったが、流石にこの一番上等な部屋を任されたのは初めてだ。まぁ、どうせ言葉が通じないことが分かればすぐに下がらせて貰えるだろう。
いつも通り楽観的に構えていただったが、中からの返答にピクリと動きを止めた。
「ああ、茶ならその辺に置いといてくれ」
低くてよく通る声。
しかし問題なのは、声ではなくその男の言葉だ。
衝立の内を覗いて、の驚きはますます強くなった。
(この男……何者?)
一番初めに覚えたのは警戒心。
しかしそんなことは欠片も顔に出さず、茶の用意を整えた。
仕事をしながら、いかにも怪しいこの男を観察する。
趨虞を連れていたと言っていた。――趨虞。騎獣の中でも最上級だ。十二国中探しても、従える者は数えるほどだろう。貧しい慶では、最近とんと見かけない。
つまり、主人も言っていたように、この男は大層なお大尽ということになる。
それなのに、着ているものは実用重視の丈夫そうで簡素な袍、そして使い込まれた立派な剣。
この男は護衛役で、主人が後から来るのかとも思ったが、それにしては堂々としていてこのランクの宿にも慣れている風情だ。
そして極め付けが……
「ん? 俺の顔に何かついているか?」
海客のにも言葉が分かるということだった。
言葉が通じるということは、仙籍に入っている神仙の証。
はじっと男を見返し、にっこりと微笑んだ。
「いいえ、失礼しました。立派な御剣だと思っただけです」
「……ほぅ?」
男は面白そうに口の端を上げた。
も一見無邪気な愛らしい笑みを浮かべる。
(さて、どう出る?)
この男が、の待っていた人物かどうか試すために、わざと軽く挑発してみたつもりだ。もしも後ろ暗い目的を帯びた短気な輩だったら、この場で剣を抜くことだって考えられた。
その反面、そうはならないだろうと冷静に考えている自分がいる。
長年の直感で、この男がただならぬ使い手だと感じていた。
しかし、男の反応はあれこれ考えていたの予想のどれにも当てはまらないもので……
「俺は風漢という。お前の名は?」
まさか名など聞かれるとは思っていなかったは内心驚いていたが、辛うじてそれをのみこむと、何でもない風に名乗った。
「か……偽名ではなさそうだな」
何を……と言う間もなく、それは一瞬のことだった。
風漢が傍らにあった剣を抜き、薙ぎ払うのとがそれをかわして跳んだのは同時。しかし着地した足元を狙われ、服の裾に足を取られて転倒したは、そこに繰り出された風漢の太刀を仰向けのまま何とか受け止めた。
ただにとって大きく誤算だったのは、体勢を崩されたことでも、よっぽどでないと用いないことにしている短剣を抜かされたことでもなく――衝撃で頭の布から髪が零れ落ちたことだった……。
「それは……!」
驚いたような風漢の隙をついて、は思い切りその巨体を蹴り飛ばす。
急ぎ立ち上がって体勢を整えたが、相手は最早剣を下げていた。
「ただの下女ではあるまいと思ったが……麒麟か?」
は大きく目を見張った。
だがすぐに深い溜息をつく。
自棄気味に取った布からさらりと零れ落ちた肩までの髪は、淡い金色をしていた。
「本当に私が麒麟だと思います?」
風漢は押し黙った。
の右手には服の中に仕込んでいただろう短剣。
この世に、剣を取って戦える麒麟などいない。
その時、部屋の外から声が掛けられた。声音からしてここの主だろう。
風漢がそちらに気を取られた僅かな間に、びゅっと突風が吹き抜けたかと思うと、既にその場にの姿は無かった。
開いた窓から、温かな風が吹いていた。
030322
CLAP