目の前で炎が翻り、熱風が肌を焼く。
はためく着物の袖と炎に照らされた黒髪、そして政宗だけを映す双眸――
――ドクリ
炎の向こうからこちらを見つめてくるそれに、心臓が大きく脈打ったのを感じた。
これと同じものを、いつか見たことがある……そんな、直感。
やがて、対峙した女――は僅かに笑みを浮かべた。
「私が好きな人は……ぬばたまの闇を切り裂く、どこまでも眩しい雷光」
今にも泣き出しそうで……けれど強い眼差しと凛とした言葉。
みるみると光を増す瞳から、目が離せない。
その鮮烈さに、思わず息を呑んだ。
「天下一のcoolな男です!」
叩きつけられた言葉の内容よりも、その迷いの無い真っ直ぐさに気を取られた。
そして背を向けた姿に、脳裏で別の風景が重なる。
伸ばされた腕……遠ざかる苦しそうな泣き顔……
「ま…てっ……!」
思わず手を伸ばしたが、突然襲い来た尋常では無い頭痛にその場に崩れ落ちた。
「………!」
苦痛の中で求めた名前は、砂を噛むような空虚感を刻みつけて。
痛む胸の元凶であるこの感情がどこから来るのか……
分からないなりに、一つだけ確かなことがあった。
途方も無い喪失感――このままでは、を失う。
そうして"もう二度と"、そんなことには耐えられないだろう――と。
ジリジリと燃える小さな火を見つめて、政宗はぼんやりと思考に耽っていた。
起きぬけに一服するのは毎朝の習慣ではあるが、この日は流石に日常とは程遠い。
愛用の煙管を手に取ってから既に半刻あまり。
目の前には疾うに朝食まで準備されていたが、それを食べる気にもならず、未だに煙管を手放せないでいる。
――「政宗様、お食事は終わられましたか?」
ふとそんな柔らかな声が聞こえた気がして、政宗ははっと顔を上げた。
しかし目を遣った障子には誰の影も映らず、朝の陽光を遮るものは無い。
手元の煙管に目をやれば、先ほど入れた筈の葉が既に燃え尽きているのを見て舌打ちした。
まだ一服しか吸わぬ内にぼんやりと放置してしまっていたらしい。
出された温かい食事に手を付けないことも、煙管を吸い損ねることも、普段の政宗では有り得ないことだ。
その原因が、ずっと政宗の頭から離れない娘――侍女のだということは自覚していた。
自分が先ほどから、居る筈のない彼女を何度も探してしまっていることも。
朝目が覚めて三傑に好き勝手に責められ、その癖外出を禁じられてから今まで、政宗がしたことと言えば布団から出て身なりを整えたことくらいだ。
だがそれだけを取っても、常ならばが傍に居て手伝ってくれるのが当たり前のことだった。
そう……一人の侍女が当たり前の日常から忽然と姿を消した……たったそれだけのことに信じられないくらい動揺している自分がいる。
欲しいものは力ずくで手に入れる――それが政宗のスタイルで、それは何に対しても変わらない。
況して、元は自分のものであったなら尚更だ。
だが……だけは勝手が違う。
なぜか体が動かなかった。
こうしている今も、彼女が居るという白石城に駆けていきたい衝動が身の内で燻ぶっているにも関わらず、だ。
それでもここに留まっているのは、小十郎の諫言通り家中の混乱を避ける為というのもあるが、何より"踏ん切り"がつかないからかもしれない。
心は一刻も早く連れ戻せと叫んでいても、その裏でちらつくのだ――政宗を拒絶するあの瞳が。
そして、のことを考えようとする度に牙を向く頭痛……
政宗は舌打ちして苛々と煙管を置き、諦めたように冷めた椀を手に取った。
そしてそれと同時に、知った気配が物凄い勢いで近づいてくるのを感じ取る。
自然と眉が顰められた。
「っ独眼竜!! テメェ!!」
「――何しやがる、前田」
殺気立って飛び込んできた拳を腕で止める。
誰に聞いたのか、昨夜のことを知っているらしい前田慶次の拳は本気だった。
唐突なのも破天荒なのもいつものことだが、飄々とした常からは考えられないほど激しい怒りをぶつけてくる。
属性の風を暴走させるほどの剣幕でのことを聞いてくる慶次にその本気を見せつけられ、政宗の中でどす黒い感情が湧きあがった。
は想い人の為にあれほど苛烈に政宗を拒んだ。
しかし当の慶次は今更のこのこと出てきての名を口にする。
あまりにも馬鹿らしい……全てが滑稽に思えた。
「knightのお出ましにはちぃと遅ぇんじゃねーのか?」
「何だって?」
「そんなに大事な女なら首に縄でも付けとけって言ってんだよ」
自分でもお角違いだとは思ったが腹が立った。
あの瞳を向けられている癖に――あの腕を掴める場所にいる癖に。
しかし驚きに目を見張って心底嫌そうに顔を顰めた慶次は、のことを大事な女だと堂々と惚気たかと思いきや意外なことを口にした。
「けど! あの子にはもう恋しい相手が他に居るんだ!!」
政宗は一瞬言われた意味が分からなかった。
の恋しい相手――この前田慶次では無いとでも言うのだろうか。
慶次の方はを想っているのに間違いは無い……そしてその慶次が本気で怒りをぶつけ、いま睨みつけているのは――
――「私が好きな人は……ぬばたまの闇を切り裂く、どこまでも眩しい雷光」
脳裏にの声が蘇り、政宗はゆるゆると目を見開いた。
雷光――雷の属性……そして。
――「天下一のcoolな男です!」
「は言ってたよ。ただ傍に居るだけじゃなく、守りたいって――力になりたいんだってなぁ!」
――「ここには、私が居ます」
「あの子が何の為にここに居ると思ってる!? 毎日どんな気持ちで、今のアンタを見てると思ってんだ!!」
――「私にも……命をかけられるくらい好きな人は居ます! その人の為にも、私は政宗様に命を賭してお仕えしますから!」
そう言ったに、政宗は嫌悪しか抱かなかった。
しかし。
記憶の奥底に眠る姿の見えない声や行動……とてつもなく大きな喪失感。
……そう、政宗は守りたかったのだ。
失くした記憶のことなど知らない。
ただ、あらゆるものからを……の笑顔を、自分のこの手で守りたかった。
「……泣いてるよ」
ズキリと鋭い痛みが胸を刺した。
泣き顔が鮮明に蘇る。
他でもない政宗が傷付けた――
「きっと、は泣いてる。なのにアンタは……! アンタはここで何してる!? 好きな子傷つけて泣かせて、それで何悠々と飯食ってんだよ!!」
避けようと思えばいくらでも避けられる大ぶりの一撃を、しかし政宗は無言で受けた。
「はもっと痛い思いしてるさ。――ここまで言って分からなきゃ、もう俺も遠慮しない」
言いたいことだけ言って足音荒く去って行った慶次を無言で見送り数秒……政宗はそのままの体勢で悪態を吐いた。
しかし勢いで叩きつけられた壁を背にしたまま、動く余裕も無い。
「――小十郎」
「………は」
「俺が忘れてんのは、アイツのことだな?」
確信を持った問いに、途中から部屋の外に控えていた腹心は無言のまま頭を垂れた。
端から返事など期待していない政宗は、重い体を起こし立ち上がる。
「白石に行く」
「政宗様、は――」
「Stop!」
真剣な面持ちで何事か口にしようとした小十郎を、政宗は朝とは逆に自分の刀を押し掲げることで止めた。
頭から余計なものを振り払うように深呼吸する。
「――竜に迷いはいらねぇ」
「政宗様……」
「が何者か、なんでお前らが何も言わずにいたのか……この際全部どうでもいい。俺は取り戻しに行く」
止めるなと目線だけで言えば、龍の右目と呼ばれる男は深く頭を下げた。
行李の隅に押し込んでいた赤い髪紐だけを掴み、政宗はそのまま部屋を出た。
ただ、心の赴くままにあの瞳と向かい合う為に。
「ここより先へはお通しできませぬ」
「――アイツはどこだ」
休みなく愛馬を駆けさせてようやく辿り着いた白石城の門前に、まるで戦でもするような装束で出てきたのは、白石城主・片倉小十郎の姉にして政宗の乳母でもある喜多だった。
幼い頃から姉のように傍に居た彼女に、政宗は白斗の上から短く訊ねた。
もう日もとっぷりと暮れた夜半のこと――篝火でもお互いの表情は読み取りにくいのに、睨み合うこと数秒で喜多は何も言わないままあっさり門を開けた。
すれ違う政宗に一言だけ告げて。
「好いた女子を泣かせるような男にお育てした覚えはございませんよ」
「――Ha、I think so.」
喜多とも、まるで姉妹のように仲が良かった。
あの様子では籠城してでもを引き渡さない覚悟であっただろう喜多が、なぜ突然態度を翻したのか……
僅かな時間向かい合っただけで、政宗の心情を見抜いたらしい。
「…thanks. 餓鬼の頃から喜多にゃ敵わねぇな」
「伊達に竜の乳母ではありませぬので」
打てば響くような気の利いた答えを返して来る所も、昔から変わっていない。
そういう所はとも似ている気がして、思わず笑った。
そして城門をくぐり、教えられた天守へと向かう。
灯かりも持たずに足を踏み入れたそこは、弦月の仄かな光が差し込んでいるものの、複雑な組木が影を作って深い闇に沈んでいた。
いざという時の食糧庫や武器庫になっている一階には人の気配は無い。
「……上か」
中央の階段に足を掛け、上の階へと登りながら確信が胸を満たす。
(居る……ここにアイツが居る)
ぎしりと床板が軋み、最上階に差している開放的な月明かりが見え始める。
そうして視界が開けた時だった。
「……すみませんでした」
階段の途中で掛けられた言葉に、政宗は思わず足を止める。
天守の最上階……城下を見晴らす手摺の前に、膝を抱えたは背を向けて座っていた。
「勝手に逃げ込んだりして、ご迷惑かけちゃいましたよね――小十郎さん」
事前に連絡でも来ていたのか、来訪者を小十郎だと信じて疑っていないは、尚も振り向かない。
こちらを見ず、白石城下に向けられている顔は、一体どんな表情をしているのだろうか……
政宗は目を伏せたまま、階段を上りきった。
「政宗様に何か言われたんじゃないですか? ……いえ、それより…おかしな侍女を使って政宗様を誑かそうとしたとか何とか……」
自分の名が出てぴくりと反応したのは一瞬。
それよりも相変わらず馬鹿な心配をしているのことがおかしくて堪らなかった。
誑かす――確かに結果的にはそう言えるかもしれないが、振り回されているのはこちらの方だ。
それについて、誰に"何か"を言わせるつもりも無い。
「……その心配は無ぇ」
言葉を発した瞬間、は弾かれたように振り向いた。
「政宗さ…ま……」
呆然と呟かれる自分の名前を、政宗は鈍い痛みに苛まれながら聞く。
そして月明かりに照らされたその顔を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
驚きに見開かれた目は赤い。
腫れた瞼、頬に残った涙の跡――
――「泣いてるよ。きっとは泣いてる」
心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。
慶次の言葉が蘇り、反射的にその場を動けなくなった政宗は同じように視線も縫いとめられた。
昨日と同じ月明かり……昨日と同じ相手。
けれど、何かが違っている。
それは敢えて言うなら、気配とも少し違う……存在感のようなもの。
今まで押さえていたものを――鮮やかな深紅を思わせる魂の色を、偽らずに自然体で纏っている。
そう、これが『』だ――
思った途端動き出した足は、真っ直ぐに彼女の前に進み、気付けばその頬に触れていた。
ビクリと目に見えて震えたに、政宗の胸も同じように痛む。
昨日の今日で自分に乱暴しようとした男――そんな相手と閉鎖空間で二人きり。
女としては怯えない方がおかしい。
政宗はこの手を振り払われても、逃げられても詰られても、当然のことをしたのだ。
けれどは、逃げなかった。
僅かに震えながらも、そんな自分を叱咤するかのように政宗の瞳を真っ直ぐに見返してくる。
何とも言えない感情が政宗の胸を満たした。
切なさ、愛しさ……言葉では表せない何か。
「……泣いてたのか」
親指でそっと目元をなぞりながら言えば、数度パチパチと瞬きした後、は生真面目に頷いた。
「はい。たくさん……泣かされました」
「……sorry」
「怖かった…んです」
「悪かった」
素直に謝罪の言葉を口にした自分に、政宗自身が一番驚いていた。
そして気付く。相手がだからだと。
真正面から非難されて、怒りどころか満足を感じた。
ここでまだ侍女として畏まるような女なら、政宗もここまで追いかけてきたりしない。
「お前は、俺の臣下じゃねぇ。……そうだな?」
「え……?」
「俺が忘れてるのはお前だ――そんでお前が命がけで惚れてる天下一のcool-guyってのは記憶を失くす前の俺だ。違うか?」
ぽかんと見上げてきたは、すぐに顔を歪めて笑った。
その泣き笑いのような顔に、胸がかき乱される。
「そんな自信たっぷりに、自分で言いますか、普通」
「Ha! 生憎、性分なんでな」
「しかも悪びれないし。もっと申し訳なさそうに言ったらどうですか――私のこと忘れてる癖に」
肯定といえる言葉にじっと見つめ合って数秒、は真剣な顔で口を開いた。
「政宗様、私はもう逃げません」
「……そりゃ、一体何からだ?」
「全部です。貴方からも、自分の気持ちからも。それから……変えられない事実からも」
そう言いきった瞳が、意思を反映するかのように僅かな月明かりの中でゆらりと揺れる。
まるで昨日見た紅蓮の炎のような輝きを灯して、政宗は衝動に抗わずその体を抱き締めた。
反射のように強張った華奢な体を、柔らかく……けれど想いのままに強く抱く。
そうして、ふわりと強張りが解けたに愛しさが募った。
「――、俺は決めたぜ」
耳元にその言葉を落としてから、懐から取り出したものをの髪の結び目に巻きつける。
僅かに体を離して見やれば、赤い髪紐は質素ながらもよくよく彼女に似合っていた。
それの意味するところは、つまり。
ゆっくりと一つ瞬きして、政宗は間近から惹きつけられてやまないその瞳を見つめた。
「忘れた記憶を……お前を、取り戻す」
断言すると、ゆるゆると見開かれるの瞳に喜色が混ざり、切なげに撓む。
そっと伸ばされた手が自身に飾られた髪紐へと辿り着き、その瞳が水分を帯びた。
「それが貴方にとって辛いことでも、ですか?」
「Ofcause. 俺も逃げねぇ……お前が俺に誓ったように、な」
政宗が口の端を上げて言えば、もつられるように微笑んだ。
「それじゃあ、覚悟してくださいね」
「preparedness?」
「私だって、思い出して欲しいんです……私も貴方を取り戻したい。だから……」
今にも泣きそうな癖に、誤魔化すように悪戯っぽく瞬いた瞳に、既視感を感じた。
「これからは遠慮無しでたっぷり荒療治してあげますので、そのおつもりで」
「……オイ、前の俺は、お前だけは敵に回したく無ぇとか何とか言わなかったか?」
「……さぁ、怖い女だとかは言われたことありますけど?」
「Ha、どう違うんだよ」
「私に聞かないでくださいよ」
冗談めかした応酬。
そして子供っぽく頬を膨らませたの顔に政宗が思わず笑い声をあげれば、一瞬怒ったように眉を吊り上げた彼女も我慢できずにふき出した。
二人して笑い合って、そんな時間がひどく懐かしく尊く感じる。
「……It is a strange feeling.」
「え?」
「何でもねぇ。――さて、そろそろ行くか。あんまのんびりしてっと、喜多が斬り込んで来かねねぇ」
「まさか」
「いや、喜多はそういう奴だ」
断言すると、はうーんと唸ったかと思えば「そうかもしれないですね」と言ってくすくす笑う。
それだけのことで、政宗の心は暖かく浮上する。
「政宗様?」
一瞬呆けていたのか、小首を傾げているに柄にも無く狼狽して、政宗は誤魔化すように足を進めた。
「なんつーか、お前とこうしてると、"lover"っつーより"friend"って感じだな」
「…………」
「?」
場凌ぎの言葉に返事が無いのを不審に思って振り向けば、今度はにっこりと笑ったが何でもないと言って政宗を追い越した。
しかし、ふと立ち止まってこちらを振り向く。
「政宗様」
「Ah-nn?」
「忘れものです」
そしてとたとたと政宗の目の前に戻って来て袖を引き寄せ、軽く触れた柔らかな温もり。
「ッ………!!」
ほんの一瞬触れただけの口付けは信じられないくらいに甘く感じられて……百戦錬磨の筈の政宗の思考を停止させるのには十分だった。
「――私は前の貴方に言わせると『筋金入りの負けず嫌い』らしくて、やられっぱなしっていうのは性に合いませんから」
赤くなりながらも綺麗な笑みさえ残してさっさと階段を下りて行った……
その後ろ姿を呆然と見つめ、政宗はようやく我に返って彼女以上に赤くなっているであろう自分の顔を腕で隠した。
冗談では無い。こんな所を誰かに見られれば、威厳も何もあったものではない。
「やってくれるじゃねぇか……!」
苦々しげに吐き捨てた傍から笑いがこみ上げて来て、政宗は口元を引き上げた。
まさか独眼竜と呼ばれる自分が、事もあろうに女から唇を奪われる日が来ようとは夢にも思わなかった。
そんな女が居るなどとも。
――おもしろい。それでこそってな。
不快とは程遠い感情に笑みを深める。
ふと見やった空には、唯一二人のやり取りを見届けていた弦月が浮いていた。
「見てろよ、必ず取り戻してやる…!」
喧嘩を売るように啖呵を切って、政宗も天守を後にした。
もう二度とあの手を離さないように、を追って。
080907
CLAP