――<……>
城内では、なるべくその手の気配には鈍感になるようにしている。
鋭くなってしまった感覚は、一介の侍女にしてはあまりにおかしいからだ。
だから、最初にその声を聞いた時も、幻聴かと思ったくらいだった。
――<ちょっと、無視しないでよ。俺様傷付いちゃうじゃないの>
「! 佐っ………………佐助…?」
その彼らしい物言いでようやく本物だと気付いたは、はっとして周りの気配を探り、そしてそれくらいのことは既にこの忍が確認済みに違いないと思い至って呟くような声に切り替えた。
「ちょっと……何してるの、こんな所で」
例によって茶室で一人茶道の自習中だったは、独り言を呟いているような体裁で手を止めずに問いかけた。
――<それは俺様の台詞だと思うけど? まさかホントに伊達に居るとはね>
明らかに怒っている声音でのその言葉に、はぐっと詰まった。
堺の近くで、父信玄からの伝言――伊達に赴いても良い――というのを伝えてくれたのは佐助だったが、それでも本当に行くとは思っていなかったらしい。
「いろんな人に背中を押して貰って……ね」
どういう心境の変化だと尋ねる忍に、はそう答えて苦笑した。
――<全く……風来坊の旦那も余計なことしてくれちゃって>
慶次と千代は勿論だが、元親や元就、市や長政、そして佐助も含めた武田の人間も、今まで接してきた人たち全てが今のになる為に背を押してくれたのだと……そう語るにはこの状況はあまりに相応しくない。
黒脛巾が守るこの小田原城に忍び込めただけでも大したものだが、と居ればいつ疾風に気付かれてもおかしくないし、こんな状況で見つかるのはあまりにもお互い危険だった。
「とにかく、今は早く行って」
――<そんなこと言ったって……見たまんま、大将に報告しちゃってもいいの?>
それは大いに困る。
はため息をつくと、近づいてくる喜多の気配を感じて短く告げた。
「明日の夜、城下の外れ……港の西で」
言い終わるのと、佐助の気配が消えたの……そして喜多が障子を開けたのは同時だった。
「……?」
佐助は優秀な忍だが、彼の誤算は喜多が武芸に長けた女性だと知らなかったことだ。
「……お喜多様、休憩をいただけませんか」
申し訳無く思いながらも苦笑して、は言った。
喜多に話せば、いざという時に彼女まで巻き込みかねない。
けれど、喜多も女中頭という立場上、話も聞かずに見逃すことはできないだろう。
「小十郎様に、お話してきます」
だから、喜多が信頼できる人間に話すと示して、それで許して欲しいと暗に頼んだ。
数秒逡巡した喜多は軽いため息一つで受け入れてくれたらしい。
「片倉殿ならこの時間は畑に居るでしょう。軽食でも持って行っておあげなさいな」
「……そうします。――ありがとうございます、喜多さん」
言葉の裏にゆっくりして来ても良いという意味を読み取って、は頭を下げた。
仕方がないと微笑んでくれる喜多の前を退いて、台所へ向かう。
奥台所を借りて即席のおむすびを作りながら、それにしても、と深い溜息をついた。
落ち着いたら父に手紙を書くなりして近況を報告しようと思っていたが、あまりにも怒涛の出来事が続いたのでつい疎かになっていた。
この状況をどう説明しようかと気が重かったのも事実だ。
とは言え、は仮にも武田で将に付いていた姫だし、何より家族として心配をかけているのだからきちんと連絡しなければならない。
どう言い訳しよう……
あの場に現れたということは、佐助には既に侍女として働いていることはバレているだろう。
だからと言って、それを信玄にまで報告されれば……
「えー…と……」
考えて、あまり明るくは無い想像に顔を引き攣らせた。
ただでさえ、信玄は政宗に対して厳しい。
同じく天下を競う敵大名なのだから当然だし、政宗は息子も同然の幸村の好敵手だ。
は父にとってのそんな相手の元にのこのこ身を寄せている訳だが、娘として可愛がって貰っている自覚はあり、だからこそそのが伊達で侍女として遇されていると知れば、あの父のことだから静かに怒ってこの前のように無理やり連れ戻すくらいはやりそうだった。
まして、政宗のに関する記憶だけが失われていると知られるなど、論外である。
「どうしよう……」
いくら考えても妙案は思い浮かばないが、目下の問題はそれ以前――
どうやって明日の晩に城を抜け出して佐助に会うか、である。
疾風に頼んだとしても、誰にも知られず……というのは難しいだろう。
ここは申し訳無いが、目溢しが可能な人に相談するしかない。
よし、と気合を入れて最後のおむすびを完成させ、お茶とセットで包んで、は縋るような思いで小十郎の元へと向かったのだった。
「中国・四国の攻勢が強くなってね、明智は九州に留まって、お互い牽制してるって話だ。松永久秀は一時本拠の大和に戻ってるらしいけど、こちらさんも織田の使者が出入りしてるだとか、豊臣と通じてるだとか、とにかくキナ臭い」
「大和に織田と豊臣が……それじゃあ、今の越後には?」
「前も話しただろ? 松永の配下についてる三好の三人衆ってのが残って、代理でまとめてるらしい」
「それで松永久秀本人は中央で姦計を巡らせてるってわけ?」
「恐らくは。まーったく、つくづく嫌な男だよ。正直、戦闘狂の明智より厄介だね」
約束の夜、示した場所で合流したと佐助は、波の音が気配を隠す林の中で向かい合っていた。
すぐ後ろにはここまで連れてきてくれた疾風が控えて周囲の気配を探っている。
伝説の忍と猿飛佐助の二人が居るのだから、誰か近づけばすぐに分かるというものだ。
は二人ともに絶対の信頼をおいている。
他の耳は気にしなくても良いこの状況で顔を合わせてからまだ僅かだが、互いに何を言うでも無く各地の情勢の話が始まって、今に至る。
「松永久秀……いかにも悪の親玉って感じの人ね。将軍家と魔王に仕えてた人なんでしょう?」
「いや、まあそうなんだけど、一口に仕えてたって言っていいのかどうか。裏切ることに些かの後ろめたさも無いし、武人にありがちな名誉第一の思考も無いから裏切り者のレッテル貼られてもけろりとしてるよ」
この時代において、それは相当の変人と見て良いだろう。
民の為という大義名分を掲げて天下を目指す信玄や政宗でさえ、卑怯者や臆病者と言った謗りを受けるくらいなら相応の妥協はする。
「名誉も顧みないなんて……何が目的なの」
「さぁね。天下か、金か、戦いそのものか―――風魔の旦那なら何か知ってるんじゃないの?」
突然の後ろに話を振った佐助だったが、振られた方は視線さえ向けなかった。
は苦笑して向き直る。
「佐助、彼は黒脛巾の疾風――私の友人なんだから、もう名前間違えないでよ?」
「あ~……こりゃ失礼、疾風の旦那」
「……ああ」
微妙な表情と声でのやり取りはどういう感情が含まれているのか知らないが、かつて敵として戦ったことのある二人は、当然ながらそんなに仲が良い訳では無いようだ。
は微かに笑うだけに留め、話題を戻す。
「疾風は、松永久秀について何か知ってる?」
「――北条に居た頃には聞かなかった名だ。だが今は、殿の命で逐一動向を見張っている。先日戻った者の話だと、大和の城に籠ったまま、大勢商人を呼んで壷や茶器を買い漁っているとか」
「つ…壷に茶器……?」
「確かに松永は茶人としても著名らしいけど……」
この状況で?と、や佐助で無くとも正気を疑いたくなるのは当然だろう。
だがこちらは、松永久秀という人物の人となりを知らない。
一見馬鹿げた行動にしか見えなくても、その裏に目的や意味が無いとも限らないし、何よりもあの軍神を破り、狡猾な手段も厭わない相手だ。
「……結局、聞けば聞くほど訳の分からない人ってことね」
「あはは、大将や軍神の旦那も全く同じことを言ってたよ」
「父上たちが……?」
あの稀代の武将たちがそう言うならば、それはつまり……
「動かざること山の如し――ね?」
「流石は武田の虎姫」
嬉しそうに笑う佐助に、も苦笑した。
信玄は以前から、中央では織田信長を殊更警戒していた。
その織田のここ最近の静けさや、松永久秀が絡んできていることは、何かの前触れには違いない。
けれど、未だ五里霧中で、敵の目的も何も見えない状況……
功を焦って下手に動くよりも、今は動く時に非ず――武田信玄ならそう判断するだろうという予測は間違っていなかったようだ。
松永自身も大和の城に籠っているということはしばらく動かないだろう。
こうなれば、松永と連動している九州も恐らく動くまい。
九州と睨み合っているのは、長曾我部と毛利。
あの元就のことだ……九州は殊更惨い壊滅状態だったというから、そこを利用して九州諸家の残党を引き入れるなど、戦う前に様々な策を仕掛けるに違いない。
――越後も、九州も今は表立って動かない。
「そんじゃあ俺様からも質問。……こうなった今、伊達はどう動く?」
「………そう易々と武田に教えると思うか?」
声だけは飄々と質問した佐助と、静かに返した疾風の視線が交差する。
間にが居る状態で得物を抜くとは思わなかったが、険悪には違いないその空気に思わず溜息が零れた。
「伊達も動かないと思うわよ――多分ね」
代わりに答えたに、忍二人の視線が向けられた。
ここ数日侍女として政宗の傍に居て、分かったことがある。
今の政宗は、が想いを育んだ政宗とは別人である――けれど、記憶が無いというだけで、彼はやはりが良く知る『伊達政宗』だった。
「軍神も居ない、まして松永久秀も居ない今の越後をただ落とすだけなら、伊達にとっては簡単だけど……その先を見越せない人じゃない」
常に何手も先を読んで、自陣の被害を最小限に止める為に事前にあらゆる手を講る――そこで初めて行動するのが名将というものだと、信玄や勘助から教わった。
政宗の場合、その行動が派手なので霞みがちだが、殊更吟味して練りに練るのはあの異常なまでのこだわり性と臣下に対する態度を見ていれば自ずと分かる。
それに、無鉄砲であることは確かだけれど、人一倍民のことを気にかけるのも知っているから……
「……相変わらず、龍の旦那のことはよくお分かりで」
ひょいと肩を掠めた佐助の言葉にギクリとしたが、それがただの揶揄なのか当て擦りなのかは判別できず、は平静を装って尋ねた。
「佐助が伊達を快く思わないのは敵なんだから当たり前だけど、……父上にはどう報告するつもり?」
「どうも何も。我らが虎姫は、伊達で侍女として扱き使われてました――ってちゃんと報告しますよ。俺様もお仕事だしね。――ま、大将も旦那も黙っちゃいないと思うけど」
黙ってはいなくてもそれだけならばまだマシだろうか……佐助の言葉では政宗の記憶の事まで知っているのかどうかは定かでは無く、は更に探りを入れてみる。
佐助の言葉に殊更絶望したように、深々とため息をついた。
「はぁ……なんでバレたんだろう……」
佐助は呆れたようにいつもの口調で返す。
「なんでって、そりゃバレるでしょう。が自分からお茶なんてやってりゃ、ね」
「……どういう意味?」
「甲斐では馬と弓ばっかだったからねぇ」
煙に巻かれそうになるところを踏みとどまって、溜息をつく。
「一体どこから見てたの? 誰にも気付かれて無いってことは、あの人の側には近付いて無いんでしょう?」
「当たり前ですよ。竜の旦那や右目の旦那に見つかったら、またを連れ戻しに来たってバレるでしょ。そう何度も竜の逆鱗に触れたく無いって」
軽く目を瞠るに、佐助は意地悪く笑って言う。
「竜の旦那の侍女ってのは、カマかけてみただけさ。簡単に引っかかってくれた姫さんには悪いけどねー」
ちっとも悪いと思ってる風では無かったが、それでようやく確信を持てたも内心で大きく安堵した。
佐助は、政宗の記憶のことまでは知らない。
流石に小十郎の緘口令だけあって行き届いているようだ。
「それにしても、何で侍女なのよ? 俺様、その答え如何によっては力づくでも連れて帰んなきゃなんないんだけど」
後半は真剣な声音で告げた佐助はその気配さえもピンと糸を張ったものに切り替えて、それに反応した疾風までが腰の大手裏剣に手を置く。
は本日何度目になるか分からない溜息をついて二人を押し返した。
「やめて、二人とも。最初に言っておくけど、佐助――私は、帰りたくない」
帰れないでも、帰らないでも無く、帰りたくない――子どものように自分の意思を明確にする言葉に、佐助は目を見開いた。
思えば、佐助の前でこんな風に子供じみた本音を見せるのは初めてかもしれない。
甲府で散々喚き散らしたところを見られているので今更かもしれないが……少なくとも、正気の状態では初めてだろう。
佐助も、だから驚いているのかもしれない。
わずかに顔を顰めて言った。
「それは、武田を捨てて伊達を取るってこと?」
「違うわ、そうじゃない」
ゆっくりと首を振って否定し、はまっすぐに佐助を見つめた。
政宗の記憶のことは明かせないが、ここに居ることは認めて貰わなくてはならない。
佐助がにとって大切な人であるからこそ、認めてほしいと――思う。
「私が武田の娘であることも、伊達とは敵だってことも、忘れた訳じゃ無い。勿論、私のせいで武田に迷惑がかかることだけはしたくないし、いつまでもここに居られないのも分かってる。だけど、今は……」
その時のことを思って苦しくなる胸を押さえるに、佐助は深々と溜息をついた。
「………あー、もう。それで何で侍女なのさ? これで奥なり寵姫なり、竜の旦那がちゃんと遇してたら武田としても動きようがあるってのに」
予想外の言葉に、はぱちりと瞬きした。
そして顔が歪むのを隠す為に声を上げて笑う。
「あははは、それは無いわよ、佐助。私たちはそういうのじゃ無いもの」
以前でさえ、慶次に嘆かれるような色気のない関係だった。
まして、今は政宗の中に『』という個人さえ居ない。居るのは小十郎後見の不審な侍女だ。
「それに、侍女にしてくれって頼んだのは私なの。……これでも結構顔が知られちゃってるから軍に戻るのは無理だし、正体を隠して生活するには奥に居る方が都合良いと思って」
完全に嘘では無いことを体良く繋げて話すそれを疑ったわけではないようだが、佐助は不機嫌そうに眉を吊上げた。
「そういうんじゃ無いったって……は……好きなんだろ?」
一瞬真剣に告白してくれた幸村の顔が過ったが、目を閉じてゆっくり一つ、頷いた。
「だったら…! ……真田の旦那には悪いけど、俺様はのあんな顔はもう二度と見たくないよ。相手がムカつく相手でも幸せになってほしいと思う。独眼竜だっての気持ちを知ってんだろ? だったら……!」
「――――猿飛佐助」
激した佐助の言葉を止めたのは、普段寡黙すぎるほどの疾風だった。
「俺も、には幸せになって貰いたい。苦しめる相手は例え誰であろうと消してやりたいと思うこともある」
ははっとして疾風を見上げたが、その表情は兜に遮られて見えなかった。
「……だが、いまを苦しめているのは、お前だ」
その言葉にぴくりと佐助も反応する。
三人の視線が重なり、はそっと目を閉じた。
「ありがとう、二人とも。でも……私、幸せだよ…?」
自分の胸にもう一度確認して、瞼を上げて苦笑する。
「傍に居て、見ていられる……声を聞く……何気ないことを話す……一緒に笑う。すごく小さなことに思えるかもしれないけど、私にとっては何より大切なことなの」
ふとした時に見せてくれる笑み、主従としてでも共に居られる時間、……記憶が無くたってやっぱりこの人が好きなのだと……何度思わされただろうか。
政宗の気配を感じて、鍛錬している声が聞こえてきて……そんなことでふわりと幸せを感じられるなんて、我ながら健気だなと思ってしまう。
「何にも知らずに、人をこんな気持ちにさせてるんだから……ずるいよね。ホント……悔しいくらい」
こんな時まで負けず嫌いな自分を笑いながらも、は懐から出した文を佐助に渡した。
「何て報告するかは佐助の自由だけど、これだけは父上に渡して。……佐助も、今は目を瞑ってくれると嬉しい」
しばらく無表情にその文を眺めていた佐助は、やがて特大の溜息をついてそれを懐にしまった。
「あー、全く割に合わないね! ここまで言われちゃ、瞑るしかないでしょ。……幸い、しばらくはどこも動きそうにないし、それに伊達は……番犬多すぎだっての!」
スッと佐助が投げた手裏剣が小気味よく刺さった大木――その影から出てきたのは、きれいに気配を消していたよく見知った女性だった。
「流石は武田の忍殿」
「まつさん…!? どうして……」
姿を現したまつは、右手に持った薙刀を身軽にトンと地面に置いた。
けれど、その表情は戦場のように凛々しいままだ。
「黙ってついてきたことは謝ります。なれど、片倉殿に頼まれた上は――……いえ、それが無くともこのまつ、我が友・の為には手練の忍びと言えど一戦構える覚悟なれば!」
小十郎に頼まれたというのは意外だったが、この場合は信用していないというよりも、心配してくれたのだろう。
優しすぎる兄代わりと友に苦笑するとは逆に、佐助は疲れたように溜息をついた。
「だから、闘る気は無いですってば。疾風の旦那と前田の奥方相手に俺様一人ってのは分が悪すぎでしょうが」
そのやる気の無さすぎる台詞が懐かしくて、は苦笑して告げる。
「佐助、誰か忘れて無い? 二対一じゃなくて、三対一でしょ?」
「……ああ、はいはい。そうですね。……もう、どうでも良いですよ。俺様はさっさと帰って今度こそ絶対休み貰うんだから!」
「ふふ……その手紙に、佐助に休みをあげてって書いておいたわよ」
「えっ、マジで!? 流石は! 俺様大感激!!」
異常に喜ぶそれがあながち芝居っ気だけでは無いのに笑って、は言った。
「その代わり、追加で父上と…幸村に伝えて。――私はもう逃げないって。そう、決めましたって」
「――御意」
苦笑した佐助は仰々しく膝を折って承諾し、そして一度だけ辛そうな苦笑を残して……そのまま黒い羽を残してかき消えた。
それを見送ったの背後で、疾風が踵を返した気配が伝わる。
佐助の気配が完全に感じられなくなって視線を落としたは、ゆっくりと振り返った。
「疾風、ありがとう」
まつが合流するまで――それが元々小十郎の指示だったのだろう。
姿を消そうとしている疾風の背中には告げる。
「礼には及ばない」
「うん……でも、一つだけ聞かせて」
どれだけ友として信じていても、馴れ合っても、これだけは確認しなければならない。
僅かに緊張しているの横にまつが歩み寄り、肩に温かな手が置かれた。
「わたくしも聞いてしまったからには確かめとうございます。――疾風殿、先程武田の忍に言ったことは、正気にございますか?」
やはりまつも聞いてしまったようだ。
それを代わりに口にしてくれるのは甘やかし以外の何ものでも無いけれど、今はそれに笑って苦情を申し立てる所ではない。
――を苦しめる相手は例え誰であろうと消してやりたいと思うこともある……そう言った疾風のその言葉。
例え誰であろうと……と。
とても冗談には聞こえなかったし、疾風の職務を考えれば笑い事にはできない。
「……友である私の為に、主を殺すつもり?」
実際にそこまで考えた台詞ではなかったかもしれない。
ほんの勢い言葉で冗談だったのかも。
それでもその言葉だけは、捨て置けなかった。
「……誰のことか、自覚があるならいい」
を苦しめる相手が誰であるのか。
こちらの緊張も他所に、疾風はそう何でも無いことのように答えて、安心しろ、と言い置く。
「俺も、そうしたらが余計に悲しむことくらい、分かるようになった」
言うだけ言って何の痕跡も残さずに忽然と消える。
疾風が居たことさえ夢だったのでは無いかと思われるほど何も無い空間を見つめて、数秒。
虚を付かれて固まっていたは、ようやく意味を理解して今度こそ傍らのまつに柔らかい笑みを向けた。
「――まつさん。私って、本当に幸せ者ですよね」
「……まあ、否定は致しませんが。無欲なのはの美徳なれど、殿方のことではもっと贅沢になるべきだと、わたくしは思いまする」
どこか憤慨したように言う友に笑って、は歩き出した。
「結構贅沢だと思いません? 甲斐の若虎を袖にして、独眼竜のところに押しかけてるんですから」
冗談めかして言えば、まつも横に並びながら目を瞠った。
「まあ! そう言われてみればそうですけれど……なれど忘れられても傍に居るだけで幸せとは……余りにも健気ではありませんか!」
「……私全然気付いてませんでしたが、いつから居たんです?」
「最初からです! 気付かなかったのは、二人も忍が居るからといってが油断していたからでしょう」
全く返す言葉が無い。
最初からということは全て聞かれたということである。
改めて口に出されると何やら本当に恥ずかしいことを喋ってしまった、と今更ながらに赤面した。
城までの道のりはまだしばらくかかるし、こうなったら話題を変えるに限る。
「……油断してたのは確かですけど、それにしてもまつさんも一段と腕を上げましたよね」
「当然です! 加賀に戻っている間も鍛錬はかかしておりませんよ。ますます犬千代様の為、そして伊達家の天下の為に働く所存でございます!」
脳裏に、戦場で薙刀をふるっているまつが甦った。
そう、まつは凄腕の薙刀使いである。
「そうだ……そうですよ! まつさん! 私もね、薙刀少し使えるんです。今度是非お手合わせしてください!」
自然と沸き立つ心のままに笑って言えば、まつも不敵な笑みを見せた。
「賤ケ岳の再戦でございますね。――望むところ! わたくしも虎姫殿とお手合わせ出来るは光栄というもの……今度こそ全力でお相手いたしまする!」
「私だって、あの時の借りをお返しします。もう手加減なんてさせませんから!」
笑い合って、共に肩を並べて歩けるのは信じ合っているからで……
何も聞かないでくれるのは、友としての優しさだと分かっている。
辛いときも哀しいときも、こうやって一緒に居れば笑うことができるような関係。
いつか政宗とも、こんな風に過ごせる日がまた戻るのだろうか。
家族に頼んで僅かに得られた、この自由な時の挟間に――
小さくてもには何よりも尊い……愛しい幸せの欠片を集めて。
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