平素、政宗は夜遊びや夜更かしはしても、朝寝坊だけはしたことが無い。
前日どんなに遅い就寝でも……例え徹夜だったとしても、毎朝決まった時間に起きて活動を始めるのは意外に几帳面な性格の表れだった。
この日も、政宗は決まった時刻に起床し、日記をつけるなどの日課をこなした。
だが、いつもと少し変わっていたのは、起きてすぐに自軍の忍を呼んだことだった。
「小十郎の弓隊長屋に居る、っつー女を呼んで来い」
見たことの無い顔だとは思いながらも、寝起きの頭で深く考えず、簡単な命令を告げた。
まさか、それを後悔するなどとは、その時は欠片も思わなかったのだが……
「――――殿」
それは、政宗が朝食をとっている時のことだった。
直前まで気配など感じなかったのに、突然障子ごしに声を掛けられる。
「……アァ?」
政宗の周りには、食事中に由無く声を掛けてくるなどといった無粋者は居ない。
よほど火急の報せかと思ったが、違和感に首を傾げた。
障子に映った影はいびつな形をしている。
そして、全く違う種類の気配が二つ。
「何の用だ」
不快を隠さずに言うと、音も無く障子が開けられ、何かを抱えた黒ずくめの男が頭を下げた。
「先ほど御下命あった女を連れて参りました」
肩に抱えていた何か――それを男は無造作に、ドサリ、と室内に投げ捨てた。
畳の上に広がった黒い髪――それが良く知った娘であることに気付いた政宗は、思わず立ち上がった。
「…!!??」
食事途中だった膳が派手な音を立てて引っくり返ったが、それどころではない。
政宗は慌てて駆け寄り、意識の無いその体を抱き起こす。
外傷は無かったが、顔色が悪く、ぐったりしている。
「! おい、っ! チッ……小十郎! 小十郎はいねぇかっ!!」
軽く頬を叩いたが反応の無いに顔を歪めて、廊下に向かって声を張り上げた。
二日前に彼女の住処で会った時には終始明るい色を湛えていた瞳が、今は力なく閉じられている。
混乱と焦燥感を紛らわすように頭を掻き、微動だにしないまま跪いている忍を射殺す勢いで睨みつけた。
「一体どういうことだ! こいつに何をしやがった!?」
しかしその追究は、誰かが廊下を走ってくる音に遮られた。
すぐに現れた小十郎は、室内を目に止めた途端大きく目を見開く。
「殿!? 政宗様、これは一体……殿と黒脛巾(くろはばき)の者がなぜここに…?」
「さぁな、とにかくすぐに医者呼んで、隣に布団敷け」
力の無いの体を横抱きに抱え上げ、政宗は隣室へと足を向けた。
いまだ動かない忍に叩きつけるように命じる。
「お前も来い!」
「――は」
素直に従ったその声は、無機質で感情を窺わせなかった。
「トラウマになりそうです」
昼近くになってようやく目を覚ましたは、政宗が事情を説明すると不機嫌にそう零した。
その日の朝、を起こしたものは、いつもの起床を告げる鐘では無く、冷やりとした第六感的な感覚だった。
はっと目を覚ますと、目の前に見たことも無い黒ずくめの男。
「っ……ぇ…!?」
寝惚けた頭は一瞬にして覚醒したが、それを通り越して混乱の極致に達した。
驚きやら恐怖が麻痺したような頭で、男が仰向けに寝ている自分の上に跨った状態だということに気付く。
「――だな?」
突然名を呼ばれて、は更に目を瞠った。
喉元に冷たい感触を突きつけられる。
刃物特有の、痛いような鋭い冷たさ――
途端に、ざっと血の気が引いた。
逡巡する間も無く反射的に肯定する。
「そぅ…よ……」
「共に来てもらおう」
男は抑揚の無い声で淡々と告げる。
一体この場で何が起こっているのか、にはさっぱり分からなかった。
ただ単純に、自分に刃を向けている目の前にいる男は敵なのだと簡単なことだけを思う。
敵ならば無闇に言いなりになってはマズイだろうが、頷かなければこの場で殺されるかもしれない。
「あ…なたは、誰……?」
次第に現実味を帯びてきた恐怖に震え始めた自分を叱咤して、は何とかそう問い掛けた。
男はそれに対して無反応で返し、首元の刃物を更に強く押し当てる。
そして、腹部に鈍い痛みが響いた。
殴られたのだ――気付いた時には既に遅く、は意識を手放した。
「――それで、気付いたら、ここに寝ていたという訳です」
元の時代では絶対にお目にかかれないような恐怖体験を話し終えたは、ちろりと半眼を政宗の後ろに控えている黒ずくめに向ける。
「黒脛巾組――でしたっけ。伊達家に仕える忍隊だっていうのは知ってましたけど、まさかあの状況でそれだなんて……味方だなんて思えません」
「……………」
の至極尤もな正論に、黒ずくめは無表情で沈黙、の枕元に座った政宗は渋面を浮かべていた。
「どこで間違えたら、ただ政宗さんに呼ばれただけの私の身にあんなことが起こるんですか?」
「……………」
相変わらずの沈黙に、は溜息をついて自分の体を抱きしめた。
殴られた場所はまだ痛いし、痣もしばらく消えないだろう。
何よりも、あの時のことを思い出すと本当に……
「…本当に……怖かったんですから……」
思わず零れた自分の言葉に、それが明らかな弱音だと悟っては自分の口を塞いだ。
怖かった……それは本音だし、今回のことに関しては十分に文句を言う資格もあるけれど、こんな弱音は伊達軍の一兵士として身を置いている立場ではただの甘えだ。
政宗の前だから油断した――その事実に、顔を顰める。
「……」
俯いたに、政宗の声が掛けられた時だった。
はっと反応した政宗が刀を抜いて庇うようにを引き寄せるのと、轟音が響いたのは同時だった。
何と床下から畳ごと巻き上げた竜巻(にはそう見えた)が、突如吹き上げ、黒ずくめの男を吹き飛ばした。
「…っ頭領! テメェ、何度言わせたら気が済みやがる!」
間近からの政宗の怒声に顔を上げれば、の視線の先で、庭に叩きつけられた黒ずくめの上に片足で乗った――ヤ●ザの大親分といった風格の老人が佇んでいた。
頭領と呼ばれた大親分は、軽い身のこなしで、なんと一跳びで庭からたちの目の前まで跳躍した。
「若っ! 事情は小十郎殿からお聞きしやした! あっしの部下の不始末、真に申し訳ごぜぇやせん!! そちらの娘さんにも申し訳ねぇ……こうなったら、あっしの指で……」
「ゆっ…指……!?」
畳に左手をついて懐から出したドスを掲げた頭領に、は思わず上ずった声を上げた。
どこの任侠ドラマだと頭が混乱する。
「分かったからStopだ! 頭領が指つめたってどうしようもねーだろ」
「しかしそれでは仁と義に悖りやす!」
「あー……それよりも、そいつは一体何なんだ?」
慣れたように呆れて言った政宗は、痙攣しながらようやく起き上がった黒ずくめを指した。
今日の騒動の元凶――そもそも、数人居る政宗付きの黒脛巾ならば政宗の命令を穿き違えることはないだろうし――いやそもそも、普通の忍でさえあれば、あんな曲解した行動に出なかった筈だ。
会ってからこれまで相変わらずの無表情を通しているこの忍は普通ではない……何せ、これだけの騒ぎになっても、まだ自分が悪いとは気付いていなさそうなのだから。
頭領は一先ず彼なりの"仁義"を諦めたらしく、政宗の言葉に深く溜息をついた。
「近頃お恥ずかしいことに我が黒脛巾は人手が足りてねぇ次第で……そこでウチの里から腕利きを連れてきたんですが……」
「腕利き? こいつが?」
「腕はあっしが保障しやす。ただ、十年ほど前からの記憶を失っている天涯孤独の者でしてな……常識というか、感情と言うか、そういったものが若干人よりも欠けているのが難点で……いくら人手不足とは言え、こんな半端もんを若に付けたのはあっしの不徳! やはりこの指で……!」
「だからやめろっつってんだろーが!」
頭領の手からドスを奪う政宗を横目で見ながら、は問題児の忍に目を向けた。
(十年前から記憶喪失で天涯孤独……)
自分と同じような符号に、思わずまじまじと見つめてしまう。
時代が違うとは言え、一歩間違えればも、こんな風に感情を閉ざしてしまったかもしれないのだ。どうしても他人事だとは思えない。
「……………そいつの名は?」
「我が里はお役目に付く為に里を出るとき、一旦名を捨てます。仕える主に名付けていただくのが慣わし――どうか若、こんな半端もんですが、名前を付けてやってくだせぇ」
「そうか、そうだったな……………オイ、」
「!…はい!」
ぼんやりと聞いていたは、突然呼ばれて顔を上げた。
政宗のいやに綺麗な笑顔と出会う。
「こいつの名前を付けてやれ」
「……はい?」
「若、それは……」
「こいつをしばらくお前に預ける。各隊の雑用からは外すように小十郎に言っとくから、せいぜいまともに働けるように仕込んでやれよ」
呆気に取られていたは、はっとしてぶんぶんと首を振った。
「そんな、私には出来ません! 大体、伝令隊の私にどうして……」
「お前なら出来るだろ?」
意地悪く笑ったその顔は、信頼しているというよりも、「この独眼竜を試して、伊達三傑で遊ぶような女だからなぁ」というような嫌味を伴っていた。
ひくり、との頬が引き攣る。
「それに、黒脛巾は元は伝令隊の補佐の役割も持ってる。腕は確からしいし、こいつが居ると戦でも何かと便利だろ?」
「便利って、そんなお手軽に……」
「任せたぜ、?」
庇われた体勢のままだったのですぐ傍からニヤニヤと見つめてくる政宗に、は主従の力関係をこの時初めて悔いた。
「御意……」
項垂れたが、これからが本当の恐怖の日々だと気付くのはまだ先のこと――。
060816