生温かい風が吹き、無造作に括っただけのの髪を乱した。
 雲ひとつない蒼穹の下、じっと自分の手を見つめる。

 ――甲斐の虎は我々が捕らえましたよ。

 耳元に蛇のような毒が蘇り、ギリリと奥歯を噛み締める。

 今まで何度も、この手は……この体は、自分の危機や感情に応じて一瞬にして場所や時を越えてきた。
 しかし今、実の父の危機にも関わらず、消えもしなければその兆候である光とやらも発しない。

 自由に空を飛べる翼があれば――時空をも飛んだ不思議な力を自在に操れたなら。

 考えて……見つめていた掌を握り、ふるふると首を振った。
 無いものねだりばかりしていても仕方ない。

 妙に不安感を煽るような風に顔を上げて西の空を見つめていたは、ふと袴を引かれて視線を落とす。
 農民の子だろうか、質素な野良着を来た少女が下からを見上げていた。

「姉ちゃんもお侍さまけ?」

 不安に曇った目で見つめられて、は僅かに目を瞠った。

 まだ自分で鍬を持つことも出来ないような小さな少女だった。
 北の守りの為に小次郎と共に米沢に残った友人である少女をどうしても重ねてしまう。

「姉ちゃんも戦するんか? オラたちの畑を壊すんか?」

 一瞬言葉に詰まったは、目を閉じてその言葉を噛み締めた。
 畑を壊すということは、農民である彼らを殺すも同義だ。
 そしてひと度戦になれば、大なり小なり、傷付くのは兵だけでは無く、戦場となった場所で暮らす人々も同様である。

 率直に自分たちを殺すのかと聞いてくる少女に、は片膝をついて視線を合わせた。

 この無垢な瞳の前に、嘘などは付けない。
 たちは、これから戦を仕掛けに行くのだ。

「確かに私も武器を持って戦う。だけど、みんなを傷つけたりはしたくないよ」

 事実とは矛盾していても、それが偽らざる本音だ。

「ひどいことしねぇ…?」

 泣き出しそうな顔で聞いてくる少女をそっと撫でる。
 僅かだけ見えている記憶の奥に眠るもう一人の自分――武器を持って屠り続けていた闇色の部分を押し込めて、は安心させるようににこりと微笑んだ。

「しないよ。傷つけられたりしたら誰だって痛いもんね?」

 伊達軍が小田原を発ってから二日余り。
 情報収集と休憩を兼ねて立ち寄った村で、随行している兵の面々は思い思いに強行軍で疲れた体を休めている。
 子どもたちと遊んでいたの周りには他の村人たちも自然と集まっていたが、少女との会話に、今や誰もが二人に注目していた。

「きっと、もうすぐだから」
「もうすぐ?」
「そう。もうすぐあのお兄ちゃんが、きっと誰も傷つかない…お腹いっぱい食べられる国を作ってくれるよ」

 眼帯したこわーいお兄ちゃん。と教えると、少女はそちらを……政宗の方を見ながらぎゅっとの服の裾を握ったが、政宗がやって来てその小さな頭に手を乗せると、おずおずと顔を出して頬を染めた。

「……兄ちゃん、こわいけど男前だべ」
「HaHaHa! このlittle-ladyは誰かさんと違って見る目があるぜ! なぁ、!」

 その場に笑いが起こり、場が和やかさを増すが、誰もが政宗の強い引力に引き寄せられるかのようにその一挙一動を見つめていた。
 それを十分に分かった上で、独眼竜は自信たっぷりに笑って見せる。

「Ya! この俺に任せときな! すぐに天下なんざ平らげて、泰平の世を作ってやる! 独眼竜の名に懸けて誓うぜ!」
「姉ちゃん……」
「大丈夫。お兄ちゃんは約束を守るから。勿論、私もその手伝いをするんだから、絶対だよ! だから心配しないで。ね、約束」

 政宗という強い光の隣なら、はどこまでも強くなれる。
 浮かべた笑みが功を奏したのか、人々の顔からも不安の色は消えていった。

「――その言葉、忘れんなよ、
「政宗様こそ」

 だけに聞こえるように言われた言葉に、笑みで返した。

 事実、平和な世の中を実現させなければならないのだ。
 それがどんな形であれ、政宗や信玄、心ある武将の手で。

 そうしなければ、天下は最悪の形をもって崩壊する――魔王や明智、松永の手によって。
 死という絶望の底に。

 父の安否に限ったことだけでは無い。
 これは天下の趨勢を決める大戦の始まりだ――

105.風の声

 米沢にて伊達軍と明智・松永軍が衝突した、その後――

 伊達は、生来の本拠地米沢を襲撃してきた明智・松永に対して報復を決め、急ぎ追撃の態勢に入った。
 すぐに伊達忍隊・黒脛巾組らが行方を追ったが、単騎で退却した明智光秀は姿を眩ませ、明智・松永軍はひたすら南へと向かっていた。
 恐らく松永軍本拠の大和・奈良まで追撃することになる――誰もがそう思い、伊達軍は僅か五日間で長期遠征の準備を終えた。

 そしてこの間に、各地へ放っていた斥候隊が次々と新しい情報を携えて帰って来たのである。

 たった数日だというのに、天下は一気に動き出した。



「……大丈夫か、
「――はい、こんな時だからこそしっかりしないと」

 出陣前夜、黒脛巾の報告を一通り聞いた席でのこと。
 その場には政宗、伊達三傑と報告役の疾風、そして慶次とが集まっていた。
 こちらを気遣って声を掛けてくれた小十郎に、は無理にでも微笑んで見せる。
 が武田の末姫であるのは周知のことで、大丈夫というのは虚勢だと誰の目にも明らかだったろうが、わざわざ指摘する者はいない。

 黒脛巾の報告では、武田は山本勘助が語った通り、元今川領であった駿河を豊臣から奪うことに成功していた。
 しかしそれも束の間、その後すぐに信玄が行方不明となり、その隙を突いて動いたのは、なんと尾張の織田信長であった。
 織田は徳川の元忠臣らを煽り駿河を掌握、同時に近江へも兵を向けた。

「信玄公が勢いに乗って近江も落としに行ったってことはないかな?」

 未だ生死も不明の信玄の行動に目を付けたらしい成実の台詞に、はふるふると首を横に振った。
 駿河を落とした勢いそのままに近江へ兵を向け、かち合った織田と戦になった……確かにそれなら結果的に駿河が織田に渡ったという点を見ても説得力はあるが……

「それは無いです。武田と浅井は同盟を結んでいました。あの父に限ってそれを反故にしてまで攻め込むとは思えませんし、援軍として向かったとしても……」
「時期的に合いませんか」
「信玄公の消息が絶えたのは、浅井が落とされた後だ。確かにその線は無ぇだろうな」

 綱元と小十郎の言葉を向けて、は静かに頷く。
 近江の浅井は頼みの綱であった武田が駿河攻略に出払っている隙に織田に攻められ、小谷城に籠もって抵抗したが、圧倒的な力押しの前に陥落したという。
 市は信長の妹なので尾張に戻る道もあっただろうが、夫の浅井長政と共に生き残った配下を連れ、四国の長曾我部を頼って落ち延びたらしい。

 しかし、その長曽我部もまた、戦の真っ只中だという。

「疾風、長曾我部はどうだ。お前の眼で見て勝てると思うか?」
「海岸の守りには大砲を備え、からくり兵器も配置していました。ですが、豊臣は大型の戦船を要し、軍の規模も長曾我部とは格段に違う」

 浅井夫妻を受け入れたものの、四国も時を同じくして豊臣から総攻撃を受けようとしていた。
 その四国の偵察から疾風は戻ったばかりだ。
 疾風にとっては四国偵察は前回に続き二度目で、かなり細部まで見てきたらしい。

「Ha-nn……まあそうだろうな。そんで? 鬼は何か言ってたか?」
「長曾我部元親は、兵と設備には絶対の自信があると。それでも物量で来られたら勝てないとは分かっているようでした」
「元親さんに会ったの!?」
「ああ。に『こっちのことは心配するな』と伝えてくれと」
「俺は無視でにだけ言伝たぁ、あの鬼め……」

 疾風を元親に接触させたのは政宗の命であったらしいが、今や大国を統べる政宗を無視とは元親も相変わらずである。
 恐らく、四国は遠からず落ちて、豊臣の勢力下に置かれる。
 豊臣と長曾我部には圧倒的な戦力差があり、水上船ならまだしも、陸地で攻められれば持ちこたえられないだろう。
 しかし、『心配するな』とは……。

「……政宗様、毛利に使者を送られるべきです」
「Ah? 毛利……なるほどな。だが、確信はあんのか?」
「100%とは言えませんが、ほぼ間違いなくそうなると思います。元親さんと元就さんは……そうですね、父上と謙信公を幼馴染にしたような感じですから」
「甲斐の虎と軍神が幼馴染って……」

 すげぇ喩えすんなぁーなどと成実に呆れられながらも、はほぼ確信していた。
 元親が心配するなと言う以上、その先の算段までしている筈である。そうでなければ浅井も身を寄せまい。
 そして長曾我部が丸ごと頼れる相手と言ったら……同盟を組んでいる大国、毛利しかいない。
 元就としても長曾我部の戦力が豊臣に奪われるのは見過ごせない筈で、そうなればお得意の策謀を巡らせて阻止するだろう。
 二人の事を直接知っているとしては至極当然の予想だった。
 だからこそ、織田と豊臣に対抗する為にも、長曾我部と浅井を引き入れる西の毛利とは手を結んだ方が得策だ。

「政宗様、私も賛成です。織田と豊臣の勢いは脅威……特に織田は得体が知れません。備えは多い方が良い」
「まぁ、実際明智が抜けた辺りから魔王は不気味なくらい沈黙してたもんねー」
「それが急にこれだけの動きを見せたとなれば、いよいよ時が来たと魔王が判断したことに他なりません」

 織田・豊臣の西国への侵攻は以前から進められていたが、豊臣も織田への牽制の為に西へ全力は割けなかった筈だった。
 だが、豊臣領となっていた旧明智領山城の坂本城に、なぜか織田の武将が入ったという。
 何らかの取引で織田へ譲渡されたと見えるが、これで慶次が偵察へ行った時の違和感のからくりも何となく見えてくる。
 元々、明智を討ったのは織田だ――当然ながらその織田の領地となるべき山城の国は織田領となるところだが、なぜか豊臣が領有していた。恐らく、その頃からいずれ返還するという密約があったのだろう。明智光秀は織田の武将であったのだから、豊臣領になった後も実質の統治体制は織田が引き継いでいたのかもしれない……だとしたら領民の暮らしに変化が無かったことにも説明がつく。

「……いいだろう。毛利へ使者を送る。小十郎、米沢に戻ってる左馬之助を……」
「ちょーっと、待った!」

 今まで一切口を挟まなかった慶次が、ここに来て唐突に政宗の言葉を遮った。
 腕組みしたまま瞑目していた瞼を上げて、じっと上座の政宗を見つめる。

「その役目、俺に任せちゃくれないかい?」
「お前が? 前田は毛利と好なんか無ぇだろ」

 そりゃそうなんだけどさ、と言い置いた慶次は、いつもとは違って真剣だった。

「俺は秀吉とは友達だった。アイツがあんな風になった責任は、多分俺にもある。だから俺が責任を持って止めるって決めたんだ。勿論、伊達配下の前田慶次としてね。だから、出来ることは何でもしたい。俺に行かせてくれよ、独眼竜」
「…………」

 慶次と秀吉の確執を少しでも知っているには、痛いほどその切実な心情が伝わってきた。
 それは政宗も感じているだろうが、多数の国を従える立場である以上、軽々しくは頷けないだろう。
 半ば祈るような心地でも政宗の決定を待った。

「………I see. 分かった、だが原田左馬之助と二人で行け。二人がかりで何が何でも毛利を口説き落として来い」
「! あぁ、任せてといてくれ! 必ず吉報を持って帰って来るからさ!」

 そう言って朗らかに笑う慶次にほっとして、その後からも元就に手紙を書いて慶次に預けた。
 恐らく、元就も応じてくれるだろうが、同盟に当たっては少しでも有利な条件を取り付けようとするに違いない。その交渉は骨が折れるが、慶次たちなら大丈夫だろう。

 翌日、たちは西に向けて出陣し、慶次は米沢の原田左馬之助と合流する為、本隊とは別に出立した。
 が小田原で目を覚ましてから三日後のことである。




「よう、princess. やけに張り切ってるみたいだが、まさか無理してんじゃねぇだろうな?」

 休憩に立ち寄った村を出発し、峠を一つ越えた頃に隣に馬を並べてきた政宗はいつもの口調でそう聞いてきた。
 明智光秀との邂逅で怪我を負ってから既に八日ほどが経過している。
 深層の姫君ならともかく、武田の元武将に対して少し過保護ではないだろうか。
 そう思うと、苦笑してしまった。

「心配ご無用ですよ、政宗様」
「HA! どうだかな。例えヤバかろうと、泣き言なんざ言わないんじゃねーのか?」

 お前は頑固だからなぁ、などと言って馬鹿にしたように笑う政宗に少しむっとして、も笑顔で言葉を返す。

「……人をそんな、どこかのへそ曲がりな若君みたいに言わないでくださいよ、梵天丸様」

 わざと幼名で呼んでその頃のエピソードを持ち出せば、ひくりと馬上の横顔がひくついた。

「お前、そんなことをどこで……」
「以前米沢に居た時に、一介の伝令兵が住む長屋に三日と空けず通ってきてくださる物好きな城主様がいらっしゃいまして。そのお方がお酒に酔って口を滑らせたんです」
「………………なんだ、その頃からもうしっかり囲ってたってことか」
「囲っ………!?」

 とっさのことに意味が分からず聞き返そうとすると、急に腕を引かれて浮遊感に目を瞑った。
 不安定極まりない歩行中の馬上でのこと……覚悟した落下の衝撃が無いことに目を開ければ、そこはいまだ馬上のままで……しかし、見慣れた白い名馬の背中だった。

「まっ…政宗様!?」

 思わず抗議の声を上げて睨みつけたが、相手は全くどこ吹く風。
 信じ難いことに馬上同士で無理やり移されたらしく、白斗に相乗りの恰好で拘束されていた。

「That's easy. 昔っからお前は俺のもんだったってことだろ? You see…?」

 抱き締められるような体制で耳元で囁かれ、は一瞬にして頭に血が上った。
 そして思わず叫んでしまった名前は――……

「はっ…白斗、助けてっ…!!」

 ――ヒヒィーーン!!

 高い嘶きと同時に白斗が棹立ちになり、身構えていなかった二人は無防備にその場に放り出された。
 はこの隙にとばかりに政宗の腕から逃げ出して白斗の後ろに隠れる。

「てめぇ……白斗! 主を落とすたぁどういう了見だ! AHhhh!? つーか! テメェも人の馬を誑かすんじゃねぇ!!」
「だっ…だって、政宗様がいきなりあんなこと言うから…!!」

 ただでさえ行軍の真っ最中である。
 周りの目に居た堪れなくなりながらが叫べば、その後ろから盛大な笑い声が上がった。

「ぶはははは! 梵だっせー!! 馬に負けてやがんの!」
「政宗様…………」

 中軍についていた成実と小十郎のそれぞれの反応にますます居た堪れなくなっただったが、一旦キレかけた政宗は、しかし真剣な顔でぴくりと顔を上げた。
 も慌てて気を引き締めた途端、黒脛巾の一人が音も無く跪いて報告した。

「明智・松永軍が進路を変えた模様。北西に向かっております」
「北西だぁ?」

 大和へは南西だし、海に出るにしても南である。
 北西となると高い山脈が続き、それを越えていけば日本海に出てしまう。

「……OK. 取り敢えず、俺たちもそれを追う。黒脛巾総出で奴等の進路と目的を探れ」
「御意」

 即座に消えたその黒い影を見つめながら、は顔を顰めた。
 得体が知れない……何度そう思っただろう。

「政宗様……」

 白斗に近づいて再び馬上に上った政宗は、の頭を撫でながら笑った。

「Don't worry, kitty. 鬼が出ようが蛇が出ようが、独眼竜が食らうまでよ。You see?」
「――はい」

 言いようの無い不安の駆られながらも、も再び自分の馬に跨って進軍を再開する。
 各地で上がる戦の炎が、風に乗って日本中を駆け巡っていた。





091026
大っ変長らくお待たせいたしました!
ようやくの五章開始です。
天下の情勢をいろいろ動かしたかったので、説明ばっかりで申し訳ありません……
CLAP