「夢じゃない……」

 目が覚めて、一番に出たのは溜息だった。
 そして随分昔に感じた感覚に、眉を潜めた。
 扉の前と隣室と――護衛と傍仕えの女官だろう。貴人として自分を守る役割を与えられた者の視線を感じる。
 このまま起きていれば、しばらくすれば女官が起床を手伝いにやってくるだろう。
 達王に保護されていた頃以来の感覚に、は再び寝台に潜った。

 起きてから二度目の溜息は、自分に向けたものだった。

暁の声 - 泡沫の章2

 温かく穏やかな午前……
 静かな雲海の音を聞きながら、后妃としての衣装に着替えさせられ、それに敢えて抵抗しなかったは、一人で簡単な――それでも贅沢な朝食をとり、部屋で大人しく座っていた。
 美しい衣装を拒めば女官たちが叱責されると知っているし、自分が何か要求すればするだけ彼女たちの手を煩わせることになる。

 言いたいことは直接尚隆や朱衡に言おうと思って所在を尋ねたが、執務中だと言われれば邪魔は出来なかった。
 そもそも、尚隆どころか六太も来ないということは、しばらくサボっていた尚隆のツケで仲良く捕まっているのだろう。

 彼らと話が出来ないとなると、は本当にただ大人しく『后妃』をやっているしかない。
 本当ならば荷物の整理なりしたかったが、そんなことを始めれば間違いなく女官たちが手伝おうとするだろう。しかし、の荷の中には暗器や薬物も含まれている為、素人にはとてもではないが触らせられなかった。
 では彼女らの目を盗んで別室で武器の手入れでも――とも思ったが、それこそ一時でもの姿が見えなくなれば大騒ぎになることは目に見えている。

 更に、朱衡の息のかかった香扇に、「官吏の皆様方も、様にご挨拶なさりたいとそこかしこで仰っておいででした。主上の裁可さえいただければ、きっとすぐにでもお見えになりますわ」などと言われてしまっては、おちおち部屋で気も抜けない。

 そういった次第で、は部屋で借りてきた猫のように大人しく座っていた。

 ぼんやりと雲海を眺めて、溜息をつく。

「尚隆……」

 自然と…本当に不意に自分の口から転がり落ちた名前にはっとして、は口元を押さえた。
 新しい環境に一人で心細い……などということは、五百年一人で放浪し続けたには到底当てはまらない。
 今まで誰も頼ることが出来ない環境こそが、当たり前だったのだ。
 こんな風に無意識に誰かの名前を呼ぶなど……父であれ、兄であれ、達王でさえも無かったことだった。

「……こんなままでは駄目だわ……」

 小さく呟いて、立ち上がった。
 リンと揺れた簪を無造作に抜いて、声を上げる。

「香扇、そこに居ますか?」

 彼女の気配があると知った上で隣室に呼びかけると、返事と共に入口で叩頭した。

「少しその辺りを散歩します。申し訳ないのですけれど、何か髪を覆うものを用意していただけませんか?」
「髪……でございますか。はい、畏まりました。しばしお待ちを――」

 の要望を叶える為に出て行った香扇を見送って、は露台から空を見上げた。
 今頃尚隆はどうしているだろうか、とふと思いを馳せながら――





「なー、本当にあれで良かったのか?」
「しつこいぞ、六太」

 日当たりの良い執務室で、朱衡らに半ば監禁されている尚隆と六太は、昨日から答えの出ない問答を繰り返していた。
 話の渦中であるはこの場にはいないが、ここしばらく連続して宮を空けていた尚隆は、急ぎの仕事だけでも終わらせなければこの部屋から一歩外に出ることも叶わない。

「でもさー、のこと考えると……アイツからしたら、丸っきり寝耳に水だった訳だろ?」
「五月蝿いと言っておろうが!」

 何度も何度も言われた言葉に、尚隆の内でも苛立ちは強まっていた。
 慈悲の生き物たる麒麟は誰にでも同情する為、普段はこの手の諫言はそう取り合わないのだが、話がのこととなると別だ。
 自分が悪いかもしれぬと思うからこそ苛立つのであって、そんな中で麒麟と顔を突き合わせているのは拷問のようなものだった。

 尚隆は手がけていた書簡に最後の御璽を押して脇に放ると、筆も放り出して思い切り伸びをした。
 窓から覗く雲海の上の空は目に痛い。

 ぼんやりとその青に目を慣らし、尚隆はただ淡々とその疑問を口にした。

「……強引だと思うか? あいつは……嫌がっていたか?」

 誰に問いかけたものでもない…答えを期待しない独り言のつもりだったが、場所が六太と二人だけの執務室ではそれは言い訳にしかならないだろう。
 案の上、六太は目を瞬き、ぽりぽりと筆の尻で頭を掻くと、しようが無いと言いたげに溜息をついた。

「別に嫌って風には見えなかった。だが、王后となるといろいろあるからな……。アイツはその意味もちゃんと知ってる。だからこそ戸惑ってんだろ」
「……そうか」

 尚隆はに、自分の傍に居て欲しいと言った。
 も同じ気持ちだと答えてくれた。

 だが、尚隆が求めているのは男女の関係で、が求めているのは主従のそれだという。
 通じたと思った心が、まだすれ違ったままだったというのは、思ったよりも堪える。

「はぁ…、あのなぁ! しょうがねぇから言ってやるが――はお前に惚れてる! お前だってそれは分かってんだろ!?」
「………主としてな」

 は倭国で忍だったというが、尚隆は本人から当時の事情を少しだけ聞いたことがある。
 生まれた時から決まっていた国許の主は、戦国の世を生き残る器では無かったらしい。
 父は忠誠を尽くし、兄は裏切ったというその男について自身がどう感じていたか知らないが、身内で敵味方に分かれるのはひどく辛かっただろう。
 尚隆自身は王になるべく育てられた為に、誰かに仕えるという気持ちは実感としては分からないが、もしそんな立場なら、自分で惚れて選んだ主の方が格段に幸せに決まっている。
 にとって自分がそうだというのは嬉しいが………

「……重症だな、こりゃ」

 匙を投げたように嘆息した六太に、尚隆も心中で同意した。
 我ながら、以前の自分ならば考えられないような女々しさだと思う。

「とにかく、とっとと終わらせてに会え!」

 それがてっとり早い…というよりそれしか無い!
 そう言うように、六太はいつに無く協力的に書簡に取り組み始めた。

 尚隆はそんな半身の姿に思わず苦笑して、自分も筆を握りなおす。
 とてもそれどころでは無いが、ここから抜け出すにはそうするしか無さそうだった。






 燕寝の奥にある庭園を散策し、適当な路亭に落ち着いたは、あちこちで咲き誇る花の香りを楽しむように深呼吸した。
 そして、長い袖の中で素早く印を結び、術を発動させる。
 少し俯いて髪の色が藍色に変化したのを確かめると、ようやく息をついた。

 一人にして欲しいと言ったので、の傍には誰も居ない。
 しかし、護衛という視線は少し離れた場所から付かず離れず、に注がれていた。
 頭の被り物のお陰で術を使ったことに気付かれずに済んだものの、落ち着かないことに変わりは無い。

(……早く、尚隆に会わなければ)

 思って、正殿の方角を見遣った。

 日が傾きだした今になっても、尚隆や六太は元より、朱衡たちの姿も見えない。
 ここ数日、尚隆がに付きっきりだったことで、国政が大変なことになっているのだろう。

 尚隆に会って、それからどうする――?

 そもそも、それが一番の問題だった。

 朱衡は、尚隆がここに連れてきた時点で、宮の人間にはは后妃だと認識されていると言った。
 香扇は、が慶の斎暁院だと知っていた。
 そして、意識の無かったのこの髪の色も、目にした者たちから既に噂として広がってるだろう。

 それはつまり、玄英宮でのは『王の后妃となった、金色の髪を持つ慶国斎暁院』という何やら大層な認識をされているということだ。

 それを承知した上で今更髪の色を変えたのは、巧のような騒乱を呼ぶ可能性を少しでも減らしたかったからだ。
 尚隆のことだから、それを理解した上での髪を隠さなかったのだろうが……

「……王后………」

 倭国風に言えば、北の方――つまりは、正妻のことだ。
 尚隆がに燕寝の北宮を与えたということは、を正妻として娶るということで――

 自分は倭国でも一介の忍で身分違いも甚だしい、とか、そんな重い地位につけば尚隆の手足となって働けなくなる、とか、そもそも自分は仙籍にすら無い、とか、髪の色のことだとか――
 思考はぐるぐると同じようなところを回っているが、実はの頭にあるのはもっと単純なことだった。

 ――「俺にはお前が必要だ」

 あの夜、金波宮で言われた言葉が今更ながらに甦る。
 朱衡は意思の疎通に隔たりがあったと言ったが、それは正しいようで、正しくない。

 勿論、主従として彼の為に働くことも望んでいるが、は確かに尚隆を愛している。

 要は、自分の気持ちに手いっぱいで、尚隆の言葉の意味を深く考えていなかった。
 ただただ、愛する人から『必要』と言われた幸福感で満たされて――……

 ――「あー……気に入らなかったか?」

 彼らしくない、弱気な言葉。
 の態度は、少なからず尚隆を傷つけてしまったのだろう。
 だからこそ、一刻も早く尚隆に会わなければならない。

 会って、話して、誤解を解いて――そして――そして……?

(駄目――逃げてはいけない)

 思わず逃避したくなるような問題だったが、ここで逃げるということは、再び尚隆から逃げるということだ。

 ――「俺から逃げるな!」

 強い腕で、言葉で、しっかりと捕まえられて、言われた言葉。
 あの時、自分の望みを自分の口で紡いだ瞬間、は決めたのだ。

「もう逃げません――尚隆」

 再度決意を固めるように呟いて、は空を見上げた。
 このままでは、いつになったら会えるか分からない……。

 暗くなり始めた空に、薄い月がかかっていた。





06.6.15
CLAP