「ここは……?」
ふと覚醒した意識を持て余して、は反射的に呟いていた。
部屋の奥に設えられた寝台からは、開放的で広い室内と柔らかな日差しの差し込む露台が見える。
微かに吹き込む風は潮の香りを含んでいて、心を落ち着かせた。
半身を起してそれらを見渡したは、ようやく思い出してきた記憶に眉を顰めた。
確か、尚隆と共に慶を発ち、雁に向かう途中に斎暁院に立ち寄ったのだ。
しかし風邪でも引いたのか、何百年も仙をやってきて突然人間に戻ったの体は予想だにせず倒れてしまった。
それを尚隆が看病してくれたところまでは覚えているのだが……その後が思い出せない。
よくよく見れば、室内の調度も最高級品であることが、をますます混乱させた。
荒れ果てた斎暁院に、このような部屋がある筈はない。
側に尚隆が居たし、こんな好待遇を受けているのだから身の危険は無いだろうが、心当たりが無かった。
するとそこへ、近付いてくる足音が聞こえた。
とてとてと軽快な調子で歩くそれは、ひどく軽い。
もしや、と思った時に見慣れた少年がひょいと顔を覗かせた。
「! 目が覚めたのか!」
「六太?」
顔を輝かせて走り寄って来たのは、金の髪を露わにした六太だった。
熱は? 体の調子は? と矢継ぎ早に聞いてくる。
倒れてしまった時の不調はきれいに消えていたので、質問の全てに大丈夫だと返すと、六太はようやく安心したように息をついた。
「そうか、よかった……尚隆が連れて来た時は随分顔色が悪かったから心配したんだ。丸一日眠りっぱなしだったしさー…まあ、治ったんなら良かった」
丸一日眠っていたという事実より何より、は最初の台詞が引っかかった。
「尚隆が連れて来た…?」
「? ああ、珍しいことに血相変えてな。前もって連絡受けてたから部屋の準備は整ってたけど、黄医まで引っ張り出してえらい騒ぎになったんだ。は…病み上がりなのにこれからが大変だろうな……」
慈悲の生き物らしく哀れみの眼差しを向けてくる六太に、は訳が分からず瞬きした。
部屋の準備だ、黄医だと、何やらとてつもなく大事になっている状況に置いてけぼりにされ、何がどう大変なのかも分からない。
頭を押さえたは、重々しい溜息を我慢して視線を入口に向けた。
「どういうことですか、尚隆…」
「――バレたか」
悪戯を見つかった子供のように笑って出てきた尚隆に、は首を傾げる。
「六太も居るというとは、ここはもしかして……」
「ああ、俺の住処だ。もうの住処でもあるがな」
住処、などと簡潔に言われたが、それが玄英宮を指していることは明白だったのでは頭を抱えた。
物事は、何事も始めが肝心だという……玄英宮の人たちにとって、初対面でいきなり多大な迷惑をかけたの印象は最悪だろう。
そうでなくとも、一国の王宮である。
数百年前の縁を持ち、三年過ごした金波宮でさえ、陽子たちの好意は嬉しいと同時に肩身が狭かったというのに、雁のような大国の宮でまでこんな事になろうとは……
「それは……本当にすみませんでした。何と言っていいか……」
しかし、項垂れたに対する主従の反応はぴったりと息が合ったものだった。
「なーに他人行儀なこと言ってんだよ」
「馬鹿の言う通りだ。もうお前の家も同然だと言っておるだろう」
「馬鹿って言うな!」
相変わらずのやりとりを見せる主従に、はなぜか安心して笑った。
その笑みを見て尚隆と六太も顔を見合わせる。
しかし、ようやく穏やかな空気が漂い始めた室内は、突然の来客によって途端に張り詰めたものになった。
訪れたのは、一介の女御。
しかし、その台詞が問題だった。
「ご歓談中失礼いたします。様のお体が回復されたのなら、一刻も早く宮をお移りくださいますようにと、朱衡様が……」
「朱衡様が?」
ゲッと呟いた六太と女御に視線を向けて、は目を瞬いた。
朱衡とは慶に居た頃から面識もあるが、そんなに性急に物事を進める人物では無かった筈。とすれば、今居るこの部屋が問題なのだろうか。
「……尚隆、ここは王宮のどの辺りの何と言う宮なのですか?」
「ああ、正寝の俺の部屋だ」
「……は?」
一瞬言われた事が理解できなかっただが、余りにも有り得ない……いや、尚隆だからこそ有り得た事実に、くらりと眩暈がした。
仮にも一国の――ましてや雁程の大国の――王の部屋に、他人を泊まらせるなど、十二国広しと言えど聞いたことが無い。
「……女御殿。今すぐにここを出ます。大変申し訳ありませんが、どこか空き部屋をご用意いただけますでしょうか。ええと…あまり人目につかない場所でしたら、どんな場所でも構いませんので」
「……畏まりました。どうぞ、こちらへ――」
理解ある女御に促されて、は寝台から抜け出ると、近くにかけられていた自分の上着を羽織って、遅いような気がしつつも髪を布で隠した。
「それでは、御前失礼致します――延王君、延台輔」
わざと号で呼び部屋を出ると、部屋の中から不貞腐れたような六太と不機嫌な尚隆の言い争いが聞こえたが、は気にせず痛む頭を抱えて回廊を渡っていった。
ここ最近、あっと驚くようなことばかりが続いていたが、その中でも今日は群を抜いているだろうとは目の前の光景に確信していた。
どう考えても、自分が受け止められる許容量を超えている。
「様は『あまり人目につかない場所だったら、どんな場所でも構わない』と仰りましたわ」
「いえ……確かにそうなのですけど……」
「慶国で伝説の飛仙と謳われた方が、ご自分の言葉を曲げると仰いますの?」
「うっ……えっと……だから……」
理解あると思った侍女はしっかりきっちり朱衡の息のかかった切れ者で、は言質を取られ、完全に退路を絶たれていた。
慶のことを持ち出されれば、にはとても抗えない。
大恩ある慶の名に泥を塗る訳にはいかないのだ。
ろくな反論も出来ず、途方に暮れたいた所に、鶴の一言がかかった。
「その辺にしといてやれ、香扇(こうせん)」
「主上!」
あと一息とばかりに押しにかかっていただけに、香扇と呼ばれた女御は慌ててその場に叩頭した。
苦笑した尚隆は、そのままの方を見ずに女御に退出を促す。
「後はこっちでやるから、もう下がって良いぞ」
「お疲れ様でした、香扇」
「はい、主上、朱衡様。――それでは、御前失礼致します」
静々と下がって行った香扇と入れ違いにやってきた尚隆・六太・朱衡、そして成笙と帷湍まで揃った一行に、は一瞬気圧されそうになったが、ここで流されてしまっては取り返しがつかないと自分に言い聞かせて、ぐっと力を入れると型通りの拱手で迎えた。
「これは皆様……わざわざ足をお運び頂き、恐縮です。しかし、延王君――これはどういうことかご説明いただけますでしょうか」
「あー……気に入らなかったか?」
言葉巧みに言いくるめられないように身構えていたというのに、その直球は全く予想外だった。
思わず一瞬言葉に詰まったは、そういう言い方は卑怯だと尚隆を睨みつける。
「気に入る、入らないの問題ではございません! ここは確かに私が言った条件にも適っておりますが、燕寝の北宮ではありませんか!」
燕寝は王の後宮全体を――その中でも北宮は、王后の居室を示す。
王と一部の世話係以外の入室が禁じられるこの場所は、『あまり人目につかない場所だったら、どんな場所でも構わない』に確かに合致するが、到底おいそれと受け入れられるものではない。
「あー…、お前一個聞くけど、雁で一体どんな仕事するつもりだったんだ?」
一応確認、という風に問われた六太の問いに、は首を傾げた。
「それは勿論、私には女御のような作法はありませんから、夏官として――禁軍か、護衛の末席にでも加えていただけたらと――そうして尚隆の為にこの一命を持ってお仕えできればと」
そう答えたの言葉に対する反応はそれぞれだった。
尚隆は目を瞠り、六太は驚いたあと盛大に笑い出し、帷湍は溜息をついて、成笙は尚隆の肩を叩いた。
唯一表情を変えなかった朱衡が、笑顔のまま口を開く。
「どうやら、意思の疎通に隔たりがあったご様子ですね。では、様におかれましては、我が主上の后妃になるつもりは無い――なりたくない――と、そう仰せられるのですね?」
「え……?」
思わず視線を上げたは、ばっちり尚隆と視線が合ってしまい、慌てた。
尚隆はただ静かにこちらを見つめるだけだったが、それが逆にを焦らせる。
「いえ、決してそういう訳ではありませんが……ですが……!」
「違うんですか、それは良かった」
「え……?」
同情の視線と笑みが、に集中する。
混乱するの背を押して部屋の中に入れると、朱衡はにこやかに笑って告げた。
「それでは、この部屋でお休みくださいませ。いずれにせよ、今はこの部屋しか用意できておりませんし、主上が手ずから貴女を連れてきた時点で、宮中の者には『后妃』として認識されております。ご不満がおありでしたら明日以降に見当しますので、今日はどうか本調子ではないお体をお休めください」
それではおやすみなさい。
流れるようにそう言って朱衡が扉を閉め、一行が去っていってその足音が聞こえなくなってしまうまで、は微動だに出来なかった。
「…………頭、痛い」
聞き捨てならないことを山ほど言われた気がするが、取り敢えず、朱衡の言うように病み上がりの状態ではろくに思考も働かない。
目が覚めたら全て夢だったら良いのに……と、どこか現実逃避した考えを抱きながら、は疲労という名の睡眠に為す術も無く落ちていった。
06.6.15