昔から、書庫は好きだった。
城から出られなかった――城内でさえ決められた場所への出入りしか許されなかったエステルの数少ない憩いの場であり、拠り所でもあった。
近頃は、副帝として忙しくしていながらも、ある程度の自由は認められている。
しかし、憂鬱な内容の書類仕事が続いており、ふとエステルは幼い頃の習慣のように執務室を抜け出した。
人の行き交う城内を抜け、そっと重厚な扉を押し開く。
古い蝶番が軋む音と同時に、少しかび臭い書庫独特の匂いが立ち込めるそこへ足を踏み入れると、途端に喧噪は遠ざかり、もうそこは時間から切り離されたような静謐の世界だった。
昔から何度も経験し、馴染んだ感覚。
無意識にほっと息をついたエステルは、静けさの沈殿した世界を泳ぐように薄暗い書架の間を歩き、身に染み着いた道順を辿る。
だが、目当ての棚の近くに人影を見つけ、ぎくりと身を強張らせた。
それは、誰もいないと思っていた場所での遭遇に反射的なものだったが、相手が誰であるかを認めて目を瞠った。
「ヨーデル……!」
遠縁ながら幼馴染のように育ち、現皇帝でもあるヨーデルの柔和な顔も驚いたようなそれだったが、すぐにしっと人差し指で制された。
エステルが首を傾げながらヨーデルの向こう側を覗くと、そこには見知った男――レイヴンが書架にもたれて眠っていた。
周りには何冊もの本が積み上がり、眠る手元にも開いたままの本や書類やペンも転がっている所を見ると、仕事の調べものの途中で寝落ちてしまったらしい。
疲労の色は見られるが、昔とは違い、その寝顔は穏やかだ。
不意に鮮明に蘇った光景に頬を緩めたエステルの横で、ヨーデルもくすりと笑った。
「まるであの時のようですね」
「私もちょうど思い出していました」
少し離れた所から、中年男を見つめながらの密やかな会話。
二人で笑い合って、エステルは昔穴が開くほど見つめた男の寝顔に目を細めた。
昔、皇帝候補として城に閉じ込められるように暮らし始めてから少し経った頃。
幼いエステルは孤独だった。
唯一の楽しみである書庫にも週に一度、重々しいローブを着た老人と一緒にしか行けない。
ある日寂しさに堪り兼ねて、エステルは部屋を抜け出し、一人で書庫へと忍び込んだ。
たまたま司書にも見つからず、大好きな物語が収められた書架に辿り着くことが出来、何やら密かな冒険を達成したような高揚を覚えた。
しかし、冒険はそこまでで、目当ての本は書架の中くらいの高さにあり、手が届かない。踏み台は確か司書机の前である。
何とかならないかと必死に手を伸ばしていたその時、僅かな足音がして、エステルは通路を横切った人物と目が合った。
それは騎士団の制服を着た青年だったが、型が他の人と違う。騎士団の制度に疎いエステルにも、階級が高い人物であることが知れた。
見つかってしまった。
怒られる。
青くなったエステルに、彼はゆっくりと近づき、思わずぎゅっと目を閉じて身を固くしたその目の前にふわりと跪いた気配が伝わった。
「どうぞ、お嬢さん」
そっと目を開けたエステルの前には、手を伸ばしていた本を差し出し、恭しく跪いた彼が穏やかにこちらを見ていた。
「え……あ、ありがとう…ございます」
驚きのままに何とか礼だけは言って本を受け取ったエステルは、しかし次に聞こえてきた声に、今度こそはっと青ざめた。
「姫様ーー! エステリーゼ姫様、どちらですかーー!?」
本を受け取ったままのエステルと、差し出したままの彼の視線が合わさる。
瞬間、エステルは何も考えないまま、目の前の手にすがった。
「助けてください!」
彼の翡翠色の双眸が見開かれ、戸惑いに揺れる。
「……探されているのでは…」
「わたしはここに居たいんです!」
後から思い出しても、我ながら滅茶苦茶だった。
ただの子どもの癇癪だ。
だが彼は、僅かの沈黙の後、息をついて立ち上がり、素早く行動した。
傍らの書架の一番下の段の本を数冊抜き、地面に積み上げて、「こちらに」とエステルを本が入っていた書架へと導いた。
意図を察して身を屈めたエステルに、静かにと手で合図し、自らはその傍らに立つ。
やがて、バタバタと忙しない足音が近づき、目前の通路で止まった。
「これは、シュヴァーン隊長! このような場所でお会いするとは…」
どうやら探しに来たのも騎士だったのか、僅かのやり取りの後、彼がごまかしてくれたお陰で追手は去っていった。
シュヴァーンと呼ばれていた彼は、エステルが身を起こすのに手を貸してくれ、エステルは再び恩人の顔を見上げる。
「あの…本当にありがとうございました。……あの、シュヴァーン? その、大丈夫ですか…?」
こんなことをして、彼が怒られるのではないか。
今更心配になったエステルが彼の服の裾を掴んで見上げれば、凪いでいた目がやや瞠られた。
僅かの後、彼はがしがしと頭を掻き、徐にその場に座り込んだ。
自分の横に先ほど抜き取った本を積み上げ、その上に自分の上着を脱いで広げる。
どうぞと促されるまま座ったエステルが目を瞬いていると、シュヴァーンは隣で持っていた本をめくり始めた。
「あの……」
「――俺はしばらくここで調べものをします。その間は、姫様をお守りできます」
数秒遅れて意味を理解したエステルは驚きのままに彼を見上げたが、最早彼の眼は本に向けられていて、エステルも慌てて自分の本を開いた。
大好きな本。
大好きな書庫。
今まで誰かと一緒に読書を共有することなど無くて、初めての体験に胸はどきどきと早鐘を打っていた。
とても穏やかな空間だった。
居心地の良いその場所ですっかり本に夢中になってしまったエステルが次に目を上げたのは、たっぷり一冊読み終わった後。
はっとして隣を見やると、シュヴァーンは本を開いたまま眠っていた。
無造作に伸ばした髪と僅かな無精ひげが、精悍な輪郭を隠している。
その横顔をじっと見つめ続けていたエステルは、新たに飛び込んできた人物に反応が遅れた。
「エステリーゼ!!」
見つけた!と叫んで腕を引っ張られ、引き寄せられる。
「騎士!? エステリーゼを誘拐するなんて、何が目的ですか!」
背にかばわれ、守るようにその前に腕を差し出した人物を見て、エステルは遅まきながらに相手の名をを呼んだ。
「ヨ…ヨーデル!?」
幾分か背の高い金髪の少年は、エステルの遠縁に当たる親戚で、崩御した先帝の甥という高貴な身分だ。
城で初めて会ったヨーデルは、年も近く優しい兄のようにも感じたが、自分たちの立場が自分たちの知らない場所ではどうやら敵対しているようだと幼いながらも分かっていた。
大人たちは会わせるのを嫌がったし、広い城内で偶然すれ違うくらいの頻度でしか会えず、会いたいと思っても会える相手ではなかった。
そのヨーデルが、今はエステルの前に立ち、威嚇するようにシュヴァーンを睨んでいる。
「もう大丈夫ですよ、エステリーゼ。僕が必ず逃がしてあげますから」
彼が何やら大きな勘違いをしているようだと気づいて、エステルは慌ててヨーデルの腕を掴んだ。
「違います、ヨーデル。シュヴァーンは私の騎士様なんです!」
驚いたようなヨーデルとシュヴァーンの視線が向けられ、エステルは言い方を間違ったことに気づいた。
本当は、私のわがままを聞いて護衛についていてくれた騎士なのだと言いたかったのに、何だかニュアンスが違う。
自分が抱えている本が、国一番の騎士と姫とのロマンス物語だということも羞恥に輪をかけた。
「えっと……そうじゃなくて……あの……」
真っ赤になってしどろもどろと言葉に詰まるエステルの前で、シュヴァーンは跪いて敬礼した。
「騎士団隊長のシュヴァーンと申します、ヨーデル殿下。迷われていたエステリーゼ様をこちらで保護し護衛しておりました」
「迷う? ……護衛? こんな所でですか?」
「はい。――ヨーデル殿下は何故こちらに?」
「僕は、エステリーゼが行方不明になったと聞いたので、抜け出し…いえ、探しに……」
その瞬間、また入口の方から今度はヨーデルを探す声が聞こえてきて、ヨーデルは眉を下げた。
シュヴァーンは一見無表情に見える口元をふっと緩めて、微かにヨーデルに笑いかけた。
「行方知れずになった姫君を探しに飛び出されるとは、殿下はとても勇敢な方のようだ」
照れたように赤くなったヨーデルに、エステルは目を丸くした。
大人びていていつも完璧な彼の、こんな顔を見るのは初めてだった。
「勇敢な騎士様が迎えに来てくださったのですから、俺はお役御免のようです、姫様」
次いで自分にも向けられた笑みに、頬が熱くなる。
その後、ヨーデルと二人してシュヴァーンに部屋まで送ってもらい、彼がうまく取り計らってくれたのか、二人とも驚くほど叱られなかった。
それから何度書庫へ足を運んでもシュヴァーンにもヨーデルにも会うことはなかったけれど、エステルにとって大切な思い出として記憶に焼き付いている。
あれから数年経った今、同じ場所でヨーデルと二人、シュヴァーンの――レイヴンの寝顔を眺めているのは、とても不思議な気分だった。
まさか、あの時の『騎士様』と世界を救う旅をすることになるなど、幼い自分は果たして信じられただろうか。
ヨーデルが息を殺してそっと動き、書架から一冊の本を取り出した。
そのタイトルを見て、エステルは目を瞠る。
ヨーデルはその本――あの時、エステルが読んでいた騎士と姫の本を、そっとレイヴンの手元の本と交換した。
広げられたそのページに騎士の挿絵があるのを見て、悪戯が成功したように目配せしてきたヨーデルと無言で笑い合った。
あの時のようにじっと見つめていたら、今度は目を覚ますだろうか。
その時、彼はどんな顔をするだろうか。
幼い頃に戻ったようなどきどきする心を抱いて、エステルはヨーデルと一緒に、彼らの騎士を見つめていた。