いとしい音

 かつて彼は、ずっと、真っ暗な濁流の中でもがいていた。
 そこには何もなく、けれど耳を塞ぎたくなる雑音で溢れていた。

 まがい物の心臓の音。
 二度と聞けない生家での父の小言。
 壊れた筈の生身の鼓動。
 失ったかけがえのない仲間たちとの掛け合い。
 歪んでしまった上司の演説。
 託された分不相応な遺言。
 幻想に向けられた一方通行の期待。

 寝ても悪夢を見るし、起きていても似たようなものだった。
 仕事か酒か女性かに逃げて、それでも暗い何かに飲み込まれそうな時は、物理的に暗い場所にこもった。

 光があるから、闇がより一層深くなる。
 余計な光などない暗い場所にいる方が、自分にお似合いなようで、光に焼かれる心配がないだけまだ"マシ"だった。

 帝都の城にある地下牢は、まさにおあつらえ向き場所だった。
 騎士として城内に私室を与えられてはいたが、時々逃げ場がなくなった時は、変装して罪人に紛れたこともあった。

 だから、月日が経ち、あまり必要の無くなった今でも、癖のようになっているのかもしれない。

「アンタの趣味にとやかく言うつもりは無いが、ずいぶんとイイ趣味だな」

 どん底の闇の中で出会って光の下に引っ張り出してくれた若者たち。
 その筆頭である青年には、彼らしい皮肉でそう言われた。


 ――そんなこともあったな、と思い出しながら眠りについたからだろうか。
 ふと、その青年の声が聞こえたような気がして、ふわりと意識が浮上する。

「……た? 本当…どこに…………」
「……ったく、困った………で…」
「どこ…………ったんで……レイヴンは」

 途切れ途切れに聞こえていた会話の中に不意に自分の名前が聞こえて、彼は――レイヴンはぼんやりと瞼を上げた。

 暗く、空気が淀み、カビ臭い――そんな地下牢の寝台はお世辞にも寝心地が良いとは言えないが、誰も来ないので一人になりたい時は案外便利なのだ。
 昔の癖でついこの場所で眠ってしまってからどれくらい経ったのか、どうやら自分は探されているらしい。

 ぼんやりと見上げていた天井には光に照らされた埃がキラキラと舞っていて、その光源を追うように視線を動かすと牢が並んだ回廊の上部が空気を取り入れる為か外に繋がっているらしく、そこからうっすらと陽光が差し込んでいた。
 即座に頭に浮かんだ城内の地図からすると、城の裏庭あたりだろうか。

「フレン、お前何も聞いて無いのか?」
「決済案件が多く回っているだろうから、今日は執務室に籠ってらっしゃる筈なんだが」
「ルブランに聞いてみたらどうかな」
「さっき聞いたわ。急に姿が見えなくなったって嘆いてたわね」

 穏やかなまどろみの中、レイヴンはふ、と笑った。

 少し呆れたユーリと、困惑気味のフレンと、元気に提案するカロルと、苛立ちを滲ませたリタ。

 声だけでも彼らの様子が手に取るように分かって、無意識に安心してしまう。

「もしかして、どこかで倒れているんじゃないです?」
「この前海で会った時も、釣られた魚のようにゲッソリしていたのじゃ」
「相変わらず無理ばかりしているのね、おじさま」
「ワゥン……」

 慌てた様子のエステルと、神妙に言うパティ、物憂げなジュディス、相槌を打つようなラピード。

 自分が困らせている張本人だと分かっていても、心配してくれる言葉につい頬が緩んでしまう。


 星喰みを倒し、世界から魔導器<ブラスティア>が無くなってから十年――
 もうすぐ行われる節目の式典の為に、近々凛々の明星<ブレイブ・ヴェスペリア>のメンバーも打ち合わせに呼ぶとは聞いていたが、どうやらそれが今日だったらしい。

 姿が見えないレイヴンを探して一旦集合した裏庭が、たまたまレイヴンが寝ていた地下牢の真上だったというところだろう。

「でも困りましたね。レイヴンがいないと話が始められません」
「探すっきゃねーってことか……あのおっさんがしけ込む場所ってーと…………ん?」
「どうしたのさ、ユーリ?」

 ふと会話が途切れ、天井に差していた光が遮られて、レイヴンはぎょっとした。

 距離もあるし、暗いしで、お互い見えないことは分かっているが、無意識に息をつめてしまう。

「………いや、何でも無いさ。折角ジュディがそんな格好してるのに、おっさんもつくづく運がねーよなぁー」

 ――なにぃ!?

 思わず上げそうになった声を何とか飲み込んだが、ガタリと寝台が音を立てた。
 ユーリがほくそ笑んだ気配を感じて、ム、と眉を寄せる。

「そういやぁ、ジュディこの前おっさんのことやたら褒めてたよな」
「…ええ、そうね。前にストーカーに困ってた依頼人がいたでしょ。私たちはすぐに捕まえて気を抜いてしまったのだけど、おじさまがもう一人いるって気づいて駆けつけてくれたの。女の子に紳士的に接する態度もとても素敵だったわ」

 麗しのジュディスから「素敵」と言われて、レイヴンは自分でも顔が赤くなるのが分かった。

「へぇ! 流石騎士だね!」
「シュヴァーン隊長は本当に素晴らしい騎士だよ。演習で討伐した魔物の肉を持ち帰って下町の人々に配るのも、今では当たり前のようになっているけれど、最初に提案して制度化して定着させていったのはシュヴァーン隊長だ。あれで下町の餓死者が格段に減って、冬場の伝染病発症率もだいぶ減ったんだよ」
「なにそれ。それはちょっと素直にすごいわね」
「率先して仕組みを作るのって、本当に大変だよね。僕、レイヴンのそういうところ、本当に尊敬してるんだ」

 フレンがシュヴァーンをやたら褒めちぎるのはいつものことだが、心からの言葉と少年少女の感嘆に、照れるを通り越していたたまれなくなってくる。

「ほほーぅ、そんなすごいシュヴァーンは一体どこに行ったんだろうなー…っと。エステルもこの前助けてもらったって話してたよな」
「そうなんです! 私がハルルに行くときにいつもの護衛の方がたまたま病欠だったみたいで、私は一人で歩いていたつもりだったんですが、街道で待ち伏せしていた盗賊に出くわしてしまって、その時隠れて付いてきてくれてたレイヴンが颯爽と現れて、こう格好良く「怪我はないかい、お嬢………」

「ああああ! もう! おっさんが悪かった!」

 レイヴンは溜まりかねて、気付いたらそう叫んでいた。
 何なのだ、これは。
 褒め殺しというか羞恥プレイのような状態に、思い切り叫んで秘奥義を放ちたいくらいには恥ずかしい。

「おー、おっさん、そんなとこに居たのか。ちっとも気付かなかったぜ」
「白々しい……分かっててやってたでしょ、ユーリ青年!」
「さあ、何のことだかなー」
「ずいぶんイイ趣味じゃないの」
「わざわざ地下牢で昼寝してるおっさんには負けるさ」

 軽口の応酬に口を尖らせながら身を起こし、寝台の上にあぐらを掻いたまま天井近くの窓をにらみ上げる。
 実際に見えるわけではないけれど、得意げな様子で不敵に笑うユーリがありありと浮かんだ。

「ほれ、おっさん、早く来ねーと続けるぜ? なあ、エステル」
「続けていいんです?」
「駄目です!」
「――では、早くここに来てください、レイヴン?」
「はいぃ!」

 にっこりと可憐で、それでいて有無を言わせぬ笑顔を向けられた気がして、レイヴンはその場に立ち上がり慌てて快適な寝床から飛び出す。

 くすくすと賑やかに笑う仲間たちの声がただ広い地下牢に反響して、レイヴンは口の端を引き上げた。

 悪夢を見なくなったのはいつからだろう。
 かつて耳を塞ぎたくなる雑音であふれていたそこは、今は愛しい笑い声に満ちている。
CLAP