銀色の仄かな光が降る。
 真綿のように柔らかに、鉱石のように硬く。
 冷たく澄んでいるのに、優しく暖めてくれる。

 そんな、銀色の月明かり。

 光を厭うように闇に沈んだ室内で、婚礼を控えた娘はそっと手を翳した。

 自分の小さな手の間に見える、白い月。
 途方もなく遠い上に、四角い窓に隔てられたそれは、もう物語や夢の世界と変わらない程に別世界のものだった。
 ――かつてそうであったように。

 時は戻せないと分かっている。
 それでも彼女は腕を伸ばした。

 焦がれて、焦がれて、触れたくて。

「――――メル……」

 彼女の銀色の月に、もう一度会いたくて。

銀色の約束

 夜の静寂にカタリと異音が入り込み、少女――エリーザベトはふと目が覚めた。
 幼い彼女がその部屋で一人きりで夜を越すのは、もう物心付いた頃からの習慣となっていたが、そんな風に目を覚ましたのは初めてだった。

「だ…誰……?」

 高く澄んだ声が怯えを示すように細かく震えた。
 賑やかな都会からは離れた辺境の村――更にその外れに立つ厳かな屋敷。
 屋敷に仕える人間もごく少数で、その彼らもとっくに寝静まった筈の深夜。
 平時であれば、そんな時間にあどけない少女の部屋で物音など聞こえる筈がない。

 エリーザベトは、眠気と不安の狭間でぎゅっと寝台の布団を握りしめた。

 風の音かもしれない。
 誰かいるのかもしれない。

 誰かいるとしたら一体誰だろう?

 絵本で読んだ、月夜にやってくるという妖精かもしれない。
 逆に、とても怖い、悪いものかもしれない。

 眠気と不安が、徐々に期待と恐怖に取って変わり、エリーザベトは強ばった表情でそっと寝台を降りた。
 いつも一緒に居る唯一の友達――人形のエリーゼを抱きしめて、物音がした窓の辺りを見つめる。

 暗い部屋にぽっかりと浮かび上がるかのように、四角く切り取られた空がある。
 月明かりに仄白く輝く世界……物心ついてからほとんど外に出たことのないエリーザベトにとって、その四角い空だけが唯一の世界だった。

 その世界の<外>からやって来るかもしれないものに、エリーザベトは震えた。

 脳裏に甦るのは、もっと幼い頃の記憶――ある日突然やって来た男たちによってエリーザベトは殺されかけた。
 森の賢女に助けられて事なきを得たと聞いたけれど……つまり、その賢女がいなければ死んでしまっていたということだ。
 ――エリーザベトの母ソフィのように。

 ほとんど覚えていないけれど、体は記憶しているのかもしれない。
 本能的な恐怖が甦り、エリーザベトは半歩後ずさった。

「誰……妖精…さん? 誰かいるの……誰か…………」

 沈黙の闇に堪えかねて、エリーザベトはそう問いかけた。
 しかし喋る度に恐怖が増してきて、次第に涙声になる。

 やがて大きな目にも涙が溢れそうになった頃、不意に四角い窓に影が差した。

 ひょこりと頭のようなものが窓の下から現れて、赤い二つの光が瞬きした。
 目だ――思った刹那、一瞬エリーザベトと目が合った。

 しかし一呼吸後には、それは驚いたようにまた居なくなって、エリーザベトはあまりに一瞬のことに言葉を無くす。

「あ…待って……待って! お願い!」

 今度は窓の横の方で影が動き、エリーザベトは慌てて声を張り上げた。

「わたしはエリーザベト! あなたは!? あなたの名前を教えて!?」

 なぜこの時、こんなに必死に呼び止めたのか、後になってもエリーザベト自身分からなかったが、とにかくそれが功を奏し、影はまたおずおずと頭を覗かせた。
 赤い目に銀の髪――他の人には見たことのない色彩だったけれど、特に恐怖は感じなかった。

「おうちはどこ? 村に住んでいるの? ――そうだ、わたしとお友達になってもらえないかしら。本で読んだの。友達ってね、仲良しで温かくてとても楽しいものなんですって!」

 話している内に夢中になってしまったエリーザベトは、はっとして赤い目を見返した。
 しかし相手も、呆れているとか困っているという風ではなく、ただ不思議そうにこちらを見ている。

 エリーザベトがゆっくりと歩み寄って窓を開くと、近くの枝に乗っていたらしい相手は、ふわりと風のように部屋の中に降り立った。

 屋敷の人間以外で、初めて閉ざされた部屋に入った人――
 <外>の世界からやって来た人――

 その人は、エリーザベトと同じくらいの年の男の子だった。
 呆然と見つめるエリーザベトの前で、彼は月光のように仄かな優しい笑みを浮かべ、白い手を差し出した。

「ぼくの名前はメルツ。よろしく、エリーザベト」

 キラキラと、月に照らされた埃が星のように煌めいてエリーザベトの目を射た。
 それが、エリーザベトと彼女の銀色の月との、幼く儚い出会いだった。






「メル……貴方は、そこに居るの…?」

 感情のない声は、淡々とした呟きとなって深い闇へと落ちていく。
 光に満ちた過去、縁に腰掛けて時間を忘れてお喋りをし、いつかの約束もした野薔薇が咲いた井戸――今は薔薇どころか虫一匹枯れ果てた朽ちた井戸。

 エリーザベトはそこにかつての赤とは対照的な白い薔薇を手向けて投げ入れ、吸い込まれていく深淵を見つめた。
 周りは何の音もない……静寂が支配する森。

 傍らに立つ教会は以前のように母子が住んでいることもなく無人で、それどころか村自体が黒い病によって死滅してしまった。
 今は物言わぬ無数の十字架に囲まれた墓場――それが、かつてエリーザベトが幸せな時間を過ごした場所だった。

 メルツと別れてから少し後に村に最初の黒い病が現れて、すぐにエリーザベトは別の場所に移された。
 それから驚異的に広まった病が村を完全に呑み込み、無人になって数年を経てようやく、エリーザベトはこの場所に足を踏み入れることを許されたのだ。
 輿入れ前の唯一の願いとして。

「貴方は、幸せだったのかしら」

 呟きはただ虚しい色を宿して零れた。
 詳しいことは分からないが、メルツの母であるテレーゼが魔女として火刑に処され、メルツ自身はこの井戸に落ちて死んだと聞いた。
 エリーザベトと約束をして別れてから、すぐのことだったと言う。

 幼くして無為に命を奪われ、幸せだった訳が無い。
 けれど。

 エリーザベトはゆっくりと首を振った。
 少なくともあの幸せに満ちた日々は、メルツにとってもそうであったに違いないと、そう確信出来るから。

「ねぇ、メル……」

 呼びかけに、かつての笑い声が聞こえた気がした。
 かつて……メルツと出会ってからの日々。


 友達と外に遊びに行く――少し前までなら考えもつかないような奇跡の日々を、幼いエリーザベトはこの村で送った。
 メルツと出会ってからというもの、彼女の今までの人生や思考をひっくり返すような驚きと楽しさの連続だった。
 彼はエリーザベトの命の恩人である"森の賢女"の息子だったから、屋敷の人間もエリーザベトを連れ出すのを黙認してくれていたように思う。
 それすら、「私たちはこうして出会う運命だったのね」などと覚えたての『運命』という言葉を使って無邪気に笑い合ったものだった。

 メルツと会う時は、いつも日が落ちて暗くなってからだった。
 彼の綺麗な赤い目は光に弱いらしく、エリーザベトも明るい内から出かけて人に見つかる訳にはいかなかったので、そんなことでも二人は事情が一致していた。

 それぞれの特殊な境遇から、互いが初めての友達だった。
 同じ年頃の友達と一緒に何かをする――気持ちを共有する――そんなことすら生まれてから一度も体験したことのない二人は、手を取り合って一緒に歩くだけで楽しくて仕方が無かった。

 キラキラと輝く月と満天の星屑の下で。
 初めての友達と温かな手を繋いで。
 どこまでも自由な<外>で足下の同じ花を眺めて、一緒に綺麗だねと言って笑った。

 その輝かしい日々は、余りにも幸せで満たされていた。
 お互いに今まで足りなかったものが、二人の間には全てあった。

 エリーザベトの髪に花を飾ってかわいいと笑ったメルツと、ありがとうと言って笑ったエリーザベト。

 別れの日、きっと迎えに来るという約束をメルツはくれた。
 それはお互いにとって余りにも自然で、必要な約束だった。
 もうあの幸せを知らなかった頃には戻れなかったのだから。


 思い出を追いかけるように井戸の中に手を伸ばした瞬間、今まで聞こえていた幼い二人の笑い声がふつりと消えた。
 エリーザベトはゆっくりと目を開く。
 目の前にあるのは、会いたくて堪らない銀色の光ではなく、どこまでも闇をまとった深淵だった。

 不意に、今まで押さえ込んでいた……諦めていた想いが、衝動となって沸き出した。

「ぜったい……ぜったい、迎えに来…………」

 最後まで紡げない言葉と、落ちていった哀しみの涙――

 エリーザベトは、井戸の底で安らかに横たわるメルツにその涙が滴となって降りかかる幻想を見た。
 月のように遠い水の底に、月光のように仄かに降る幻を。

 エリーザベトは、愛しい彼を見つめるように微笑んだ。

「――今のはね、私の幸せよ。貴方に、私の幸せをあげるわ……メル」

 月の下で出会い、その手を取り合った瞬間。
 きっと定められてしまったのだ。

 ――《彼以外もう愛せない》――

 幼い頃の初めての友達――恋という自覚すら無かった幼い想い。

 けれど、不完全な二人が一緒に居ることで満たされてようやく自由に笑い合えたように、彼はエリーザベトが飛ぶための翼であり、世界を見るための瞳だった。
 それを亡くしたエリーザベトは、もう自由に飛ぶことも、<外>を見ることも出来ない。
 メルツを亡くすことは、あの幸せを亡くすということだから。

 後はかつてと同じように、狭い切り取られた世界だけをただ盲目に飛び回るだけ――
 鳥籠で飼われる羽を切られた小鳥のように。
 いつか地に墜ちるその時まで。

 その時までは、メルツのように……仄かな月光のように、精一杯羽ばたいてみせるから。
 だから、いつかその時には。

「ぜったい……絶対、迎えに来てね、メル」

 哀しみに満ちた……けれど喜びにも満ちた恍惚とした約束が、光を厭うように闇に沈んだ深淵へと墜ちる。

 手を伸ばした井戸の底で、銀色の光を見た気がした。

 別の世界に隔たった其処で、彼女の銀色の月が笑ったかのように。
 真綿のように優しく、冷たく、頷いてくれたかのように。
CLAP