数多の地を廻り、幾多の生を目にしてきた。
運命に翻弄され続けながらも、足掻いて抗って……そして、全てを失った。
「ハッ……お笑い種だな」
彼には――エレフセウスには、もう何も無かった。
全ての愛したもの、半身さえも失い、残るのは空っぽの入れ物のみ――
<――ヤァ息仔ョ>
「!!っ誰だ!?」
今まで間違いなく一人きりだった森の奥地で、その存在は突如現れたとしか思えなかった。
とっさに飛び退って振り返ったエレフセウスの目に映ったのは、彼のそれを映したかのような紫水晶の瞳。
今まで己とその半身にしか見たことの無いその静かな双眸に、魂が縫いとめられた気がした。
闇を纏った……いや、黄昏そのものである男は、淡々と喉を鳴らす。
<失ゥコトノ、堪ェ難キ痛ミ……>
深く紡がれた言葉に、ぴくりと心の琴線が揺れた。
<ソノ痛ミニモ、モゥ慣レタカィ?>
「慣れる……?」
あの心を二つに引き裂かれたような激しい痛みに、慣れることなどありはしない。
慣れるとは、即ち諦めること。
全てのものをあるがまま受け入れ、抗わずにただ流されること。
「そんなもの……!」
もうずっと前から、嫌な予感がしていた。
急いで向かった詩人の島。そこで聞かされた信じられない言葉。
辿り着いたその泉に漂っていた懐かしい衣服……ずっと探し続けた半身の…魂の失われた骸。
飛び込んだ泉の水は刺すように冷たかったけれど、青白い半身――ミーシャの体の方がもっとずっと冷たくて……
心臓が絶望に凍りつく瞬間に上げた咆哮。
それは、まるで永遠のように続く地獄だった。
水面に映る月はミーシャの安らかな顔を照らし、死して久しぶりに見るその顔はこの世ならざる美しさがあって。
エレフセウスの、紫水晶の瞳に焼き付いた。
あの時からエレフセウスの時間は止まったまま、今なお、激しい痛みに苛まれている。
生きながらに死んでいるのと同じ。
<オ前ニハ、何モ無イノダ…>
確かに何も無い。けれど……そう、慣れることなど出来はしない…!
<生命トハ失ワレルモノ……Θ以外ノ約束ナド交ワセハシナィ>
それがこの世界の理。
ならばなぜ、母なるmoiraは生命を運び続けるのか。
闇の男は、満足するように、しかし悲しそうに目を伏せて……そして消えた。
後に残されていたのは黒い剣。
何も無いと思っていた己の内に復讐という激しい憎悪を見つけ、エレフセウスは口の端を持ち上げて剣を取った。
そして不意に気づく。
「そうか、アレが"死"か」
幼い頃から見てきた黒い影。聞いていた昏い声。
間違っているなら、正せば良い。
不平等なものは平等に……この世界の全てに平等なる死を。
刈られるだけの命に、刈り取る権利を。
幾度も立った戦場は、どこもかしこも醜い争いばかりだった。
己の都合で、欲望のために殺し合う人々――
「もう、たくさんだ……」
「――紫眼の狼! この場で叩き殺してくれる!」
戦場に降り注ぐ雨。
背後から襲い掛かる殺気。
「いつまで繰り返すのだ……」
背中に向けられて振り下ろされた刃を一刀の元にその持ち主ごと斬り捨てて、エレフセウスは天へと叫んだ。
「――Moiraよ!」
答えるものも、応えるものも居ない。
ただ振り続ける雨が、あの日のようにエレフセウスの体温を奪っていく。
そうして復讐という衝動と目に見えぬ何かに導かれるようにして転戦し続け、エレフセウスは一人の男と対峙した。
「勇者デミトリウスが仔、レオンティウス。私が相手になろう!」
エレフセウスとてその名前は聞いたことがあった。
世界の王になるという神託を受けたアルカディアの[雷神域の英雄]。
そして――
「奴が…憎き地の国王……ミーシャの仇……!!」
ずっと探し続けてきた仇が目の前に居る。
だからだろうか……なぜか心を揺さぶられるその男を前に、震える手を叱咤して剣を抜いた。
「望むところだぁ!!」
体の奥に流れる血が沸騰し、バチバチと大気が弾ける。
レオンティウスと剣を打ち合う度、周囲で雷が音を立てた。
(くっ……この男、強い……!)
品行方正の育ちの良い王子様――それがエレフセウスの感じたレオンティウスの印象だった。
そんな男に遅れを取るなど思わなかったというのに、向かい合ってそれが間違いであったことを知った。
(こいつも、闇を知っている――)
血に染まりながら戦場を渡り、冥闇に落ちたことのある者だけが持つ瞳――
「アメティストス……同胞(へレーネス)のお前が何故、バルバロイの侵略に加担するのだ」
あの闇を知っていながら口では綺麗事ばかりを言うレオンティウスを、エレフセウスは笑った。
知っていて尚、光を持ち続けていられる男を憎んだ。
「祖国が私に何をしてくれた……愛する者を奪っただけではないか! 笑わせるなぁ!!」
「おやめなさい!」
怒りのままにエレフセウスが槍を投げたのと、その声が飛び込んできたのは同時。
「は、母上っ!?」
槍は雷を纏って雷槍となり、割って入った女諸共レオンティウスをも貫いた。
急速に生気の失われていく女の瞳がエレフセウスを捕らえ、彼は大きく目を瞠った。
言いようの無い懐かしさと息苦しさが胸を満たす。
「レオン……エレフ……おやめなさい………」
「母上……Moiraよ……」
誰も知らない筈の[アメティストス]の本名を知っていた女性と、彼女を母と呼んだレオンティウス。
その二人が事切れるのを、エレフセウスは呆然と見つめていた。
レオンティウスを案じて馬で駆けてきた女性も条件反射で斬り捨てて……そしてやっとエレフセウスは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
血まみれになった自分の手を見つめる。
震えて使い物にならないそれを握り締めて、縋るように胸元を掴んだ。
この身が、雷の神力を扱えることを、もうずっと前から知っていた。
ただそれの意味する所から目を背け、ただ復讐を果たす為に戦い続けてきた。
だが、それがどうだ――?
「復讐を果たした今、この手に何が残った……?」
曇った眼で討った相手は、実の母――そして実の兄。
「は……はは……ははははは! ――お笑い種だ……!!」
乾いた声が、誰も居なくなった戦場の空気を揺らす。
恨みの無い女まで手に掛けて、全てに死を与えて……成したことは、エレフセウスが憎んだものと何も変わらない。
そして残ったのは、ただの――絶望。
「Moiraよ………」
血を分けた肉親の血にまみれた剣を抜き、エレフセウスはそれを高々と天に掲げた。
――これで満足か……何もかもを徒に与えて、気まぐれに奪って…!
その紫水晶の瞳が"死"に染まり、完全に冥府を統べる"死"そのものと重なる。
「これが、貴柱ノ望ンダ世界ナノカ――!!」
その後、地上に残されたのは無数の争い。
それは、多くの哀れな人間の生命を死へと葬り去るまで、決して消えることは無い。