プツプツと途切れ途切れに意識が浮上する。
ノイズがかった視界がクリアになるように、次第に神経が澄み渡って行った。
ひんやりとした風が頬に当たっている……
そこで初めて彼は、空中を落下していることに気付いた。
雲を切り、大気を裂いて落ちていく。
けれど、恐れは無かった。
彼は知っている。
その背に翼は無くとも、彼が天空に住まう人々の眷族であるということを――そしてその意味を。
やがて見えてきた場所は、彼も良く知る城――天空に浮かんだ美しい城だった。
ふわりと体が浮き、何事も無かったかのようにその麗しい庭に降り立つ。
そして感じた気配に、はっとして振り返った。
そこには、威風堂々としたドラゴンが、巨躯に似合わぬ静けさで佇んでいた。
「……マスタードラゴン」
呟きは静かに染み渡って、その場に満ちた。
何か言わなければ、と思う。
天空の王たる目の前の存在に、彼は確かに言いたいことも言わなければならないこともあった筈だ。
しかし静寂ばかりが降り積もり、それが終わりを迎えたのも唐突だった。
不意に泉に噴水が湧き上がり、鏡のように彼の姿を浮かび上がらせる。
翼をモチーフにした剣に防具を装備した青年――
『彼』は目を見開いた。
それは、紛れも無く彼自身の姿。
そして同時に、『彼』が半生をかけて探し続けた存在でもある。
――この世にたった一人の、伝説の勇者――
「マスタードラゴン……これは……」
『彼』は思わずそう問い掛けていた。
彼自身、自分が勇者と呼ばれる存在なのだということは分かっていた。
けれど、『彼』は違うのだ。
勇者でなど有り得ない。
勇者でなかったからこそ、『彼』も、『彼』の父も、孤独に世界を放浪し続けた。
翼が象られた伝説の武具――いま彼がそれこそ羽のように身に付けている天空の剣や兜――
これらが装備できなかった時の悔しさはきっと生涯忘れないだろう。
勇者で無かったからこそ、勇者を探すために流離い続けた『彼』――
そして、彼は――伝説の勇者である彼もまた、孤独だった。
勇者であるからこそ、故郷を滅ぼされ、大切な人を失い、世界を旅し、魔族と戦わなければならなかった。
その使命が終わろうとする今ですら、言いようも無く孤独である。
「おお、これは……珍しい客人だ。我が天空の民の体を器とし、何用にて参られた、お客人」
向けられた言葉の意味は彼には理解出来たが、『彼』はある種の違和感を覚えた。
『彼』の知るマスタードラゴンは、見た目は変わらないが、もっと砕けたイメージである。
そう、例えば、人の良さそうな人間に化けてからかってくるくらいには。
「……私は、貴方とお会いしたことがあります。マスタードラゴン」
静かに『彼』が告げると、マスタードラゴンは目を細めた。
「なるほど。時の彼方よりの客人であったか」
「つまり……ここは過去?」
「客人からすればそういうことになろう。汝自身は我らの眷族では無いようだが……清き光の力を感じる。縁深きものに導かれたか」
『彼』の脳裏に蘇るのは、太陽のように明るい髪色の妻と子どもたち……
勇者と呼ばれる我が子。
「……たった一人というのは、どれほどの孤独でしょうか」
彼がどれだけの過去に生きた勇者であるのか『彼』には分からなかったが、両方にまたがる長い時…それ以上を、マスタードラゴンは生きるのだろう。
その孤高たる天空の王になら、本物の孤独というものも分かるかもしれないと思った。
「――孤独を知るものは孤独にはなり得ない。お前にも、さだめに導かれし仲間たちがいるだろう。それは汝もまた然り」
確かにいずれ離れゆくのだとしても、彼には生死を分かち合う仲間が居る。
『彼』にも……『彼』の勇者にも、愛し愛される大切な家族は居る。
それでも。
「それでも、勇者として生を受けるということは、生まれながらにして孤独ということなのでは」
世界でたった一人の存在――
自分以外には誰も勇者で有り得ない。
誰にも理解できない。
『彼』はかつて、血を吐くほどの想いで勇者を探し求めていた。
『彼』の父も長い時間、その命をかけて探し続けた。
けれど、我が子が天空の兜を装備出来た時――ようやく勇者を見つけた瞬間、あれほど絶望に胸が痛んだのは。
不意に、マスタードラゴンの手が差し出され、その爪が彼の額に触れた。
そして紡がれた声は、天空の王のものでは無く、彼の口から洩れた言葉。
「グランバニアの王。光の民の血を色濃く受け継ぎし継承者。勇者の父。魔物とも心通わす事の出来る唯一の人間」
『彼』は目を見開く。『彼』が彼のことを知っているように、その逆も同じなのだろう。
「―――君も、世界でたった一人だ」
彼から『彼』へ向けられた言葉。
過去の勇者から未来の勇者を求める者への言葉――
「君だけじゃない。皆、誰だってこの世界にたった一人の存在だ。だから――」
「汝は、その答えを知っておろう」
不意にぴったりと重なっていた意識がずれて、『彼』は彼と向かい合っていた。
大地を現したかのような緑の髪と瞳――
天空の武具を纏った青年は、ただどこまでも穏やかに笑みを浮かべていて。
その瞳は、孤独であると同時に確かな光も湛えていた。
「…うさん! お父さん!」
「こんな所で寝てたら風邪引いちゃうよ!」
「ん……?」
体を揺すられ、『彼』は――現実の時に戻った彼は、目を覚ました。
目の前には、可愛い双子の子供たちが居る。
「あれ……? ここは……」
木漏れ日は優しく、争いの影も無く穏やかで……夢のように美しい場所。
夢で佇んでいたのと同じ場所――天空城。
「いやだ、寝ぼけてるの?」
「ビアンカ……」
困ったように、けれど優しく微笑む伴侶の瞳に確かな愛情を感じ取って、彼はふわりと笑った。
「伝説の勇者に会ったよ」
「え?」
「お父さん?」
訝る妻と子供たちを一度に抱きしめ、その温もりに目を閉じる。
「温かい……大丈夫……」
呪文のように呟いて、この世界の勇者たる我が子を見つめた。
夢で出会った『彼』と同じように、天空の武具を身に付けている――けれどその瞳には、まだ孤独の色は見られなかった。
出来ることなら、このままずっと知らないままで――
以前まではそう願っていた。
けれどそれは、大地の色を纏った『彼』のお陰で変わった。
「孤独を知るものは孤独にはなり得ない―――でしたね、プサン」
「おや、随分と懐かしいことを覚えておいでだ」
いつの間に現れたのか、人型を取った天空の王は朗らかに笑う。
「あの子に会って、貴方に得るものはありましたかな?」
「――そうですね……自分が馬鹿だってことが分かりました」
自嘲気味に呟いた途端、腕の中の子供たちが勢い良く顔を上げた。
「お父さんは馬鹿なんかじゃないよ!」
「そうよそうよ! お父さんは王様だし、カッコイイし、とにかくすごいんだから!」
「……そ…そうかい? …ありがとう」
嬉しさにふわりと微笑むと、双子は赤くなって口を噤んだ。
その傍らで、彼の様子がおかしいことに気付いたビアンカが、わざとらしく溜息をつく。
「……あらあら、お父さんばっかりモテモテねぇ」
「おっ…お母さんもすごいよ!」
「う…うん! キレイだし、強いし、ちょっと怖いけど……」
「何ですってぇ?」
キャーキャーと子供のように騒ぎ出す家族に、彼も感謝と共に心の底から微笑んだ。
この世界にたった一人――
それが運命でもさだめられたものでも。
人を愛するという心さえ忘れなければ。
「君も、幸せに――」
我が子の遠い先祖かもしれない緑の勇者に向かって、彼は光を湛えた夜空色の瞳を天空へと馳せたのだった。