天空の瞳

大地に根を貼った畑は潤い、自然に湧く温泉を中心として、人々の顔は平穏に満ちている。

世界で跋扈するモンスターの襲撃も受けること無く、密かに…しかし確実に甦ろうとしている魔王の影も届かない。

――長閑な村だった。

彼が心の奥ではずっと欲していたかもしれない幸せが、そこにあった。

そして、彼がずっと記憶の底に大事に留めていた少女も、そこに在った――


「……えっ………ロト!?」

「! ビ…アン…カ……?」


数年ぶりの思わぬ再会に、お互い目を見張って固まった。

知っているのは、もう随分昔……まだ彼――ロトの父であるパパスも健在で、偉大な父の元ぬくぬくと過ごしていた子供時代。
一緒に古城のモンスター退治をした日の事は、遥か昔のようでも、つい昨日のようでもある。

ロトの知るビアンカは、おてんばで気が強く……それでも、誰よりも優しい小さな少女。
目の前の美しい女性には、確かにその面影もあったけれど………

双方驚いたままの長い沈黙を破ったのは、二人共通の友人であるキラーパンサーだった。

くぅん…くぅぅん……

「このリボンは……――チロル!?」

擦り寄るチロルの首に見つけた赤いリボン……それはまさしく、幼いビアンカが別れの際につけたものだ。

かなり成長して、立派なモンスターらしい外見になったチロルに戸惑ったのは一瞬で、ビアンカはすぐに満面の笑顔になってその毛並を抱き締めた。

「―――――」

ロトは、相変わらず茫然とその光景を見守って、そっと…目を閉じた。

――ああ、ビアンカだ。





「え? 結婚する為に水のリングを探してる? まあ…」

ビアンカの父・ダンカンも交えて近況を語り合い、現在の目的を告げた。

説明しながら、今更ながらに”結婚”という事柄が現実味を持って頭に浮かぶ。

サラボナのルドマンの娘――確かフローラという名前だったか。
淑やかで女性らしい清楚さを持った美しい娘だった。

別段、彼女に不満や問題がある訳ではない。
ただ、生涯を通して愛する伴侶を持つということに、実感が湧かなくて……

ロトは母親を覚えていない。
それでも、パパスの話から父と母は深く愛し合っていて、その結果として自分を産んでくれたのだと分かっている。

いつかは、自分もそのような女性に巡り合いたいと思っていた。
けれど――……

――「ルドマンさんは、家宝として天空の盾を持っているらしい」

サラボナで聞いた噂話だ。
フローラと結婚した者に家宝を譲るという話も。


ロトの脳裏には、常に各地を共に旅したパパスの横顔がある。


――「ロト、ツライか?」

前を見据えたまま、歩みを止める事無く父は問う。
否、と答えると、その瞳が少し翳った。

――「すまないな……幼いお前にまで気をつかわせて。だが、マーサを……お前の母を助けるまで、もうしばらく辛抱してくれ」

頷きながらも、違うのに――といつもロトは思っていた。

我慢なんてしていない。ツラくなんてない。
大好きな父と一緒に旅をすること――それはロトにとっては限りなく幸せなことだったのだ。

旅の目的は、母を救い出すこと――それは、幼いロトも理解していた。
その手段として父が何を考えているか、そこまでは皆目わからなかったが、それでも何の不安も無かった。
父の逞しい腕が隣にあるだけで…広い背中が前にあるだけで、怖いものは何もなかった。


あれから約十年――、その父も亡き今、甘えは許されない。
亡き父が命を掛けて成そうとした事を、代わりにやり遂げなければならない。

サンタローズの奥深くに大事にしまわれていた天空の剣。
天空の武器・防具は、伝説の勇者にしか装備できない。
そして、伝説の勇者にしか行けない場所――そこに、母は居る。

推測だが、今はそれを目指すしかない。
その為に、天空の盾は絶対に必要だ。

それを得る為であるならば、結婚くらい何でもない――……


「――ト、ロトってば!!」

「え?」

ふと我に返ってみると、ビアンカが間近から覗き込んでいた。

怒った時に頬を膨らませる仕草なんて、昔のままだ……
暢気にそんなことを考えていたから、彼女の言葉もうっかり聞き流す所だった。

「あたしも付き合うわ、滝の洞窟。水門を開けられるのは村の者だけだし、ロト一人じゃ心配だからね!」




何故、こんなことになったのだろう……

溜息をついたロトの後ろでは、噴水が静かに流れている。

時刻は夜半……既に夜明けだ。
旅の仲間であるチロルを始めとしたモンスター達は、町の外にある馬車で眠っている。
ロトには宿屋の一室が用意されていたが、とても眠る気になどなれなかった。

――このフローラか、ビアンカさんか。どちらを妻にするか、明日答えを聞かせてくれ。

ガハハと笑ったルドマン。
悪い人ではないが、今回ばかりは怨めしい。

夜の初めに、散歩がてら町を一通り回ったが、人々は「羨ましい」「男冥利に尽きる」「どっちを選ぶんだ」と興味深々に好き勝手を言う。
フローラも、ロトの選択に任せるようなことを言っていたし、ビアンカも………

――ロト

月明かりだけの室内で、そっと微笑んだビアンカ。
まるで別人のように儚げで、なぜか頭から離れない。

はぁ……

ロトは深く溜息をついて立ち上がった。

日は昇ったばかりで辺りはまだ薄暗く、当分町の人々は起き出して来ないだろう。

ヒュッ……
指を口に当てて、ほとんど音の無い合図をすると、やがて馬車のある辺りからパタパタと小さな影が飛んで来た。

「よーし、偉いぞ、コドラン」
杖に止まらせて軽く撫でてやると、生まれたばかりのドラゴンキッズは小さく鳴いた。
先日森で拾った正体不明の卵。数日すると何と自力で孵化した。
以来、いろいろと教え込んでいるのだが、最近ではそれが楽しみにもなっている。
いい気分転換になるだろう――そう思って呼んだのだが、

「まぁ、かわいい!」
黄色い声に振り返ると、噴水の脇にはビアンカが佇んでいた。

「ふふ、相変わらずロトは優しい目をするのね」
あっという間にコドランを奪われてしまい、手持ち無沙汰になった右手で頬を掻きながらロトは瞬きした。

「優しい目?」

しかしその質問はぽかりと宙に浮いたまま放置された。
ぎゅうと抱き締めたビアンカと、そこから逃れたコドランとの追いかけっこが始まったからだ。
周りをぐるぐると飛び回るコドランに翻弄されるビアンカを眺めながら、ロトは一つ息をついて話し出した。

「こんな事に巻き込んで足止めして……悪いことをしたね。ダンカンさんも心配してるだろうな」

「お父さんのことは気にしなくていいわよ。三日やそこらじゃ帰らないって分かってるわ」

「いや、きっと心配してるよ。それに、ビアンカも……いきなりこんな事になって迷惑だろう?」

こんな言い方は卑怯だ……。
何がどう卑怯なのか……説明はできないけれど、そう感じる。
ロトは自嘲気味に溜息をついた。
穏やかで長閑な村。笑顔を浮かべた人々。

「あの村は本当にいい所だ。あそこなら、当分モンスターの心配もなく平和に暮らせるよ」

ビアンカには、幸せに笑っていて欲しい。
あの、モンスターの闘いとは無縁の箱庭のような村で……

「魔物や血生臭い事とは無縁に暮らせる」

どう考えても茨の道を歩む自分なんかと、関わらない方がいい。
ロトには、使命がある。
天空の武具を揃え、勇者を探し出し、母親を助ける――
その為の結婚をし、また険しい旅に出る。

「……ロトの目は、昔と同じで優しいわ」
顔を上げると、コドランを抱きかかえたビアンカが、目の前に立っていた。
その両手がコドランを解放し、そっとロトの両頬に添えられる。
間近で…視線が重なった。

「だけど、とても哀しい色をしている」

辛そうに歪められたビアンカの瞳が、きらりと揺れた。
スカイブルーの瞳は、不思議と安らぎを与えてくれる光を宿していた。

「そんなロトは、見たくない…」
呟いたビアンカを、ロトは羽根に触れるかのように抱き締めた。

不思議とこの時、脳裏には使命のことも、闘いの事も無く……
ただ、ビアンカのぬくもりだけが、ロトの氷を溶かした。

「一緒に……居て欲しい………ビアンカ」

そっと身体を離すと、ビアンカは真っ直ぐにロトの瞳を見つめて……微笑った。

「ロトの目は不思議ね……あの空よりも遥か天空の色――あたしの大好きな色だわ」





二人が愛し合い、生を受けることになる生命。
天空の瞳を受け継ぐ命は、やがて世界を救う――
CLAP