※この小説は、BF最終回の結末から逃避した設定になっております。
  そんな逃避設定は許せない! というお方はご注意下さい。





 二人の少年が、祈っていた。

 場所も、時間さえ、違っていた。

 けれどそれは、何よりも無垢な祈りだった。

 あらゆる欲望を剥がしていって、一番中核に残った願い。

 人間の本能的な「自らの生の存続」よりも優先される望み。



 ――お願いだ… あいつを連れていかないで下さい
    神様…――― おれをかわりに……!


 ――神様…誰でもいい…… 彼の魂を連れ去らないで…彼を助けて…
    代わりの命が必要なら、どうかぼくを――!

innocent

 英二がその報せを聞いたのは、彼が日本の成田空港に到着した時だった。
「え……伊部さん、いま……何て……?」
「――アッシュが……撃たれたって」
 チャーリーからの国際電話に耳を当てながら、噛み締めるように言う。
「今も意識不明の重体で……危篤のような状態だそうだ……」

 撃たれた――意識不明――重体――……キトク――――

「ア…シュ……が……?」
 全身から、全ての血が逆流したような気がした。
「英ちゃん…!?」
 伊部の声を遠くに聞きながら、英二の意識は深い闇へと沈んだ。


 英二が目を覚ましたのは、ちょうど病院のベッドの上に移された時だった。
「――! 伊部さん! アッシュは……!」
 傍の医者や看護婦を通り抜けて、真っ直ぐ自分を見上げてきた視線に、伊部はただ首を振ることしか出来なかった。
「まだ……何とも………」
 その言葉に、英二の顔は強張ったまま下を向く。
 点滴を準備する医師の腕時計を覗き込むと、空港で倒れて1時間程が経過したようだ。
(ああ……アッシュ……!)
 英二は、腹部から全身に鈍く行き渡る痛みなどお構い無しに、唐突に身を起こした。
「あなた、急に起きたりしちゃ……」
「NYに戻る!」
 看護婦の制止を振り払って告げられた言葉に、その場に居た全員が目を丸くする。
「え…英ちゃん……」
「今すぐ戻らなきゃ……! 伊部さん、お願いです。僕を空港へ……」
「それは駄目だよ、英二君」
 唐突に掛けられた英語に、反射的に見上げられた英二の瞳は、驚愕に大きく開かれた。
「あ…あなたは……!!」
 病室の入口に立ち塞がっている長身――見間違える筈も無い。アッシュがブランカと呼んだ、彼の”教師”だったという人物。
「空港から、倒れた英ちゃんを運んでくれたんだよ」
「……なぜ…日本に……?」
 伊部の計らいで、病室には英二とブランカだけが残された。
 警戒させていると知ってか知らずか、ブランカはベッドサイドの椅子に腰掛けて英二に微笑んだ。
「君が帰国する前日、私はアッシュに会った」
「え……?」
「あいつはまたいつもみたいに、自分に必要不可欠なものでも、それを頑なに拒んでいてね……私は、昔の馴染みで…というよりは、昔の自分を見るようで、何とかお節介を焼いてみたくなった。そんな時、空港で帰国する所だった君を見つけたんだ」
 思わず、カリブ行きをキャンセルして、ジャパン行きに乗ってしまった、と話す彼の微笑は、そこまでしか続かなかった。
「けれど、こんなことになるとは……。私は、君にあの子の傍に居て貰いたくて説得に来たつもりだったんだが――皮肉だ。こうなっては、逆にそれを止めなければならない」

「分かってくれるね。あいつは――犯罪者なんだ」


 ブランカの出て行った病室に一人残されて、英二は茫然と天井を眺めていた。
 アッシュは以前――……
――「アッシュは以前、君が撃たれた時も、同じ理由で君に会いにいけなかった。今度も、いくら立場が反対だからと言って――いや、反対だからこそ、あいつはそれを望まないだろう」
 ブランカの言葉を頭の中で繰り返しながら、英二は空を見上げた。
 この青い空は、地球の裏側にまで繋がっているだろうか――……
(こうしている間にも、アッシュは……)
「――アッシュ……!」
 その名を呟くだけで、息が詰まった。
 涙が溢れて、もう空の色さえ分からない。
 こんなにも、今すぐ傍へ飛んでいきたいと、心が悲鳴を上げているのに。
(アッシュ――どうか、死なないで)
「神様……誰でもいい……」
 そんなことは、問題じゃない。
「どうか、彼の魂を連れ去らないで…彼を助けて……」
 これからようやく幸せになれる筈の魂を、どうか無に帰さないで――
「代わりの命が必要なら、どうかぼくを――!」



 英二の祈りが天に届いたのか、アッシュは奇跡的に持ち直したという報せが翌日日本にも届いた。
 しかし、いずれにせよ楽観できない容態であるのには変わりない。
 やはりすぐにでもNYに戻ろうとしていた英二だったが、電話の向こうのマックスはこう言った。
「アッシュの奴、意識はまだ無いんだが、時々うわ言のようにこう言うんだ……」

 ――Eiji , don't come here.――

「なぜ……なぜなんだ、アッシュ…!」
 マックスもチャーリーも伊部も、英二の体調を考えて、もうしばらく日本に留まっていろと言う。
 だが、英二にはもう一秒だってじっとしていられなかった。
(こんな時こそ、アッシュの傍にいなくちゃならないのに――傍に居たいのに…!)
 だから、病院を抜け出したのだ。
 ガウンを纏っただけの格好で、取り敢えずタクシーに乗り込んだ。
 悪いとは思ったが、母親の隙をついてカードを失敬してきたので、旅費は問題ないだろう。
 しかし、空港に着いた英二を待っていたのは、優しげな長身の男だった。
「やぁ、君とはよくよく空港で会うね」
「……Mr.ブランカ……」
 彼は荷物を持っていて旅行者スタイルだったが、偶然ということは無いだろう。
「……お願いです、行かせて下さい。ぼくはどうしても……」
「どうしても……?」
「どうしても、アッシュと共に在りたいんです! 例えこれがぼくだけの我侭だったとしても……!」
「Good」
「え?」
「英二、君はアッシュよりもずっと素直だ」
 そして、ブランカは英二に大きな右手を差し出した。
「さぁ、行こう。大丈夫。君のご両親や友人には、ちゃんと了承を得て来たから」

 青い空に、白い飛行機が飛び立った。
 日本の少年のイノセントな祈りを乗せて――






 胸元に暖かな温もりを感じて、アッシュはアイスグリーンの瞳を開けた。
 視界に入ったのは白い天井。聴覚が捉えたのはバイタル音と点滴が落ちる音だけだった。
「……?」
 薬臭く白い空間。ひどく不安定な違和感がこみ上げてきて、アッシュは視線を巡らせた。
 清潔なカーテンで仕切られていることから、ちゃんとした病院のICUの中らしい。
 差し障りの危険はないと判断すると、アッシュはやがて、温かさの元を辿るようにして胸元を探った。
 布団の中でカサリと触れた数枚の紙片。
 途端に押し寄せる安心感と、消え去る違和感。
 それを目で確かめることもしないまま、満ち足りた顔でアッシュは再び眠りについた。



 マックスがその報せを持ってきたのは、アッシュが目覚めた翌日、入院して五日目のことだった。
「アッシュ! 英二が来るぞ!!」
「……英二が?」
 英二は、アッシュが刺されたあの日に日本へ帰った。つまり、まだ帰国して4~5日しか経っていない筈だ。
 アッシュの胸中を読んだのか、マックスは複雑な表情を浮かべた。
「俊一の話じゃ、お前が危ないって聞いて、英二はすぐにも戻ってこようとしたそうだ。だが、英二もまだ怪我が治っちゃいない。周りが必死に止めてたんだが、昨日とうとう病院を抜け出して飛行機に乗っちまったんだと」
「…………」
 アッシュは黙って俯いた。だが、その表情は固く強張っている。
 そして、搾り出したようにその言葉が発せられた。
「………俺は…会わない……」
「なにっ……!? 何を言ってんだ、お前! 英二はお前に会う為に……!」
「分かってる!」
 思わぬ強い言葉に、マックスは言葉を飲み込んだ。
「分かってるんだ。だからだよ……オッサン」
 アッシュは布団の中で、あの時の手紙をそっと胸に当てた。
「英二は、俺なんかといちゃいけなかったのさ。あいつが撃たれた時、俺は……」
「アッシュ……」
「……とにかく、俺はもう二度とあいつには会わないと決めたんだ。ここに来ても、アンタがうまく追い返してくれ」
 ベッドの上で背を向けてしまったアッシュは、その後一度もマックスを振り返らなかった。




 一人になった病室で、アッシュはそっと手紙を翳した。
 血と涙で汚れてしまった読み取りの困難なそれを、もう何度読み返しただろう。
 アッシュにとって、英二の存在はまさに”奇跡”そのものだった。
 どうして存在するんだろう――こんなに自分を癒してくれる…幸せを与えてくれる人間が――
 自分の傍にいる事は、危険すぎると分かっていた。何度も、離れようと思った。けれど、結局出来なかった。それを繰り返す内、とうとう英二が撃たれて――それも、アッシュを庇って撃たれて、その時になって初めて、心の底から後悔したのだ――自分の弱さを。
 だから、もう二度と会わないと決めた。
 それなのに、この手紙を読んだ瞬間、せめてもう一目だけでも会いたいと、足は自然に飛行場へ向かっていた。
 あの時、ラオに刺されたのは天の警告だったのかもしれない。また繰り返すのか――もう会ってはならない――と。
(英二……来るな……来ないでくれ…)
 もうこのNYという同じ空の下に居るのだ、と思うだけで、こんなにも会いたくなってしまっている自分がいる。アッシュには、英二が来て彼にこのドアを開けてくれと言われたら、開けずにいられる自信はほとんど無かった。

 その時だった。廊下が俄かに騒がしくなって、アッシュは軽く身を起こす。
「……チャーリー!……………」
 どうやら、廊下に居たマックスにチャーリーが合流したらしい――かなり慌てた様子で。
「何だって!? 英二が!?」
 ――英二――
 その単語に、アッシュは敏感に反応した。折り良く終わった点滴を外し、ベッドから下りてドアに聞き耳を立てた。
 人目を憚って小声での会話に切り換えたのか、ここまで来ても切れ切れにしか聞き取れない。
「……英二……男……空港……発砲……怪我人………」
(――――!!)
 アッシュは、頭が真っ白になるのを感じた。
 体に力が入らず、思わずその場に倒れこんでしまった程だ。
「アッシュ!?」
 物音に気付いて、マックスが飛び込んできた。
 すぐにベッドに入れられ、医者を呼ぶ声が聞こえる。
 だが、厳密に言えば、今のアッシュには何も届いていなかった。
 声も、匂いも、光さえも――



 ひどい悪夢にうなされて、アッシュは夜半に目が覚めた。
 ベッドの上に飛び起きて、荒い息を整える。
 胸元を握り締めた拍子に手紙が落ちたことで、アッシュは気を失う前の記憶を取り戻した。
「英二が……!?」
 見開いた網膜の裏側から、チャーリーとマックスの会話が再現される。
 確かに聞いた、英二の名前。それも、悪いニュースのように焦った声音で。
 そして何より、一つの単語がアッシュを凍りつかせた。
(――発砲――)
 冷たい汗がどっと吹き出た。
 身体が指先から体温を失っていく。
 小刻みに……やがて大きく震え出した指先では、手紙を拾うことさえ困難だった。
(――――英二……空港……)
 脳裏で親友の笑顔が浮かんだ時だった。
 ようやく早く行かなければということに気付き、体を起こす。
 しかし、ただでさえ萎えた体がこんなに震えては、ベッドから転げ落ちるのも当然だった。
「shit !」
 舌打ちして、震える腕を抱え込んだ。
 どうして、自分の体はこんなに言うことをきかない――なぜ、こんなに情けない。今まで数多の命を奪っておきながら、一人の命の危機にこんなにも怯えている。
(どうして――)
 どうして、英二がまた撃たれるなど――
 アッシュは英二に会っていない。それなのに、なぜそんなことに――
(神様――!)
 なぜ、どうして――!!
 英二は、アッシュに会う為にNYに戻ってきたのだと、マックスは言った。
(だったら、俺を殺せば良かったんだ!!)
 英二を連れていくくらいなら、あの時自分を連れていけば良かった――
「神様……! お願い…します……」
 震えた体はとうとう力を使い果たし、アッシュは腹部を抑えて蹲った。
(神様――!!)
 今までろくにお祈りもしてこなかったのに、こんな時だけ縋ろうと思うのは間違いかもしれない。
 けれどそれは、アッシュにとって一生分の祈りだった。
 何よりも白く、何よりも無垢な、純粋なる祈り――

「………アッシュ?」
 朦朧とする意識の中で、入口から聞こえた懐かしい声――幻聴だと思った。
 幻でも何でもいい――もう一度名前を呼んでくれないかと思った瞬間、アッシュの体に暖かな温もりが触れた。
「アッシュ!!」
 驚愕に見開かれたアッシュの瞳は、霞んだ映像しか写さなかったけれど、その視界の端に、美しい黒い髪が映った。
「…英…二……?」
「アッシュ、大丈夫かい!? 一体どうしたんだ、すごい汗をかいて……」
「英二……本当に? お前なのか……」
 「sure」と答えた笑顔が、何よりもその存在を物語っていて、アッシュの腕は、強く英二を抱き締めていた。
 どんなに辛いことがあっても、ショーターの一件以来自分から抱擁を求めてきたことのないアッシュのその行動に、英二は黙って抱き返す。
(――生きていた――)
 相手の確かに脈打つ鼓動に、二人とも、涙を零した。
(――神様)
 感謝の言葉も、祈りの言葉も、もう何も言葉にならない。
 この温もりだけが、全てだ――



「……アッシュ、怪我の具合はどうなの? 大丈夫だったのかい?」
 アシュの震えが収まった頃、英二はそう声をかけた。
 それを待っていたかのように、二人の後ろから落ち着いた声がかかる。
「その前に、そこの坊やをベッドに戻した方がいい。医者を呼びたくなければ、私が鎮痛剤をうってやろう」
「――セルゲイ」
 ブランカの顔を見て、アッシュは慌てて涙を拭った。
「どうしてアンタがここに――」
 言う間にブランカは手早く動いて処置を施す。
 病室の隅からソファを運んできて、こちらも怪我人である英二を座らせた。
「それに何より、英二――お前、空港で撃たれたって聞いて――……」
 それを聞いてブランカは、今のアッシュの状態に合点がいったように頷くと、くすくすと笑い出した。
「何がおかしいんだ」
「いやいや、失礼。私と英二君は、確かにNYに着いた途端に空港での小さなテロに出くわしたが、ご覧の通り二人とも無事だ。市警に事情を聞かれてこんな時間になってしまったがね」
「Mr.ブランカが庇ってくれたんだよ。僕を日本から連れ出してくれたのも彼なんだ」
 二人の言葉に、アッシュは目を白黒させた。
 一体何がどうなっているのか――
「君の方こそ、大丈夫なのか」
 英二の黒い瞳を見ながら、そう言えばもう二度と会わないと決めていたのだったと、アッシュはぼんやりと思った。――なぜ、そんな風に思っていられたのか、とも。
「ああ、大したことはない」
「大したことないって……君が一時危篤になったって聞いて…アッシュ、僕は……!」
「……それは…オレも同じだ。……英二、すまなかった。お前を守ると約束したのに――それなのに、オレは何てことを――……」
 思えば、二人が最後に会ったのはもう随分前――アッシュがゴルツィネとの決着を着ける前に病院に立ち寄った時――遠くから見つめ合ったあの一瞬以来の再会だった。
 再び頭を抱えたアッシュを、英二は包み込むように軽く抱き締めた。
「君が無事で良かった――そうとも、本当に良かった――」
 アッシュの見張った瞳から、再び一筋の涙が流れた。
 胸元に入れた手紙を、服の上から握り締める。
「ああ、神様に心からの感謝を――」
 手紙の事は、何も言わないでおこうとアッシュは思った。
 英二のことだから、きっと照れるに違いないし、返せとまで言い出しかねない。
 ――ぼくの魂はいつも君とともにある――
 アッシュは微笑んだ。
 そうか。そういうことだ。
 既にアッシュの魂だって、半分は――いや、それ以上、英二と共にある。
 アッシュは危険に巻き込まない為に英二を遠ざけようとしたけれど、それは最初から無理だったのだ。
 それならば、目の届く所で見守っていた方がいい。今回みたいに、自分の知らない所で危険に晒されるより、ずっとマシだ。
 ――君は豹じゃない。運命は変えることができる――
 その通りだった。この温もりさえ傍にあれば、夢だと思っていたそんなことも、全て可能になる――
(ヘミングウェイを教えてくれたのも、アンタだったな――)
「セルゲイ……アンタにも、感謝を――」
「………どういたしまして、アスラン。お前が幸せなら、私も少しは救われる」
 穏やかな笑みを浮かべて、アッシュは息をついた。
 体中の緊張や力みが、全て優しく溶け出していく。
「何だか……疲れたな………」
 傍らにある温もりが、心地良すぎるせいか、唐突に睡魔が襲ってきた。
「ああ……ぼくもだ……」
 英二も安らいだ表情で目を閉じた。


 いくらもしない内にすっかり眠りに落ちてしまった二人の少年を見つめて、ブランカは微笑んだ。
 アッシュと英二の手は、しっかりと繋がれたままだ。
 お互い、相手の死に怯えていたようだから、こうして逢えて緊張の糸が切れたのだろう。
 二人をベッドにきちんと寝かせ、ブランケットをかける。
 ようやく半身の元に帰って落ち着いた一対の魂。
 ブランカは、自分も満たされるのを感じながら、二人に心からの笑みを送った。
「ゆっくりおやすみ――良い夢を」




 二人の少年は、祈った。

 同じ時、同じ場所に在りながら、己の心のうちだけで――

 その内容は、呆れるほど、全く同じ祈りだった。

 ――ずっと、この温もりの傍に――


 心の底から、そう願う。

 innocent ―汚れの無い―祈りに乗せて――
CLAP