千赫

 千にも及ぶ、赫の彩りを――見た事がある。
 それは幻のような不思議な光景。
 火を思わせる美しさを持つ少女への――想いの具現。




「だいじょうぶか?」

 延王・尚隆が、景王に助勢しての維竜襲撃の際に景王・陽子に言った言葉だ。
 陽子は王と言っても、まだ20にも満たない娘でしかない。延麒・六太の話によれば日本も随分と平和な国になっているそうだから、こんな剣と争いなどとは程遠い世界からやってきたのだろう。
 いくら賓満を付けていても、体の主が目を背けては何の役にも立たない。人を殺すのに躊躇して隙を見せれば、それは確実に命取りになる。
「迷うなよ。せっかくその気になってくれた景王をここで失っては、目もあてられぬからな」
 それは、まさしく二つの本心からの言葉だった。
 雁は他に比べて随分豊かな国だ。だが問題が無い訳ではなく、近年一番頭を悩ませているのは他国からの難民だった。隣国慶からも随分な数の難民が雁に押し寄せている。早く慶国内が安定し、民を治めて貰わねば非常に困る。――それが第一の本心。
 そして二番目は――……
 脳裏に甦る、鮮やかな赤。
 雁で初めて会った時の、あの艶やかすぎる印象。
 見かけは全く少年だった。楽俊からの書状で”女王”だとは聞かされていたが、あの状況でそんなことを思い出している余裕など皆無だった。
 それでも目を惹きつけて止まなかったのは……髪の色だけでなく、陽子自身が艶やかに光っていたからに他ならない。
 五百年以上にも及ぶ在位に飽いていた目に飛び込んできた少女―― 一目で気に入った。
 共に背中を合わせ戦い、更におもしろいと思った。
 これが隣国の新王だと思うと、言いようもなく心が踊った。
 ――それが理由だった。



「私は往生際が悪いから」
 今まで見たこともないような素晴らしい笑顔と共に陽子は言った。
 一瞬その表情に見とれて、次いで首を傾げる。
 こんな血生臭い状況で見せる顔か。
 だが、単騎敵陣に飛び込んで行った陽子に、尚隆は笑みを隠し切れない。
 あの顔の陽子なら、大丈夫だろう。心配には及ぶまい。
 そう確信し、自分も周囲の敵を切り伏せながら陽子の後を追った。



 思ったよりも破竹の勢いで進んでいるらしい陽子に尚隆が追いついたのは、麒麟と共に部屋から出てくる所だった。
「陽子! 無事か」
「延王! はい、無事景麒も取り返しました」
 陽子が獣系のままの景麒を促すと、景麒は軽く頭を下げた。
「簡単にですがお聞きしました。主上を助けて頂いた事、感謝のしようもございません」
「なに、隣の国だからな。こっちとしても見過ごせん。それより――こんな再会の仕方をするとは夢にも思わなんだぞ」
 多少の皮肉を込めて言うと、景麒は実に嫌そうに顔を顰めて、「私もです」と返した。
「主上!」
 そこに、雁から従事してきた成笙が飛び込んできた。彼にしては珍しく、酷く慌てた様子で尚隆に駆け寄ってくる。
「どうした、成笙」
「どうしたもこうしたもないっ! 舒栄が見当たらんと思ったら、城内に爆薬を仕掛けたらしいという噂が!」
「死ぬ気か」
 野望が叶わぬなら全て道連れにと考えたのか……彼女以外にとっては甚だ迷惑な話だ。
 景麒を優先させて、舒栄を放っておいたのが仇になったらしい。
「景麒、舒栄はどこにいる?」
「私にも分かりません。――――主上」
 返事を聞いて駆け出そうとしていた陽子は足を止めた。
 「私のこと?」と聞くと、景麒は深く頷いてその深い色の瞳を陽子に向ける。
「私は戦場故お供できませんが、どうか舒栄を――彼女をお救い下さい」
 陽子は黙り込んだ。尚隆も、自分だったら承服出来ない頼みだなと二人を見守る。
「――分かった。出来る限りそうしよう。私も自殺は好きじゃないからな」
 言って駆け出した陽子に、また尚隆は笑みを深くした。
 やはり陽子を助けたのは間違いではなかった。
 何としても玉座につけてみたい――自分と同じものを感じ取った尚隆は、上機嫌で彼女の後を追った。



 騎獣に乗って再び空に戻った尚隆と陽子は、舒栄が守閣に立てこもっていることを知った。
 守閣の入口では、偽王軍の一団が雁の兵と戦っていた。
 あの位置では、舒栄が火を放てば諸共に吹き飛ばされてしまうだろう。
 自国の兵をも巻き込んで……そこまでしてしなければならない事だとでも言うのか。
 陽子は無性に腹が立った。
「やめろ!!」
 よく通る声での一喝に、双方の兵は空を見上げた。
 視線の先で、赤い髪が翻る。
「命を無駄にするようなことじゃない! お前達の守るものは偽王だ。命懸けで守る価値なんて無い!」
 叫んだと同時に、獣の咆哮が響く。
 ――主上、妖魔です。
 いつの間に現れたのか、側に控えていた驃騎が告げた。
 尚隆も剣を抜いて構える。
 間もなくして、十匹にも及ぼうかという蠱雕の群れが現れた。
「フン、また凝りもせず台輔の使令に縋ったか」
 いくら慶が荒れているとは言え、自然の妖魔が特定の人物を襲う事は有り得ない。
 陽子を狙って放った刺客だろう。
「延王! 私から離れてください! 貴方まで巻き添えになる!」
「冗談を言うな。独り占めするとはつれないじゃないか」
 景麒の使令があるとは言え、当然二人では分が悪い。
 しかし、陽子は弱気になったり、況してや諦めるといった気持ちはさらさら無かった。

「………あの女は誰だ?」
「舒栄様が……偽王?」
「あれは誰なんだ……」
「あれは……あの方が………本当の新王なんじゃないか?」
 守閣の入口で戦っていた偽王軍は、今や自分たちの役目を忘れ、茫然と空中での戦いに目を奪われていた。
 一人が言い出すと、皆が口々に「正統な王だ!」と叫び始める。
 舒栄に疑問を抱いていた兵たちの心は、あっという間に新しい主の色で塗り替えられてしまった。

 ひゅんっ!
 空気を裂く鋭い音がして、陽子に近づきつつあった一体が悲鳴を上げる。
 驚くまもなく、ひゅんひゅんと次々に飛んで来た矢に串刺しにされ、その蠱雕は地に落ちた。
 陽子は矢の飛んで来た方に騎獣の首を巡らし……そして目を見開いた。
 たくさんの……本当にたくさんの赤い色がはためいていた。
 一瞬、燃えているのかと思ったそれは、よくよく目を凝らすと、マントなどの赤い布だということが分かった。
 城に立て篭もっていた兵達が、外に飛び出し、身につけていた何らかの赤い布を腕一杯に振っている。
 そして皆同様にこう叫んでいた。
「新王万歳! 台輔を救われた正統な王、万歳!!」



 尚隆はその驚くべき光景を見ながら、数刻前のやり取り思い出していた。
 ――「お前が偽王軍を威圧できれば、話はもっと早いな」
 真実、話が早いどころの問題ではなかった。
 蠱雕を片付けて下に下りると、既に縛り上げられた舒栄が差し出され、偽王軍は揃って陽子の前に叩頭した。
 うろたえる陽子が年相応にかわいらしく、先ほどまでの武人と同一人物とはとても思えなくて、尚隆は胸に芽生えた想いを確信した。



 千にも及ぶ赫の光景は、少女への想いを自覚した――千赫の記憶。
CLAP