「本当に、私なんかより浩瀚の方がよっぽど王らしい」
――本日の昼間、主の執務室で言われた言葉が頭に甦り、慶国冢宰・浩瀚は、またしても眉根を寄せた。
「………何をつまらぬ事を。それは私への侮辱ですか」
違う事は分かっていたが、口にせずにはいられなかった。子供じみた言だと分かっている。案の上、彼の主――景王・陽子は慌てたように首を手を振った。
「違う、そうじゃないんだ。ただ、もう私がコチラの世界に来て……玉座について五年にもなるのに、いまだにこうやって浩瀚に教えてもらわなきゃ出来ない事があるだろう? 浩瀚が王だったら、国の復興だってもっと………そう思ってしまっただけだ」
意味のない仮定だっていうのは分かってる………そう呟く陽子を見ながら、浩瀚はこっそり溜息をついた。
この王は、本当に何に対してでも全力投球で、誰よりも何よりも自分に厳しい。
そしてすぐに自分を”無能”であると決め付けて、その思いに苦しんでいる節がある。
「でしたら主上、今後そのような事は二度と口にせぬとお約束下さい」
本当にこの少女は何も分かっていないのだ。自身の器量も、浩瀚の想いも、何も――……
「………分かった、約束する」
呟いた陽子の表情は暗かった。
浩瀚はそれに耐え切れず、辞去の礼を取って早々にその部屋から退出する。
陽子にあんな顔をさせてしまった事が身を切るほどに悔やまれたが、あんな言葉を再び聞かせられるよりもマシのように思われた。
その翌日、浩瀚が執務室に姿の見えない陽子を探して廊下を進んでいると、陽子の学友でもある女史の祥瓊とすれ違った。
「あら、浩瀚様」
祥瓊は、陽子の傍に仕えている為、浩瀚との面識も深い。
「……陽…主上をお探しですか?」
礼を取ったまま上目遣いに問うてきた祥瓊に、浩瀚は静かに頷く。
「執務室にお姿が見られないのだが、どちらにいらっしゃるかご存知か」
祥瓊はしばし考えた後、ついて来るように目配せすると、しずしずと内宮へと歩き出した。
「陽子、浩瀚様に嫌われたってぼやいてましたけど、何かあったのでございますか?」
道すがらの祥瓊の言葉に、浩瀚は驚く。
そして一つの簡素な扉の前で立ち止まり、意味ありげな笑みを残して去っていく。
浩瀚は訝しく思いつつも、ノックをしたが応えが無い。仕方なく、その扉をそっと開けた。
見た所、書庫のようになっているらしい手狭な室内の卓の上に、開いたままの本が無造作に置かれている。
更にその奥にある雲海に面した露台に、眠りに落ちている彼女を見つけた。
「……主上……?」
静かに問い掛けてみるが、眠りは深いらしく返事はない。
開け放たれた窓から、潮風が流れてきて、陽子の赤い髪を翻弄する。
その眩さに、思わず目を細めた。
胸を焦がして止まない少女――。
「……………」
風に吹かれながら心地よさそうに眠っているものを起こすのも躊躇われ、浩瀚はその隣に腰掛けた。
こうしてこの少女の横で風に吹かれていると、理想の国に居るような錯覚に陥る。才の国宝・花胥花朶の見せるような夢の国――いや、それはきっと来る将来の暗示なのだろうか。
朝早くから夜遅くまで執務と勉強に追われ、こんな微かな間にもこの小さな空間で努力し続けている。
浩瀚にとって、陽子は掛け替えのない至上の存在。己の仕える唯一の王として――そしてまた一人の少女として――……
ふいに愛しさが込み上げてきて、目の前に舞った赤い髪を一房取って唇を寄せた。
「……………」
そのまま何事かを浩瀚が呟いた時、陽子の頭がコトリと浩瀚の肩に落ちる。
目を見開いたまま数秒硬直した浩瀚は、動くに動けなくなってしまい、困惑と喜びの入り混じった妙な境地に陥っていた。
自分の心臓の音がやけに大きくて、それが陽子を起こしてしまうのではないかとヒヤリとする。
ドクン…ドクン……
速まっている自分の鼓動に比べて、少女から伝わってくる鼓動は――――
「……! ……………主上?」
問いかけではなく、確信をもった呼びかけ。
陽子はばつが悪そうに目をあけた。
「……えっと、おはよう浩瀚」
そう言って笑った顔はやけに引き攣っていて……そして少し赤かった。
「………最初から起きてらしたのですか?」
「う……いや、その………今っ! 今起きた所だ! こんな所で油を売って悪かったな、急ぎの仕事だろう? どうした!?」
一気にそこまでまくしたてる間に、陽子の顔はますます赤くなっていた。
浩瀚はそれを少し驚いたように見て、やがて緩やかに拱手した。
「台輔が例の議案の件で書類をまとめられましたので主上にも見て頂きたいと……」
そう淀みなく述べた浩瀚の言葉に、陽子は「そうか…!」と必要以上に大きな返事をした。
「それじゃあ早く行かないとな! 景麒が待って………!?」
渡りに船とばかりに勇んで飛び出していこうとした陽子だったが、腕を掴まえられて困惑した。
「こ…浩瀚……?」
「先ほどは、いつからお目覚めだったのですか?」
ニッコリと笑顔で言われ、陽子は顔を引き攣って後ずさる。
「浩瀚、でも景麒が待ってるから………」
「お言葉ですが、主上。話は最後まで聞くものです。台輔は他の執務にお忙しそうでしたので、書類は私がここに持って来ております」
チラリと懐から見せた書巻に陽子はパクパクと声にならない悲鳴をあげ、やがて観念したように両手を上げた。
「――分かった、降参だ。……目が覚めたのはちょうど浩瀚が私の隣に座った時だ。私だって騙そうと思った訳じゃない。ただ浩瀚があんな………」
そこまで言って、今度こそ陽子は完全に真っ赤になった。
潮風に混じって、ふわりと鼻腔をくすぐった知った香の匂い。
軽やかな風のように一房の髪を攫って………
――「貴女の居ない場所に私の理想の国は在りません」――
耳元で囁かれた低く優しい響きに驚いて、つい体勢がずれてしまった。その結果、浩瀚の肩に頭を置く様な格好になって、陽子とてどれだけ動揺したか………
「……主上の鼓動が聞こえました」
「………私だって聞こえた」
どうやら、自分の心臓の音にヒヤリとして相手のそれにも気付いたのは、浩瀚も陽子も同じだったらしい。
何となくおかしくて、そのまま顔を見合わせて微かに笑い合った。
「浩瀚のそんな顔、初めて見た気がするな~」
「主上こそ、そんなに愛らしい笑顔は久方ぶりですよ」
さらりととんでもないことを言われてまたまた赤面した陽子は、はにかむ様に「ありがとう」と呟いた。
「浩瀚の理想の国か……一度見てみたいな」
露台に腰掛けたまま風に身を任せている陽子に、浩瀚は軽く微笑んだ。
――貴女が在る。
それが私の理想の国。
今はまだ完全には目覚めていない……眠れる至高の花が。