百の夜

 地上に暮らしていた頃は、分厚い雲海に遮られて見たことも無かった。
 満点の星空を、こんな一等地から眺めることになろうとは……そう思ってから、もうすぐ百年が過ぎようとしている。

「百年……か」
 呟いた少女の背後で、微かな気配が動いた。
 少女は少し驚きつつも、振り返ろうとはしなかった。
 その気配が、躊躇いの無い足取りで近づいて来たからだ。
 そんな人物を、少女は一人しか知らない。

「お久しぶりね、利広」





 恭州国首都・連檣、高々と聳える凌雲山の頂上に立つ霜楓宮――
 既に夜も更け、宮も寝静まったこの時刻に、禁門と正寝を繋ぐ庭園回廊を、コツコツと通る足音が響いた。
 今夜は星がキレイだ――
 足音の主は、そんなことを思いながら、回廊を進む。
 やがて、庭園の途中に設けられた亭に、目的の人物を見つけた。
 この霜楓宮だけでなく、恭国そのものの主――

「お久しぶりね、利広」
 言ってから振り返った人物は、まだ幼い少女。
 その勝気な瞳に、いつもの覇気が無いように感じ、利広は亭へ登る階段の途中で足を止めた。
「お久しぶりです、姫君」
 そして、恭しく礼を取った。
「私の姫君におかれましては、いつもより御気分が優れぬ様子……お慰めしたく思いますが、そちらへ伺っても……?」
 わざと茶化すような口調に、少女――珠晶は表情を和らげた。
「あら、あたしの知ってる王子様は、そんな殊勝な物言いをする人じゃなかった筈よ?」
 何か変な物でも食べたの? とまで聞いた珠晶に、おかしな事に安堵して、利広は亭の椅子へと腰掛けた。
 しばしの沈黙が流れる。
 いつもなら、例え利広に大事な用があろうとも、珠晶の方から今回はどこに行っていたのか、などと質問責めにするのが常なのに、この日は全くその気配は無い。
 勝手が違うことに少し動揺しながらも、利広は仕方なく口を開いた。
「ここは中々過ごし易いね……部屋に居ないと思ったら、こんな所で何をしていたんだい?」
 仮にも一国の王の寝室に無断で入る――最初の方こそ毎度溜息をついたものだったが、百年近く経った今ではとうに諦めている。
 今回もそのことについては珠晶は何も言わず、ただちらりと利広に視線を向けただけだった。
「別に。ちょっと寝付けなかっただけよ。………星を見ていたの」
 そしてすぐに空に視線を戻す。
「珠晶……?」
 やはりどこか様子がおかしい珠晶に、利広が訝しそうに呼びかけた時だった。
「今回は随分長旅だったのね。どこまで行って来たの?」
 いつも通りに、旅の話を聞いてきた事に安堵し、利広は無理矢理先程の疑念を振り払った。
「今回は、巧を見てから慶にしばらく滞在して来たよ。陽子にも会って来た」
 十年ほど前に登極した景王は、胎果のせいか変わり者の女王だ。珠晶も、一度だけだが面識が有り、気が合う同業者として、以来誼を通じている。
「そう言えば、陽子からおもしろい話を聞いたよ。蓬莱の風習で、今日は七夕というのだそうだよ」

 牽牛と織姫の恋物語。
 天の川に引き裂かれた二人。一年に一度の逢瀬。

 珠晶は、興味を引かれたようだった。
「あちらの人たちって、随分ロマンチックなのね」
 言っている内容はいつも通りの彼女だったが、表情が全く違っていた。
 いつものように目を輝かせて聞いているのではなく、むしろ、物思いに耽ったように……
「でも、何年経っても、一年に一度は絶対に逢える恋人っていうのも、いいものかもしれないわね――」
 利広は、珠晶の表情の中に影を見た。
 六百年を越す時間の中で、他国の王に何度も見てきた影を――
「珠晶……寂しいのかい?」
 そう言えば、今日珠晶は一度も笑っていない。
「そう……見えるかしら」
 利広を見て小さく首を傾げた様は、本当の十二歳の少女のように……儚げだった。
「……利広にはやっぱり分かっちゃうのね。そう……確かに、寂しいのかも。私が登極してもうすぐ百年……もう下界に知り合いはいなくなったわ。誰もかれもに置いていかれるというのは、結構……こたえるものなのね」

 またしばらく、静寂が続いた。
 それを破ったのは、やはり利広で――

「私が居るじゃないか」
「――ふふ、そうね、利広が………」
「そう、私が居る」
 珠晶は言葉を途切れさせ、利広を見上げた。
 その顔からは、微かな作り笑いも消えている。
「我が愛しの姫君に逢う為ならば、雲海など越えて来ましょう」
「……一年に一度だけ?」
「姫が望むなら、いくらでも」
 絡まる視線の二対の瞳は、双方笑みの欠片も無い。
 そのまま、どれだけそうしていただろう。

 先に視線を逸らせたのは、珠晶だった。
 吐息をついて、苦笑した。
「利広ってば、相変わらずおかしな冗談が好きね」
 半拍遅れて、利広も苦笑した。
「ああ、冗談だ」

 一国の女王と、一国の王を支えるべき太子。
 お互いに、自分の立場はよく分かっている。

「冗談だとも……」

 よく、分かっている。
 お互いに、厄介な立場だということを――


 天の星は、月を見送り、輝きを増すばかり。
 七夕という、異界の恋物語の夜は、今まで通りに更けていく――
CLAP