宝刀

 麗らかな空間だった。
 鳥は囀り、水の流れる音が聞こえ、降り注ぐ陽光は懐かしげな暖かさを宿していた。
 ――慶東国首都、堯天。
 その天まで届く堯天山の頂上に王宮である金波宮はそびえている。
 そして金波宮の南に位置するここ、玻璃宮。最近ではこの玻璃宮の庭林が陽子のお気に入りの場所になっていた。

 景王陽子が慶国の玉座に登って五年。
 国はようやく荒廃から発展へと向かい始めた。
 当初景王を患わせていた朝廷の権力争いも、数年前に王の忠臣を招き官吏の移動を行って後は大方なりを潜めている。
 王としての務めにも大分慣れ、自分の時間を少しでも持てるようになった陽子は、居心地の良いこの場所でくつろぐのがここ半月程の日課になっていた。
 この日も陽子は玻璃宮に着くや否や庭林の特等席に腰を下ろした。
 一本の大木の下――何という樹かは知らなかったが、小さく可愛らしい花が咲き、ひどく甘く優しい香りがした――その幹に背をもたせ掛け目を瞑る。
 いくばくもしない内に穏やかな寝息が聞こえて来た。
 季節は春。陽気は外で眠る者を妨げないばかりか、更に深い眠りへと誘う。
 しかし、そんな昼下がりのつかの間の休息は、二人の来客によって妨げられた。
「陽子!」
「やっぱりここに居た」
 陽子が身を起こしてそちらを見やると、二人の友人が駆けて来るところだった。
「……祥瓊、鈴」
 近くに吉量が二頭留められている。それに乗って文字どおり飛んで来たのだろう。
 陽子は寝不足が祟ってやつれた風に見える顔を少しでも隠す為、反射的に頬を覆って返事した。
「そんなに慌ててどうかしたのか?」
「どうかしたのかじゃないでしょっ!」
「陽子、今何時だか分かってる? 老師が首を長くしてお待ちよ」
 あくまで暢気な陽子に、祥瓊が怒鳴り、鈴が半ば呆れたように告げた。
「えっ、ああ、もうそんな時間か……。悪い。あんまりここが気持ち良かったんで……」
 陽子が立ち上がるのに手を貸しながら、祥瓊は深い溜め息をついた。
「大変なのは分かるけどね。これで遅刻は何度目? いくら温厚な老師でも度が過ぎると見捨てられてしまうわよ? ――で? 毎晩遅くまで何やってるの?」
「ああ、それがこいつが――……」
 言いかけて陽子ははっと口を噤んだ。
 ――嵌められた。
 いつもの友人の小言。
 それの延長上に仕掛けられた誘導尋問にあっさりと引っ掛かってしまった自分が我ながら情けない。一瞬のことだったし聞き逃してくれたかもしれないという期待は次の鈴の言葉で脆くも崩れ去った。
「『こいつ』? やっぱりその刀が関係しているのね?」
「確か――水鑑刀……」
 祥瓊と鈴は一様に陽子の傍らに置かれてある布にくるまれたものを見た。
 陽子は深く溜め息をついた。そもそもこの鋭い二人が見逃してくれる筈などないのだ。
 これを肌身離さず持ち歩く(朝議などには流石に持って行かないが)ようになってから十日余り、ここまで見破られなかったのが不思議なくらいなのだろう。
 しかし陽子としても二人に打ち明ける訳にはいかない。
 何も言わないからこそ心配するのだと言われるかもしれないが、言ったら言ったで余計に心配を掛けのるは目に見えているし、それにこれは陽子自身で解決すべき問題なのだ。ただでさえ普段から面倒をかけている二人に、これ以上負担をかけたくない。
「…………」
 陽子は布にくるまれた太刀を持って無言で立ち上がった。そのまま吉量の元に歩を進める。
「陽子!」
 二人の制止の声に、陽子は隙の無い笑顔で振り返った。
「老師がお待ちなのだろう? 早く戻らねば。松伯に見捨てられる訳にはいかないからな」



「陽子の様子が変なのよ」
 景麒は金波宮の長い回廊を歩きながらその言葉を思い出していた。
 それは今日――いや既に昨日か――の夕刻のこと。
 執務を終え私室へ引き上げようとしていた景麒を引き留めたのは、青みがかった髪、紫紺の瞳の少女――主の友人である祥瓊という娘だった。
「あなたも知っているでしょう? あの娘ここしばらく水鑑刀を持ち歩いているわ」
 景麒は眉を顰めた。それは景麒もずっと気になっていたことだ。
 数日前に一度聞いてみたのだが、心配するな、とそれ以上の詮索を拒絶されてしまった為そのままになっている。
「それに近頃、昼過ぎの空き時間になると決まって玻璃宮へ行って眠り込んでいるのよ」
「主上が?」
 景麒は目をみはった。それは初耳だった。
「どうやら毎晩遅くまで何かをやっているようなの」
「その何か、とは?」
「そこまでは分からないわ。ただ水鑑刀に関係しているのだけは確かね」
 そこまで思い出して景麒は深い溜め息をついた。
 水鑑刀――水を剣に成さしめ、御することが叶えば過去・未来・現在あらゆることを映し出す。逆に気を抜けば惑わされてしまう為、剣を封じるべく、人の心中を読む禺を鞘と成さしめ、これを水禺刀とした。
 しかし現在の主によって数年前に鞘を失い、元の水鑑刀と呼ぶようになったが、封印を無くした刀のその不思議は到底扱えなくなっていた。
(それを、何ゆえに――?)
 景麒は窓から外を見上げた。
 天にかかる望月は頂点を通り過ぎ、西の空に傾いている。
 ――流石にもうお休みになられたか……
 そう思ったが何とも言えない不安がざわりと蠢いた。
 景麒は足を速めて主の部屋へ向かう。
 扉の前にたどり着くと少し迷ってから軽く叩いた。
 数度繰り返してみたが返事はない。
 これもかなり迷ってから薄く戸を開けて中の様子を見た。衝立の向こうから薄く明かりが漏れている。
「――主上?」
 返事はない。だが、紛れもなく彼の主の気配は衝立の向こうにあった。
「……失礼致します」
 深く頭を下げて歩を進めた。
 衝立ごしにちらりと赤いものが見えた。血の臭いはしなかったが、胸を絞める不吉な予感。
 ――苦痛と……絶望――?
 そして次の瞬間見たものに景麒は硬直した。
 陽子が、倒れていた。
 水鑑刀を手にしたまま、無造作に床に横たわっていた。
 卓の上に灯された燭が儚げに揺らめく。ちらりと見えた赤は、乱れ広がった陽子の髪であった。
「――――主上っ!!」
 ようやく戒めから解放されたように体が動いた。
 景麒はぴくりとも動かない陽子に駆け寄り、傍らに膝をついて怪我がないのを確かめる。
 取り敢えずほうと息をついたが、呼吸は荒く、脈も速い。
「主上!」
 軽く頬を打つと、伏せられた長い睫がぴくりと震えた。
 景麒はぐったりとした夜着のままの陽子を軽々と抱え上げると、奥の臥室へ足を向けた。
 その途中、陽子が微かに身じろぎしたのを感じ、景麒はぴたりと足を止める。
 主の顔をまじまじとのぞき込んだ。
「……主上?」
 息を詰めて見守る中、陽子はゆっくりと瞼を上げた。
 鮮やかな翠の瞳を二・三度瞬いて、それを眼前の下僕に向けた。
「……景麒……」



 しばし時は逆上り、丸く満ちた月が天の頂きに昇るころ、陽子は私室の露台で雲海を見下ろしていた。
 風がなく穏やかな海面は、月の引力に引かれてゆらりゆらりと揺れている。
 その奥深くに幾つかの小さな明かりが見えた。
 麓の町――首都堯天の明かりだ。民が生きて生活している証し。
 以前、雁の玄英宮で見た関弓の明かりよりは到底小さく少なかったが、それでもこの真夜中、少しでも見えるようになったというのは荒廃していた慶にとっては随分な進歩だろう。
 しかし、そこでどんなことが行われ、民が何を思っているのかは、こうしてただ眺めているだけでは分からない。
 だからこそ時々こっそり王宮を抜け出して街に降りようとするのだが、その度に景麒や松伯、誰かしらに見つかって阻止されていた。
 だから、私にできることは――……
 陽子は身を翻して部屋に戻ると、卓の上に置かれた太刀に手を伸ばした。
 くるんであった布を取り、半月ほど前から毎晩行っているようにその白刃と真正面から向かい合う。
 一本だけ灯した燭とはまた違う光が、陽子が念じるともなく刀身から発せられていた。
 鞘を無くした剣は暴走する。特に静まり返った夜半には、その暴走は最大限に達する。
 しかし、白刃に映る映像が最も鮮明に見えるのもまた、この時間帯なのだ。
 実を言うとここ数日は、もう一歩というところまでいったこともあったので、夜はほとんど一睡もしていない。
 いい加減疲労も溜まり、体は睡眠を求めていたが、この挑戦をできるのが夜中だけだったので玻璃宮での昼寝だけで我慢していた。
 ――五年前の私を――
 刃を真っ向から見つめ、強く念じると訳の分からなかった影が一度水面を叩かれたように歪み、水の滴る音と共に赤い髪の少女を形どった。
 少女は懐かしい制服に身を包んでいる。
(やった!)
 これまで毎晩繰り返して来た中で刃が陽子の望むものを映し出したことは一度も無かった。
 今度こそやったと思ったがしかしそれは、陽子が胸中で喜びの声を上げた途端に悪夢に変わった。
 光の中の陽子の周りを妖魔が取り囲んでいた。
 無力な陽子は、その嗅ぎ爪に鋭い牙に引き裂かれ、血の海の中に倒れ伏した。
 ――やめろ……――
 そう念じると、血溜まりの中の陽子の側に数人の人影が現れた。
 ――お父さん、お母さん、……景麒、楽俊、延王、六太、祥瓊、鈴、松伯、浩瀚……その後ろにも何人かの臣下が控えている。彼らは一様に陽子に優しい笑みを向けていた。
 ほう……陽子はその暖かさに安堵する。
 しかし、その刹那の気の緩みが陽子の命取りとなった。
(しまっ……)
 思った時には立場が逆転していた。
 陽子は剣の従となり、抵抗しようにも衰えた体力の何処にもそんな力は見いだせなかった。
 ふいに猛烈な眠気に襲われ、すぐに何も考えられなくなった。
 どさりと何かが崩れ落ちた音が聞こえたが、それが自分の体だなどとはかけらも気が付かなかった。
 ただ、悪夢は続く。
 優しく手を差し出してくれている陽子の大切な人々。
 陽子は何の疑いも無く、そちらへ手を伸ばした。体に力を入れる度あちこちが激痛を訴えたが、それにも構わず懸命に手を伸ばす。
 ようやくそれが届こうかという時、彼らの表情は一変した。
 明確な、憎悪と殺意――。
 陽子の背を戦慄が駆け抜けた。
 そうしている間にも彼らは各々手に剣や斧を携え、それを陽子に振り下ろした。
(やめて!!)
 叫びは声にはならない。骨が砕け、肉がはぜ、鮮血が飛び散った。
 しばらくこの世のものとは思えないような痛みに苛まれた後、急に何も感じなくなった。
 ただ絶望だけが空虚な内に存在していた。
 辺りが静かになり、陽子はそっと目を開けた。周囲には血肉が散乱している。
 ――王は神である。
 神仙は首を落とされない限りはよっぽどでないと生き絶えることがない。
 だとしたら、これはおそらく自分のものだろうなどと無感動に思い、自らの大切な人々を見渡した。
 皆憎しみを込めた目で陽子を見返している。
 やがて彼らは陽子のすぐ側に集まり、陽子の頭上で大きな鎌を振り上げた。
 これまでか、そう確信した時、ふいに陽子のよく知る、低く静かな声が降ってきた。
『――主上』
(!?)
 何か暖かいものに包まれているような感覚が、いつ生き絶えてもおかしくない体に伝わってきた。
『主上』
 しっかりとした、深みのあるその声。
 己の半身。
 聞き違えることなどない。
(景麒――!)
 心の叫びと同時に意識が浮上した。
 現実の感覚が戻ってきて、そこで初めて今のは夢だったのだと気づく。
 ゆっくりと目を開けた。
 最初にぼんやりと目に入ってきたのは目映いばかりの金。
 二・三度瞬きすると、それは人の輪郭を取り、陽子のよく知る人物だと知れた。
「景麒……」


 腕の中で目覚めた主に景麒は安堵の溜め息を漏らした。
 当の陽子は、ぱちぱちと瞬きを繰り返して景麒を凝視し、首を傾げている。
「景麒……? どうしてここに………」
 水鑑刀を布で巻きなおして卓に置いた景麒は、そんな陽子の様子に溜め息を漏らした。
「お話はまた後日。今宵はもうお休み下さい」
 有無も言わせずそのまま運び、臥牀に横たえた。
「では、私はこれで失礼致します………」
 礼をして遠ざかろうとした景麒は、裾を引かれ振り返った。
 澄み渡った翠の瞳とぶつかる。
「景麒、なぜここに居る? ――祥瓊と鈴か……?」
 陽子は体を起こして臥牀の縁に腰掛けた。
「主上、今日はもうお休みになった方が……」
「私は大丈夫だ。なに、執務に障りはきたさん」
 景麒は溜め息をついた。
 ――これは、諦めの溜め息だ。
 五年の間に養った感で判断するとにっと笑ってみせた。
 景麒は少々面食らったように瞬いたが、すぐに陽子の予想どおり諦めたらしく、傍らの椅子に腰を下ろした。
「――祥瓊殿にお聞きしました。……返事も得ず勝手に入室しましたこと、お許し下さい」
「もう、いい。心配をかけてしまった私も悪かった」
「……主上、水鑑刀で何を………。先程はどうなされたのです」
 陽子は予想どおりの問いに、内心深く溜め息をついた。
 一体何の為に今まで隠してきたのか……。
 あんな現場を目撃されては言い逃れのしようもないではないか。
 大体この聡い下僕は、陽子が何をしていたかなどとっくに見抜いているのに違いない。今さら言い訳をあれこれ考えても無駄というものだ。
 陽子は観念して口を開いた。
「水鑑刀を御せないかと、思ってな」
「………」
 陽子と景麒は同時に卓の上の剣を見た。陽子が続ける。
「毎日持ち歩いていたのもその為だ。少しでも馴らそうと思ってな……。景麒も知っての通り、私はこちらのことについてまだまだ知らないことがたくさんある。だからこそ何が真で何が偽りかも分からないし、それに加えて、民の生活も知らなければならない。だけど私には王としての責務があって、そうそう街へは降りることができない。 だから――水鑑刀が必要だと思ったんだ。扱えるようになれば、過去を見ることによって真実を見極め、未来を見ることによって国の行く末にある障害を取り除くことが出来るかもしれない。千里の彼方を見ることで知識を得、民の生活、心を知り、他国の状況を把握することも出来るだろう」
「しかし、水鑑刀は封印が解け暴走していると………」
 陽子は苦笑して頷いた。
「身から出た錆とはいえ、手を焼かせられている」
「では主上が倒れられた原因は………」
「ああ。……逆に剣に引き込まれ虜にされてしまった……」
 平静を装ったつもりだったが、あの悪夢を思い出し、語尾が震えてしまった。
 同様に無意識の内に震えていたらしい膝の上でくんだ手の上に、暖かく大きな手が添えられた。
「主上………」
 景麒の紫の瞳が下から見上げるように陽子の瞳を貫いた。
「何を見せられました……?」
「!――お前には敵わないな……」
 ぽつりと呟いた陽子は、あの悪夢をかいつまんで話した。
「今までにこんなことは無かったんだがな……。やはり寝不足が祟ったのかもしれん。――本当に……情けなくて涙が出る……」
「主上……。やはりあの剣は危険です。主上は間違いなく水鑑刀の主。それをあの剣は鞘を失ったことで分からなくなったのでしょう。主上のお気持ちは分かりますが……剣ごと人目に触れぬよう、封印してしまった方がよいでしょう。 ……街へ降りたいのでしたら私におっしゃって下さい。――そう頻繁には無理ですが、月に一度くらいならお供いたしましょう」
「景麒………」
 陽子は複雑な気持ちで目の前の麒麟を見つめた。
「景麒……気持ちは嬉しいのだが……私はもう少しこの剣に挑戦してみようと思う。もちろんもうあんな無茶はしないし、松伯の授業にも遅れない。……私なんかの器では何度やっても駄目なのかもしれないが、簡単には投げ出したくない。元々が自分でまいた種なんだし、国の為になる力なら、あるにこしたことは無いしな。――お願いだ、景麒。もう少しだけ見逃しておいてはくれないか。もう心配は掛けないと約束するから」
 景麒はしばらく主の翠の瞳を見つめ、そこに揺るぎない光を見て取ると、ひとつ小さく溜め息をついた。
「……かしこまりました」
「景麒……」
 陽子の顔が花のようにほころぶ。
 そんな主を見ながら景麒は、ただし、と付け加えた。
「主上の『心配するな』は信用なりません。――私も立ち会いましょう。そうすれば主上も無理はなさいますまい」
「しかし景麒、それではお前が――」
 案ずる響きを含んだ王の言葉を麒麟が遮った。
「私が居ない時には決しておやりにならないと、約束できますか?」
 陽子はしばらく苦い顔で視線を宙にさまよわせた後、渋々といったていで承諾した。
「約束する。ただし景麒、お前も祥瓊や鈴には喋るなよ。無用な心配は掛けたくないからな」
「御意」
 薄く微笑んで、景麒はこうべを垂れた。
 立ち上がり、退去の辞を述べて踵を返した景麒を陽子は小さく呼び止めた。
 翠と紫の視線が交錯し、その翠がふわりと細められた。
「ありがとう、景麒」
 陽子は心からの感謝を込めて微笑んだ。



 翌日の昼下がり。
 景麒は驃騎に乗って玻璃宮に降り立った。驃騎から降りると真っすぐに園林に向かう。
 祥瓊と鈴に会ったのは今し方。
 二人は、松伯に教えを乞う時間だから、と陽子を迎えに行くところだった。
 景麒は昨日のことも考慮し、今日はお休みすると二人に伝え、そうして自ら主の昼寝場所だというこの玻璃宮へ赴いたのだ。
 昨晩、景麒が部屋に戻ると既に日が昇り始めていた。一刻も休んでいないだろう陽子は、青白い顔を化粧でごまかし、言葉どおり朝議や執務に支障をきたさなかった。
 景麒はそれをはらはらと見守っていたのだが、流石に松伯の授業に遅れないというあの言葉は守られなかったようである。
 景麒は足早に回廊を通り抜け、園林へ出た。
「――――」
 心地よい風が吹いていた。
 太陽の光は暖かく辺りを包んでいる。池の水面はきらきらと輝き、美しい鳥が囀り、花々は咲き乱れていた。
 しかし、そんな楽園のような美しい景色よりも何よりも初めに景麒の瞳に映ったのは――……
「主上……」
 陽子は、小さな花が満開に咲き誇る木の下で心地よさそうに眠っていた。
 景麒はそっと陽子に近寄り、その傍らに膝をついた。
 木漏れ日の下で眠り続ける主の顔はあどけなく、昨日とは打って変わって穏やかな寝息をたてている。
 景麒は呆然と主の寝顔に見入っていた。
 どれ程そうしていただろうか、陽子がふいに微かに動き、微笑みを浮かべたまま何事か呟いた。
 唇の形でそれを読み取った景麒は驚きに目を見開いた。
 しばらく陽子の顔を見つめ、ふっと苦笑する。

 先代の王、景麒の前の主――諡を予王という。
 予王は景麒に恋心を抱いていた。
 景麒を愛するが余り、宮から、国から女を追放した。
 景麒にはずっと、その愛だの恋だのというものの理解に苦しんでいた。
 なぜ、たかがそんなものの為に天意に背き、民の、己の命を捨てることが出来たのか……景麒には不思議で仕方なかった。
 しかし――……
(主上、私にも分かったような気が致します……)
 景麒は天に召された前の主へそう告げた。
 目の前で安らかに眠り続ける彼の大切な現在の主が呟いた言葉は、
 ――ケ…イ…キ……――
 景麒は微笑みを浮かべ愛しい少女を見つめた。
 その艶やかに赤い髪を一房絡ませ口づけ、もっと朱いその唇に口づけた。
「あなたになら、できるでしょう……」
 達王の時代より伝わる慶の宝――あの剣を従える者は、まぎれもなくあなたなのだから――

 玻璃宮に一層明るい陽光が注がれる。

 この国を統べる主従は、つかの間の幸福な空間に身をひたしていた。
CLAP