未だ見ぬ花

慶東国王――景。

その号を持つ者しか扱えぬ宝刀は、持つ者に過去・未来・千里の彼方まで見せる呪力を秘めている。
現在の景王である陽子は、その夜久しぶりに刀が見せる夢を見ていた。

自らへの戒めにと鞘を失くしたままの刀は、時々暴走して主に不快な幻を見せることもあったが、この日は様子が違っていた。

夢の中で陽子が立っていたのは、海の見える木造建物の中。
時代がかった長い廊下は随分と開放的で、対岸の棟までが見渡せる。
視線を彷徨わせたそこに見知った人影を見つけ、陽子は「あ」と驚きを零した。

今となっては懐かしい着物に袴――顔形は別人だし、年も少し若いような気がしたが、彼が纏う独特の空気と存在感で間違い無いと思った。

それは陽子が尊敬する同郷の大先輩

雁州国王――延。

その号を持つ男の、日本に居た頃――小松尚隆としての姿だった。






小松は、本当に小さな国だった。
そもそも瀬戸内の内海などというものは、大小様々の島が無数に点在しており、その地形柄多くの豪族たちが割拠してきた土地である。
多くは海賊の末である瀬戸内の諸領主と言えば、血気盛んで勇を尊ぶ。
それでもこれまで戦乱に明け暮れる事無く平穏無事を過ごしてきたのは、同じ海の民として互いの尊厳を認めていたからだ。

「…奴らが違うとは言い切れんがな」

館を出て裏手の畦道をぶらぶらと歩きながら、尚隆はそう一人ごちた。

世の中は戦国乱世に入り、各国の大名は周辺諸国を切り従えて京の都を目指している。
この日の本の国のから見れば、小さな瀬戸内の小さな小さな国。
もう直この国も、最強の水軍を誇る村上氏族に滅ぼされる。
悲観では無く、それは単純な未来図だった。
国力の差は明らか。戦力も桁違い。
国主である尚隆の父は先祖代々の土地を守ろうと徹底抗戦の構えだが、気持ちの問題ではないのだ。

最早、弱肉強食の時代である。
いつか、村上よりももっと大きな勢力がこの天下を統一する日だって来るのかもしれない。

それを待たずして、小さな自国しか見えていない父も、それを支える母も、兄弟たちも、小松の血に連なる自分たちは、一族郎党皆殺しになるだろう。
それは、抵抗しようが降伏しようが同じこと。
国主になるべく生まれて育てられてきた尚隆に、今更自分の命を惜しむ余地は無い。

目下の問題はただ一つ――

如何にして、国そのものである民を生かすか――だ。

「ぼんくら若様には、些か荷が重いな」

そう苦笑して、獣道を登っていった。
殺すよりも、生かすことの方が難しい――
当たり前のことが、この土壇場になってこんなに重い。

「お前も、繋ぎたかった命の一なのだが」

坂を上りきり、分け入った茂みの先に、一本の老木が佇んでいた。
尚隆はその幹に手を当てて、苦く笑う。
せめて、一度なりとお前が咲かせる花を見てみたかった――と。



陽子の夢の中で、滅びに瀕した小国は刻々とその命をすり減らしていく。
領主館への夜討ち、領主の死、その跡を継いだ若様――

そして新しい国主は、ほんの数日で背負うべき国を失い、生かす筈だった民を喪い、新たな国――そして民を、目の前に額づいた麒麟に求める。
別天地である雁に向かうに当たって、もう二度とは戻れぬ祖国に未練は無いかと問われ、尚隆はふと館の裏山を見上げた。

「花をな――見たかったのだ」

怪訝な顔をする麒麟に向かって笑い、簡潔に説明する。
数年前に見つけた桜の古木――山肌が削られて根が露になり朽ち掛けていたのを尚隆が気紛れに世話をした。
植物に詳しい人間の話によれば、それはひどく珍しい種の花を咲かせる桜だという。
桜は桜でどれも同じなのではないのか、と首を傾げてしまうくらいの尚隆には理解出来なかったが、貴重な木だから大切にお世話なさいませ。と言われれば捨て置くことも出来なくなった。

「徐々にだが生気も取り戻してな、今年あたりは念願の花を見れようかと楽しみにしていた」

何もそんなに花自体を愛でたかった訳では無い。
ただ、朽ちかけた所から見事に花まで咲かせた姿を見たら、何かが変わるだろうか――そういう予感と期待があっただけだ。

「――まあ良い。お楽しみは後に取っておくとしよう。新しい国が平和になれば、その国をあの桜でいっぱいにしてくれる」

それは密かな野望――そして、約束。
彼の半身たる麒麟立会いの元、滅んだ国と民に手向けた――誓い。





目が覚めた陽子は、傍らの宝刀を眺めた。
なぜ今になって五百年以上の前の尚隆を見たのかと不思議に思ったが、季節は春――遠い故国では桜が咲き揃う頃だと思い出して小さく笑った。

もしかしたら、あの大王朝を統べる延も、昨夜は故国を懐かしんでいたのかもしれない。

朝一番に会い、朝議の後の予定を淡々と説明する仏頂面の麒麟を遮って、陽子はふと思いついたことを悪戯顔で告げた。

「いや、今日は路木に祈ることにしよう」

王宮にある国の基となる里木である。王が祈れば翌年には国中の里木に新しい家畜・穀物の種を実らせることが出来る。

何度か訪れた雁でも桜は見かけなかったから、尚隆はまだその時期では無いと思っているのだろう。それとも、ただ単に雁の気候が桜に適さないのかもしれない。
ならば故国とほぼ同じ気候である慶で、尚隆が見たかった桜を咲かせて見せよう。

平和の象徴とも言えるその花を見て、民が心癒されるのなら、尊敬する延の勘気も仏頂面も何ほどの物では無い。

「……どんな顔をされるか、楽しみだ」

数年後、満開に咲いた桜の下に招待して驚く延を想像し、陽子は心からくすくすと笑った。

二度と返れぬ故国で、滅びと再生を潜り抜けた筈の、未だ見ぬ花に想いを馳せて――
CLAP