花見酒

日差しが暖かくなり、川の氷が溶け、土地が息吹出すこの季節、人々は厚い衣を脱ぐのと同様に、どこか軽快な陽気さを見せる。

暖かくなると気分も浮き立つというのは、どこの世界のどこの国でも変わらないらしい。
いや……この国は比較的気候が穏やかなので平和なものだが、北の国では食料よりも暖を取ることの方が死活問題だと聞くから、春の訪れは最も喜ぶべきものだろう。

そんなことを考えながら街の大通りを眺めていた陽子は、ふと人通りの中に見知った人影を見つけた。

「延お……風漢殿!」

危うくいつものように号を呼びかけ、慌てて偽名に訂正する。
風漢と呼ばれた男は辺りを見回して、やがて亭の二階から手を振る陽子に気づくと、軽く手を上げてそれに応え、同じ店の入口をくぐった。





「陽子、倭国の”粋”な酒の飲み方というのを知っているか?」

先ほど陽子が居た部屋で、卓を挟んでの会話である。
ちなみに、この亭はまだまだ復興途上の慶国・堯天においてさえ中ランクの店だったが、大国雁の王である尚隆がそれを気にした様子はない。

そもそも、こうして普通の旅人の格好をし、偽名を使って諸国をぶらぶらするのは尚隆の趣味のようなものなので、陽子も遠慮せず贔屓にしているこの店に誘えたのだった。

「どうだ、陽子」

酒も大いに進み、二人とも適度に酔っている。
手に持った猪口を軽く上げて急かすように聞いてくる風漢――延王・尚隆に、景王・陽子は苦笑するように首を横に振った。

「いえ、お教えくださいますか?」

陽子の言葉に尚隆はニッと太く笑んで、露台の方を振り返った。

「お前はどうだ、六太」
「――なんだ、バレてたのか。相変わらず勘だきゃぁいいのな、お前」

そう言ってひょいと身軽に窓から入ってきたのは金色の髪の少年――延麒・六太だった。
こう見えても、尚隆と共に500年以上も国を支えている麒麟である。
似たもの同士のこの主従のことだから、六太もいつものように宮を出奔した主を連れ戻しに来たというより、自分も優秀な官たちから逃げてきたというのが本音だろう。
金波宮でもよく見られる光景なだけに、陽子も大して驚かずに六太と挨拶を済ませた。

「で、どうなのだ、六太?」

六太も卓に加わってその辺りの物をつまみ始めると、尚隆は再び聞いた。
どうやら常に無く上機嫌のようで、笑みを絶やすことなく答えを待っている。
それと対照的に眉を顰めた六太は、大仰にため息をついた。

「俺も陽子もあっちに居た頃はまだ酒を飲むような年じゃなかっただろーが」

だから知ってる訳無い。
そう言い切った六太は、だが……と続けて悪戯っぽく笑った。

「お前の言いそうなことなら分かるぞ。――花見酒、月見酒、雪見酒……こんなところか?」

お前って以外と風流なもんが好きなんだよなぁ…と一人ごちた六太に、この日初めて尚隆の眉が顰められた。

「なんだ、図星当てられたからって拗ねるなよ」
「誰が拗ねるだ、酒の味も分からんお前に言われたくは無いわ」

相変わらず仲の良い主従のやり取りに、陽子は堪らず噴き出した。
くすくすと笑いが止まらぬ陽子に、尚隆と六太は怪訝な顔を見合わせる。

「お前が似合わないこと言い出すからだぞ」
「五月蝿い。花見酒ほど粋なものは無かろうが……陽子もそう思わんか?」

水を向けられた陽子は、何とか呼吸を落ち着けて、ええ、と答え微笑んだ。

「確かに、綺麗な花を愛でながらお酒を飲むと、とても美味しいと感じます。――だけど私は、こうやって楽しい人たちと一緒に飲むお酒が一番美味しいと思いますね」

粋とか風流とかとは少し違いますが……そう言いながらも全開の笑顔を披露した陽子に、言い合っていた主従はぴたりと動きを止めた。
そして、窺うように視線を交わして、苦笑するようにため息をつく。

「まあ、陽子に免じて今日は見逃してやるか」
「珍しい花を見せてもらったからな。今から河岸を変えようかとも思っていたが、たまにはこういうのも悪くない」

陽子も穏やかに笑って、二人の杯に酒を継いだ。
暖かい春風が微かにほてった三人の頬を撫でていく。
世界も国も隔てて尚変わらぬものに、陽子は静かに微笑んだ。
CLAP