導きの海

寄せてはかえす。

規則正しいその音を、人は「懐かしい」と感じるのだと、知ったのはいつだったか。
それは原始の鼓動の音。
母の中に居た時に、誰もが聞いた胎動。

 くすり……
 自然と笑いが漏れた。

確かにいまこの時「懐かしい」と思い聞き入る音。
しかし、それは先に上げたような抽象的な理由ではない。
この世に生を受けた場所。あちらの町。
海のあるあの町で十数年暮らした。
寄せてはかえす波の音は、あちらと同じもの。
その現実の思い出が懐かしい。

海にこんな気持ちを抱くのは、あちらを懐かしむにせよ、母の胎内を懐かしむにせよ、あちらから流された者だけかもしれない。
卵果には、胎動など無いであろう。

 あちらでは、誰もが聞いた母の鼓動。
 こちらでは、誰も知らない懐かしさ。

 孤独を――象徴するかのようなこの感情。


「そんな薄着では風邪をひくぞ」

唐突な声に、振り向くより先に苦笑が漏れた。

「前々からお聞きしたかったのですが、そのタイミングの良さは五百年生きたら自然と身に付くんですか?」

「いや、それは俺の天性備わった器量だな」

相変わらずの自信に溢れた言葉が、今はひどく心地良かった。

「よくよく露台の好きな奴だな。……あちらに帰りたいのか」

騎獣から下りて目の前に立ったその人に、そうではないと首を振る。

「時々、自分のこれから生きる道があまりにも不確かで、不安になる時があります。――私の未来とこの海は似ている。この海をずっと泳いでいけば、どこへ辿り付くだろうと考えたことはありませんか? 実際にはただ世界の端にぶつかるだけかもしれない。だけど違うかもしれない」

「……ただ似ているものを眺めても、何の解決にもならん」

珍しく真面目に答えたその言葉の重みに、思わず虚海の彼方を眺めた。

「その通りかもしれません。波の音を聞いても、胎果だということを強く思い知らされるだけ」

「標が必要か」

「標?」

波風が強く吹いて、視界を赤い髪が埋めた。

「その闇を導くものが必要か」

そう言うその人の瞳は深い深い色を湛えていて、


「欲しければ、手を伸ばせ」


言霊の力に押されるように、手を伸ばした。
海に向かって。
先の見えぬ、自分の行先に向かって。


そして、光が生まれた。


伸ばした手の中に現れたと思ったそれは、次第に輝きを増し、水平線から昇った。

「太陽……」

「標は見付かったか?」

何事も無かったかのようにいつもの太い笑みを浮かべるその人は、昇ったばかりの朝陽に照らされ。
湧きあがる感情をのせたまま、彼の力強い笑みに、導きを掴んだばかりの手を伸ばした。
CLAP