それは、言うなれば一面の『黒』だった。
 殺意や憎しみに身を任せる時、血の色みたいに目の前が真紅に染まった時期もあったが、いつ頃からかそれも無くなった。
 色彩なんか欠片も無い――光の入り込む余地も無い、全くの『無』。

 そこに、彼自身の人格や心などといったものは一切無かった。
 人の心を捨てて、ただ殺す為だけの一振りの剣のように――

「もし、俺がおかしくなったら、その時は……」

 それは、彼の心からの願いだった。

 その時は、お願いだから……
 俺がただの『憎しみ』の入れ物のように……人殺しの獣になってしまう前に。

 祈るような言葉は、幸いにも彼の師匠に受け入れてもらった。
 けれど、その裏側にあったもう一つの願いは。

 でも本当にそうなってしまった時には――
 その時は、誰も傍にいないで欲しい。
 間違って、この手で大切な人を傷つけないように。

蔦の姫 -約束-

「――静蘭様!」

 その日もは、いつものように藍本家から与えられた役目を全うする為にせっせと動いていた。
 毎日毎日甲斐甲斐しく手製の菓子を作って差し入れる――それはどんな日だろうと変わらないし、しようと思えば槍が降ろうがやり抜くだけの自信はある。

殿、今日もご苦労様です」
「いいえ、とんでもございません」

 笑顔で交わすこのやり取りも、もう慣れたものだ。
 がこの役目を帯びて茶州に来てから、もう数カ月が経つのだから。

「毎日大変ですね」
「そんなことございませんわ」

 何気ない会話の裏で、は改めて静蘭を観察する。

 彼は最初の印象こそ取り立てて良いものでは無かったが(それはお互い様だろうが)、最近では上手く付き合えていると思う。
 尤も、そこに目的である筈の恋愛感情などは皆無である。
 彼の正体を知り、本性を見抜いているに対して、今さら取り繕わなくて良いというのが向こうの心情だろうか。
 何より腹黒元公子に『まあまあ使える便利な駒』として認識されている自覚がにはあった。
 これで彼に恋でもした日には悲惨だったのかもしれないが、生憎こちらにもそういった感情は存在しない。

 それでも利害関係もあってか、最近は素の優しい面も大分見せてくれるようになったし、総合して魅力的な男性だとは思う。
 思う……が、恋情などというものは理屈では無いらしい。

 そう、理屈で感情を制御出来たなら、きっと静蘭を好きになって、何も問題無く役目に取り組めただろうに。

 しかし、なぜ今になって藍家として姻戚を結ぼうというのが静蘭なのか……それだけはにも分からなかった。
 本家の――三つ子の兄たちの意図は、未来を見定める術を扱うであっても、時々理解出来ないことがある。
 けれど、そういう時でも結果と理由は後からついて来たから、は兄たちの真意を図ろうとしたり、ましてや疑問を抱いたりなどという無駄なことはしたことが無かった。
 ――そう、今までは。

「今日は乞巧奠なので、月餅にしてみました」

 憂鬱な気分を振り払う為に、は気を取り直して持ってきた菓子を差し出した。
 今日は人出も多く、市場を見て回るのも大変だったので、いつもより労力のかかった力作である。

 乞巧奠は元は神事らしいが、現在では天の川伝説をもつイベントだ。
 彩雲国では州を問わず、家族や恋人と外で星を見て過ごす日として知られている。
 月餅と言えば中秋節だが、"月"と"天の川"が近いと考えた甘味処の策略か、数年前からちらほらと見かけるようになった。
 別に他意は無いが、便乗すればメニューを考える手間が省ける――その程度の選択である。

 にこりと微笑んで差し出せば、礼と共に受け取る……それが常であったのだが、しかしこの日の静蘭はゆっくりと瞬きして『乞巧奠……』と呟いた。

「どうかなさいましたか…?」

 牽牛と織女が天の川を渡って年一度の逢瀬をするなどという色ボケた伝説と現実主義的な静蘭はどことなく似合わなくて首を傾げれば、彼は何でもないと首を振って、常に無い言葉を発した。

「燕青の所には持って行かないのですか?」
「っ……この後で、州牧室には持って参ります」

 別に取り立てて不自然なことでも無く、いつもそうしていることだ。
 はお世話になっている可愛らしい州牧たちに差し入れをしているのであり、それを誰が食べようが口を挟む筋ではない。

 ……と、それが建前であることを含めこちらの心中など全てを知っているにも等しい静蘭が、なぜ今日に限ってそんなことを言うのか……。
 羞恥の余り上った血がすっと冷めていくようだった。

「乞巧奠と……燕青が、何か関係あるの?」

 思わず普段の猫かぶりも忘れて敬語抜きで話せば、静蘭も数瞬の沈黙の後「」と呼び捨てで名を呼んだ。

「あのバカの昔のこと、何処まで知っている?」
「……貴方には申し訳ないけれど、殺刃賊とのことは細かく調べました。燕青の家族のこともその時に……」

 そう、本家から指示が来て、静蘭のことを調べて……その時に初めて知ったのだ。
 太陽のようなあの男に、驚くべき暗い過去があったことを。
 『昔、悪の秘密結社をぶっ潰したことがある』などとそれは大ざっぱに聞いたことはあったが、その経緯までは知らなかった。

 は、経験から来る独特の嫌な気配に背筋を強張らせる。
 静蘭が今になって殺刃賊の話を出した……その、意味は。

「悠舜殿が言っていた。毎年乞巧奠になると決まって姿を消すと……夜、は危ない」

 言わんとする所の朧気な意味を理解したは、ゆるゆると目を瞠った。

「危ないって……だって、燕青は……それにもう………」

 思ったよりも動揺しているらしく、自分でも何を言っているのか分からなかった。
 ただ、無性に追い立てられているような焦燥感が胸の奥をざわりと撫でる。

 静蘭は顔を顰めたまま溜息をついた。

「理屈じゃない。その証拠にあの馬鹿は今も……絶対に剣だけは持たない」
「っ!!」

 抜いたら最後だと――それほどの闇を、抱えているというのだろうか。あんなに太陽みたいに笑うその裏で?

 無意識に震える肩に、静蘭が手を置いた。
 燕青と同じ地獄を這い出した、無二の親友……

「静蘭、燕青は………」

 縋るような気持ちで視線を上げれば、真剣な双眸とぶつかって頷きを返された。

「恐らく放っておくのが一番だろう」
「でもっ……!」
「だが……あいつの闇を何とか出来る人間が居るとすればそれは………」

 最後まで聞き終わる前に、は身を翻していた。
 背後から「裏山の麓だ」と声がかかり、軽く振りかえることで了承の意を示す。

「……馬鹿燕青……!」

 何やら非常に腹立たしくて、何がこんなにと思う余裕も無く、は罵倒した相手の元へ一心に駆けた。




 藍姫として、昔から影に守られることは当然だった。
 だから、武芸は出来ずとも自然と周りの気配を読むことだけは出来るようになった。

 その普通よりは鋭いはずのでも僅かに感じ取れる程――
 決して隠れている訳でもないその男の気配は、それほど闇に同化していた。
 闇そのものとも言える深い虚無――……

「………燕青……?」

 相手に対して、これほど弱々しい呼びかけをしたことなどない。
 けれど矜持の高いでも、ただ名前を呼ぶというこの行為さえひどく戸惑われた。

「……来んな」

 返って来たのは、短い拒絶のみ。
 視線さえも返らない。
 木の幹に背を預けて座ったその体は鞘に入った剣を抱えていた。
 虚空を見据える漆黒の双眸と、闇に溶け込み霧散している憎悪――殺意。

 気圧されながらも更に一歩近づいたに、燕青はゆっくりと顔を向けた。
 視線が合わさった刹那、ぞくりと全身に寒気が走る。
 それは、腐れ縁のも見たことが無い顔だった。
 むしろ何かの間違いでは無いのかと思うほどの無表情……けれどそれとは真逆に伝わる抜き身の剣を急所に突きつけられているような本能的な恐怖。

 強い眼差しは濃密な畏怖となってに襲いかかる。
 すぐにも逃げ出したい程のその威圧感の前で、けれどは更に歩を進めた。

「燕青、こんなところで何して……」
「今すぐ帰れ」

 取り付く島も無く切り捨てられたが、はぐっと奥歯を噛んで睨み返した。

「イヤ」

 互いの表情が固まったまま見つめあうこと数秒、少しだけ緊迫感が薄まり、燕青の顔が僅かに歪んだ。

「帰ってくれって、頼むから」
「イヤったらイヤ! 馬鹿じゃないの!?」
「なに……」
「そうやって毎年毎年何かのお祭りみたいに鎮めて、この先ずっと自分に怯えて生きていくつもり!?」
「ッ!!」

 刹那に膨れ上がった圧力が肌を刺し、気付けばは近くの木の幹に叩きつけられていた。
 振動に驚いた鳥たちがけたたましい鳴き声を上げて一斉に飛び立つ。
 それを何処か遠くに聞きながら、は目の前の漆黒の双眸を見つめた。

 憎しみ、怒り、殺意……そしてそれ以上の何かに耐えかねて壊れる寸前のような苦吟。

 燕青の片手でも余るの首は、もう少し力を入れれば簡単に呼吸を止められるだろう。
 そんな状況の中でも、肉体的な苦しさよりも、向かい合った瞳に胸を締め付けられた。

「何だよ……何なんだよ、お前はッ……!!」
「――謝らないから! 心の中にずかずか踏み込んで踏み荒らして……て、あなたは思うかもしれないけど、私は謝らない。だって……!」

 間近で叫ばれた言葉に、噛み付くように返した。

 燕青が何に怒っているのかは分かっているつもりだ。
 誰だって、図星を指されれば腹が立つ。
 けれど、がそれを理解したのは藍家の術者だからでは無い。
 ただ、燕青をずっと見ていたからだ。

 燕青にとって乞巧奠が何かなどは知る由も無いが、きっとこれは儀式なのだろう。
 家族を殺され、復讐の為に修羅になり、仇を討ち果たした――けれど、目的を成し遂げたって、一度落ちた闇から完全に抜けられるはずも無い。
 燕青は自分の中の狂気という闇を、この乞巧奠の日に一人でじっと封じ込めて来たのだ。
 一年に一度の儀式のように。
 いつ封印が解けるかもしれにないという恐怖と背中合わせになりながら。

 静蘭が放っておくのが一番だと言ったのは、他人にはどうすることも出来ないからだ。
 分かってはいたが、しかしは放っておけなかった。
 下手に掻き回せば余計に燕青を傷付けかねないと分かっていながら、こんな闇の中で一人で居る燕青を放っておけなかった。

 物事を観察し状況を判じて未来を読むべき術者――そうであるべきをこんな風にしたのは、間違いなく燕青であった。
 だから、悪いのは燕青だ。

「だって、先に踏み込んできたのはあなただもの!」

 偶然の出会いに、先に心乱されたのはどちらかなんて……本当は分からないのかも知れない。
 それでも。

「私の中にあっさり入り込んで大きくなって占領して……悪いのは燕青なんだから!」

 向かい合った視線が揺らいで、僅かに漆黒が薄れる。
 は湧き上がる腹立たしさのままに畳み掛けた。

「馬鹿燕青!! 一人でこんな……っ、馬鹿じゃないの!?」

 ぼろぼろと涙が零れても、燕青が目を丸くしても、は口を閉じなかった。

「そんな顔、全然似合わないんだから!!」
「………」
「笑わないあなたなんて、ひげもじゃの時よりもっとずっと不気味よ!!」
「………オイ」
「本当に大馬鹿! 人の気も知らないで!!」
「………オイって」
「本家からのお役目をちゃんと果たせないのも、兄上のお考えを疑うのも、全部全部馬鹿燕青のせいなんだか――!!」

 罵倒は最後まで言葉になることは無く、無理やり重なった燕青の唇に吐息ごと奪われた。
 首に掛けられていた大きな手はいつの間にか後頭部と腰に回され、逃れようと身を捩ることも出来ないままに深く重ねられる。

 やがて離れた燕青の瞳は、もう闇に沈んだものではなかった。
 いつもの強い光を宿した瞳に自分が映っているだけで、またの目から涙が溢れる。

「……知らねーかんな」
「……燕青…?」
「絶対近寄って欲しくないナンバーワンの癖にのこのこやって来てあっさり枷外しやがって……もうどうなっても知らねー! やっぱヤダっつっても、返品不可だかんな! 責任取れ、責任!!」
「返品不可って……責任って……」

 それって普通、女側の言い分では無いだろうか。
 呆気に取られているに、化け物並みの早さで回復したらしい燕青はにやりと笑った。

「で? 何が俺のせいな訳?」
「は……!?」
「なんで俺のせいで、静蘭の嫁になる役目が果たせないんだよ?」

 はぱくぱくと声にならない口を動かし、ついで落ち着けと自分に言い聞かせた。
 たかが燕青ごときに振り回されるなんて自分の矜持が許さない。
 けれど所謂抱き締められたままのには、見つめてくる双眸が真剣だったこともあり、いつものように誤魔化すことは出来なかった。
 出来たのは、八つ当たりのようにその瞳から逃れて自分からも抱き返すことだけ。
 そしてあくまで燕青のせいにすることだけだ。

「……責任とやらをとって、どっかのお馬鹿を見てなきゃならないからでしょう」

 反論してくるかと思いきや、意外なことに体に回された腕に力が篭った。
 くぐもった声が、切実な響きを宿して頭の上から降る。

「だったら、もしもの時は止めてくれ――
「……ええ」
「ああでも、本当にヤバかったら誰よりも真っ先に逃げろ!――頼むから」
「……分かったわ」
「約束な」
「ええ、約束」

 それは、互いに新しい枷を付ける儀式のようで、稚いままごとのようでもあった。
 けれど、二人にとってはこれ以上無いほど大切なものだ。

 の視界の端で燕青が抱えていた剣が無造作に転がっていた。
 強がってはいてもまだ僅かに震えているように思える燕青の体を、それが見えないように強く抱き締める。
 応えるようにもっと近く頭を抱き寄せられて、はゆっくりと瞳を閉じた。

 自分の想いを――自分にとっての燕青という存在を、今ようやく認める為に。
 そして交わした約束を、生涯この温もりの傍らで違えない為に。

 乞巧奠の日、夜空に掛かった天の川の下で。
 牽牛と織女のようなロマンスとは程遠い自分たちに、自嘲よりも自然な笑みがこぼれた。
CLAP