州城に届けられた手紙を見て、燕青はあんぐりと口を開けた。
今日も今日とて、同僚や上司と共に仕事は深夜までずれ込んでいた。
秀麗に作って貰った夜食のおにぎりを頬張って一服していた所へもたらされた突然の手紙に、皆何事かと腰を浮かしかけたが、燕青の何とも言えない表情に首を傾げる。
州牧専属武官である静蘭は、呆けている燕青よりも手紙を持って来た部下である武官に声を掛けた。
「何事だ? こんな時間にこの馬鹿に用があるなど、碌な人間とも思えないが」
「は、それが、門から怪しげな男が投げ込んで来たらしく……」
『怪しげな男』のいかにも怪しい行動に、その場の面々は閉口した。
当の本人である燕青が、微妙な表情をしたまま口を開く。
「『お前の大事な姫君は預かった』――って、俺、全っ然心当たり無いんだけど。州府の姫さんならココに居るけどなー」
後半の茶化した台詞に静蘭が冷たい視線を浴びせる中、報告に来た武官が神妙な顔で言った。
「燕青さん、とぼけてる場合じゃないですよ! あの人のことじゃ無いんですか?」
「ん?」
「ほら、今日の昼間、仲良く手を繋いで城に来てたじゃないですか。俺たちはてっきり、燕青さんの恋人だとばっかり……」
「仲良く…手を……?」
訝しむ燕青の横で、真剣な表情になった静蘭が眉を寄せた。
「――オイ、殿のことじゃないのか?」
言われた燕青は、虚を突かれたというように目を丸くする。
仲良く手を繋いでいたのではなく、嫌がらせの為に嫌がる相手を無理やり引っ張ってきただけだし、恋人どころか犬猿の仲であるのだが……周囲にそう見えなかったというのは何の因果か。
「……っの、馬鹿!」
ギリリと吐き捨てるや否や、鋼のように飛び出した燕青は、あっという間に州城の門を抜けた。
昼間、サボりの為に抜け出した時とは比べ物にならない速さで街路を駆ける。
笑った顔も何度も見た筈なのに、なぜか泣きそうな表情しか思い出せなかった。
はっと意識を取り戻して起き上がろうとした途端、激しい眩暈に襲われてその場で呻く。
今度は慎重に瞼を上げると、如何にもな鉄格子が見えて、は顔を顰めた。
両手両足を縛られた蓑虫のような状態では何も出来ないが、ごろりと転がって鉄格子の間から覗く月を見上げる。
「…………ふふ」
無性に笑いがこみ上げてきた。
燕青からの呼び出しに出向いたを待っていたのは、野盗とも言える類のごろつき連中で、は声を上げる間も無く、その場に昏倒させられた。
聞いたのは、「恨むなら浪燕青を恨むんだな」という言葉だけである。
余りにも分かりやすい展開で、その渦中に囚われの姫君宜しく捕まっているのが自分だなんて、泣けてくる。
しかも、燕青への恨みで捕まるなんて……何やら不本意な勘違いを受けているらしいことにも、理不尽な状況にも、腹が立つのを通り越して笑ってしまった。
そもそも、なぜよりによって燕青なんかからの呼び出しで、あんなに後先考えず飛び出して来てしまったのか……物事を観察し状況を判じて未来を読むべき術者であるがこんな浅はかな行動を取ったなど……育った家や藍本家に知られれば大目玉必定である。
まさか燕青が昼間のことを謝ると思った訳ではない。
ただ無性に――……
そこまで考えた時、不意に月明かりに影が差した。
それにしても妙な形の影だ――兎の耳のようなものがぴよぴよと揺れている。
はっとその意味に気付いて顔を上げたの視界に、逆光になったそれらが揺れていた。
よくよく見ると、大きな鳥の羽である――
「――龍蓮!」
「無事か、姉上」
カタリと鉄格子の間から華美な宝飾の短剣が落とされた。
はそれににじり寄って、後ろ手で手の縄の切断にかかる。
「……龍蓮、どうしてここに? 貴陽に帰ったのでは無かったの? まさか本家が……」
「違う。たまたまの通りすがりだ。心の友その一とその二に会いに来たら、姉上を見つけた」
相変わらずの物言いをするすぐ下の弟に、は手を動かしながら苦笑した。
昔は、弟の龍蓮のことが大嫌いだった。
この紛れも無く天才である弟は、が幼い頃から苦労して叩き込まれたものを生まれながら完璧な形で持っていた。
が一生懸命に考えて考えて…考え抜いた末に行き着いた『予言』としての『推論』も、藍龍蓮の手にかかれば、ただの『未来』でしかなかった。
――「世界の新の姿を見るのじゃ、」
ずっと言われ続けて今では空気のように当たり前になった言葉――まさに龍蓮には、それが見えている。
それは焼け付くような焦燥と羨望……嫉妬という名の醜い感情を、に与えた。
けれど、年を重ねるにつれて、同じように諸国を放浪する身になって、分かったことがある。
天才と言う名の孤独……それはの想像も及ばない世界だけれど、よりも年下の弟はその闇に囚われている。
その苦しみに触れて以来、兄弟姉妹の中でもお互い一番近くに居るようになった。
は龍蓮に比べても遥かに箱入りで世間知らずだし、自分のことだけで精一杯だ。
龍蓮がの為に本家や旅の途中で何かと動いてくれているのは知っているが、詳しい内容は知らない。
それに、利用価値のあるの身を藍家が守るのは、動かしようの無い事実だった。
だからこそ、考えても無駄なことをは考えない。
以前燕青に言われたことがある――
「――守られることを当たり前だと思うのは、傲慢なのかしら?」
歯噛みしたい気持ちで思い出した言葉を紡げば、龍蓮の気配が微かに揺れた。
「どうしたのだ、姉上らしくも無い。答えの出ている問いを私に尋ねるなど」
は自嘲した。
全くもって弟の言う通りである。
答えは簡単――傲慢だろうと何だろうと、の考えは変わらない。
迷いも戸惑いも疑問も――その一瞬の隙と油断が判断を鈍らせる。
の唯一にして絶対の武器である『判断』を。
それでも考えてしまうのは――……
「……浪燕青か?」
「っ! ――……考えが違いすぎて腹が立つだけよ」
「腹が立つのは、相手に理解して欲しいからであることが多い」
「違うわ! だって私にもあの男の甘い考えなんて理解できないもの!」
「違わない。理解できずに苦しむのも、理解したいが故だ」
「そんな…こと無いわ。だってあの男とは相性最悪の犬猿の仲なのだし、大体っ……!」
「――姉上」
龍蓮の抑揚の無い冷静な声が、最後通牒のようにその言葉を告げた。
「私が見たところ、姉上が浪燕青に対して感じているのは、嫌悪では無く愛情だと思うのだが」
「………………あ…い……?」
その突拍子も無い単語が脳で理解されるに至る前に、唐突に反対側の入口が派手な音を立てて蹴破られた。
開けられた扉の向こうからは、いつの間にか喧騒が聞こえる。
「何だ、女。テメェいつの間に……!」
折悪く縛られた縄を切り終えた所であったの手には、切った縄の切れ端と龍蓮がくれた短剣――
「くっ……!」
何とも間の悪い展開に、は手にあった縄を飛び込んできた男に投げつけて扉へ走った。
しかし、隙を突いて出た所までは良いが、扉を潜った瞬間に目の前に強い衝撃が走る。
息が詰まったは、ついで手首を捻り上げられて腰を引き寄せられ、強く拘束されて呻き声を上げた。
折角手元に残しておいた短剣も奪われてしまい、歯噛みする。
「逃げようとするなんて悪い姫君だな、お嬢さん。オラ、浪燕青! このお姫様がどうなっても良いってのか!?」
「っ、……!」
拘束されたまま苦しさに顔を顰めつつも何とか目を開くと、目の前に野盗相手に大立ち回りをしていたらしい燕青が拳を上げたままの体勢で固まっていた。
大きく瞠られた目がなぜか胸を締め付けて、思わず目を逸らす。
しかし、すぐに拘束された力が強まって意識が霞んだ。
「やめろ……っ!!」
「燕…青……」
燕青のこんなに焦った声なんて初めて聞いた気がする……思う傍らで、憎々しげな舌打ちが聞こえた。
「――チッ、卑怯なのは十八番ってか……分かった、好きにしろよ。その代わりその女をとっとと離しやがれ」
あっさりと抵抗を止めた燕青に、腕を緩められたはふらつく頭を押さえて目を見開いた。
こんな時まで綺麗事を通そうとする燕青が無性に腹立たしい。
「馬…鹿じゃないの、燕青! さっさと逃げなさい! こんな人数相手に無抵抗なんて、いくら図太い貴方でも死ぬわよ!」
「うるせぇ。女を捨てて逃げるほど落ちぶれちゃいねーよ」
「何カッコ付けてるの!? そもそも貴方のせいなんですからね!」
「だからこうやって助けに来ただろ?」
「それが恩着せがましいって言ってるのよ!」
「お前のは、それが傲慢だっつーの」
呆れたような声音にカッと頭が熱くなった。
苦しさが体の奥からせり上がって来て胸を焼く。
「…たしだって……私だって、好きで傲慢な訳じゃない…!」
泣いて堪るものかと瞼に力を入れた視線の先で、燕青の目が大きく見開かれる。
――「姉上が浪燕青に対して感じているのは、嫌悪では無く愛情だと思うのだが」
なぜこんな時に…というタイミングで龍蓮の言葉が蘇った。
ギリリと最後の抵抗のように奥歯を噛み締め、自分を拘束する腕に思い切り噛み付いた。
「っ、燕青……!」
一瞬の隙に、は無理やりに賊の戒めを振り払って、体ごと思い切り手を伸ばした。
指の先で自分を見つめる燕青の瞳に、の背後から剣を振り上げる野盗が映る。
ほんの瞬きの間の出来事だった。
が伸ばしたよりももっと力強く差し伸べられた手は少々強引に二の腕を掴んで引っ張り、その間に燕青の空いた右手が目にも止まらない速さで振り下ろされる。
軽い衝撃に息を詰まらせた頃には、の体は燕青によって受け止められた所だった。
「……っお前なあ…! 何つー無茶を……」
息を詰めていたらしい燕青が、強張った顔で眦を吊り上げた。
その背後には、先ほどまでを拘束していた野盗の姿……容赦無く叩きのめされたのか、意識は無かった。
は、燕青の真剣な表情に無性に泣きたくなったのを誤魔化して笑った。
「……結果的に上手く行ったから良かったじゃないの」
「っ~~~カーーッ!! お前ってそんなに無鉄砲じゃなかっただろうが!!」
地団駄を踏みそうな勢いで怒る燕青に、は不意におかしさがこみ上げてきた。
唐突に自覚してしまった。
とっさに燕青に手を伸ばしたあの瞬間……自分が何を思ってあんな行動を取ったのかということに。
「私もビックリだわ。燕青なら絶対助けてくれるって思ったなんて」
「へいへい、どうせ俺は……って、へ…?」
「私ってば、結構燕青のこと信用していたのね…」
「…………」
一頻り笑ったが顔を上げると、赤い顔で硬直している燕青と目があった。
その瞬間、ようやく自分が言ったことの意味を理解する。
「べっ…別に深い意味は無いわよ!? ただお人好しで人助けが趣味な貴方のことだから、きっとそうすると思って……!」
自分でも意味不明になりながらしどろもどろで言う台詞は、泣きたいほど情けなかった。
そのせいか、異様に顔が熱い。
「~~~~~燕青が悪いのよっ!」
「ぅわっ…! な…何だよ」
流石に顔が赤いとは指摘できなかった。
同じことを返されたらぐうの音も出ない。
「――帰ります。龍蓮っ!」
「……怪我は無いか、姉上」
入口の外で気配を隠していた龍蓮が、相変わらずの派手な衣装をはためかせながら静かにの横に並ぶ。
労わってくれる弟に答えながらも、早く燕青の目の前から逃れたくて背を向けたを、なぜかひどく驚いた様子の燕青が呼び止めた。
「、お前……龍蓮坊ちゃんが居たこと知ってたのか…?」
何を言っているのだろうと眉を顰めたは、当たり前でしょう、と答える。
「――他の護衛が居ることも?」
「影のこと? 自分を守ってくれる人たちを知らなくてどうするの? ……この際だからはっきり言っておくわ、燕青。彼らは私を守るのが務めで、私は彼らに守られて行動するのが務め――それに疑問を抱いたり、感謝したり申し訳なく思ったりはしない」
それは、自分の仕事に矜持を持つ者に対して失礼にも繋がる事だ。少なくとも、ならそんな偽善めいた同情はいらない。
「それを傲慢だって言われても、私の考えは変わらないし、貴方のことを偽善者だって言った言葉だって翻さない。だけど――」
口にするのは悔しい言葉だったが、言わないのはもっと悔しい。
「助けてくれて、ありがとう」
「…………元はと言えば俺が原因だし……ごめんな。今更だけど怪我とかしてないか…?」
心配げに瞳を撓ませて聞いてきた燕青に見えないように、は体を反転させた。
自然に緩んだ口元を手で覆って、今度こそ足を踏み出す。
そして思った。
自分は、思っていた程には燕青を嫌っていない――と。
「――さあ、どうかしらね。燕青と違って、私はか弱くて繊細ですから。まあ、この貸しは大きいと思ってちょうだい?」
「ぐっ……この上、借金の上に借りまで増えるのかよ……」
以前に聞いた燕青の師匠の話を思い出して、は声を上げて笑った。
「お似合いじゃない」
「言ってくれるじゃねーか」
いつものように憎まれ口をきくのは変わらなかったが、互いにそこに含まれるものが変わった気がする。
(読めない未来を楽しいと思うのは始めてかも…ね)
は術者として失格のことを思いながらも、穏やかに笑った。
運命やこの魂さえも雁字搦めで、自分の意思で動く隙間など無いと思っていただけに、いまこうして笑っていられる自分がひどく不思議だ。
それはまるで、この太陽のような男に似た大らかな奇跡のように。